第157話 営業課の美人同期とご飯を食べるだけの日常
時刻は19時と少し、早足で家路を急ぐ。鞄の中に忍ばせた小さな箱が跳ねる。
受け取りで遅くなってしまった、あいつはもう家に着いてるだろうな。
揺れる視界にスマホを映すと、やはりチャットが飛んできている。
『まだ〜?今日は残業なしって言ったじゃん〜!』
バタバタと手を振るスタンプが添えられたメッセージは、逆に跳ねる心臓を落ち着かせてくれる。
これから何が起こるのかは俺しか知らない。そう思うとじわっとした優越感、それとまだ全身には回っていない高揚感がゆっくりと頭を染めていった。
いつもやられっぱなしだから、小さな反撃は許されるだろう。
今思えば、決意してから俺の行動は早かった。2人で並んで帰ったあの夜、この日常を手放したくないと思ったあの瞬間、その翌日には来店予約を済ませていた。
思いつきで大きな買い物ができなくて何が社畜だ。
前はアイスを食べながら2人で歩いた道を1人で歩く。悲壮感はない。
『すまん、遅くなった。最寄り降りた』
『今はこの前アイス食べたところ辺りかしら、待ってるわね〜』
GPSでも取り付けられてんのか俺は。
相も変わらず頭の中を見透かすエスパー具合に呆れを通り越して笑ってしまう。
いつものように鍵を穴に差し込む。これから起こることを知ってか知らずか、クラゲのキーホルダーがいつもより楽しそうに揺れた気がした。
ドアを開けると和食の匂い……これは肉じゃがか。部屋が暖かく感じるのは外が涼しくなったからか、それとも。
奥からぱたぱたと足音を響かせて秋津が現れる。
「ただいま」
鞄の中身が悟られないよう、いつものように挨拶する。
彼女はしばしこちらをじっと見ると、口角を上げた。
「ん、おかえり。有くん!」
いつも通り、そのはずだが。
何だか違和感を覚える。それは普段家にいる時よりしっかり目なメイクをしていることだったり、余所行きとは言わないまでも、綺麗めな格好をしていることだったり、髪をサイドで編み込んでいることだったり。
たしか昼間は普通に流していたはず。
彼女が俺の変化に気が付くように、俺も秋津の変化には気が付くのだ。
はて、今日は何かの記念日だったろうか。
秋津のことだ、お祝いなら予め連絡をくれるはずだろうし。
手洗いうがい、腕時計を外してリビングへ戻ると秋津が近付いてくる。
「ん」
首元に近付く手、そういえばネクタイを外されるのにも抵抗を覚えなくなった。成長なのか甘えなのか。
ふと視線が合って、その綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。どきどきさせられるのは悔しいが嫌いじゃない。
長くて短い時間が流れて、シャツからネクタイがするりとこぼれ落ちる。
「ねね、有くん」
こともなげに秋津は話はじめた。手には俺へと贈ったネクタイを持ちながら。
くるりと反対を向くと、彼女はテーブルにちょこんと置いてある箱を手に取った。
俺が鞄に忍ばせた箱より一回り大きなその箱は彼女の小さな手には入り切らなくて。
「私たちもう長いじゃん」
こんこんと彼女の言葉は、まるで綺麗な泉から水が湧き出すように溢れ出る。
「そうだな」
出会ったのは学生の頃、それが何の因果か同じ会社に勤めて、同じマンションに住んでて、今では同じ部屋で暮らしている。
「もう事実上の妻と言っても過言ではないと思うんだけれども」
また突拍子もないことを言う。
というかそれを言うなら前から……なんて考えてしまうのは、野暮か。
「それはツッコミ待ちか?」
デコピンの構えをとると、サッと顔を逸らす秋津。反応速度がモンスターのそれじゃねぇか。
だめだな、真面目な話の時に。
「それで自称事実上の妻さんがどうしたんだ」
事実上というか、今からそれを本当にする予定なんだけど。
「だから、そろそろ有くんから苗字貰おっかなって!」
ひよりは手に持った箱を開ける。
中から現れたのは、つや消しされたゴールドで縁取られた腕時計。
気取らない程度に高級感があり、その洗練されたデザインは秋津のセンスの良さを物語っている。
「ねぇ、有くん。私とさ」
それを最後まで聞いてしまうのは何だか負けな気がして。
普段から勝てない彼女に、今日は譲ってもらわねば。
少し潤んだ瞳、部屋の照明を受けて光った唇に手を添える。
「待って、ひより」
まさか止められると思っていなかったのか、彼女は目を見開いた。
「え……?」
困惑の表情、断られてしまうのかと不安なのか目尻が垂れる。俺は急いで鞄に手を突っ込むと、掌に収まる小さな箱を取り出した。
「すまんがここは譲ってもらう」
彼女の唇から指を話すと、一呼吸。それでも咄嗟に言葉は浮かんでこなくて。
帰り道に考えていた言葉も、今はどこかへ飛んでいってしまった。
「なぁひより」
「ん」
既に彼女の頬には涙が伝っている。馬鹿、早すぎるだろう。こっちはまだ何も言えてないってのに。
「待たせてごめん」
昔は釣り合わないと身を引こうとしたこともあったが、やっぱり手放せないみたいだ。
営業課の美人な同期で学生時代からの友人で、不本意ながら仕事の相棒で、あたりまえのように恋人で、もはや自分の半分のような彼女と、ご飯を食べるだけのこんな、甘くて痺れる日常を。
そんなことを上手く言えるほど舌が回るはずもなく、それでも伝えたくて、思いを込めてあの使い古された、されど王道で間違いのない言葉を紡ぐ。
「結婚しよう」
一度口から放たれた言葉はもう戻らない。関係を変えるのには勇気が必要だが、もはやそれを引き止める要素はどこにもなくて。
彼女は舌で俺の言葉を転がすかのように、目を閉じてしっかり味わうかのように沈黙する。
その時間はネクタイを解かれるよりも長く感じられた。
やがてとびっきりの笑顔で、ひよりは目線を上げる。
「うん、もちろん!」
安心で力が抜ける。
壁に体重を預けるように後ろへ持たれると、彼女は一歩こちらへ近づいた。
「ねぇ、着けてよ。それ」
思っていたより緊張していたのか、震える指で彼女の手をとる。そして気付いてしまう、彼女も同じように震えていることに。
言わぬが花、すっぽりと左手の薬指に銀色のリングが嵌る。
ひよりは手を上に透かすと、嬉しそうに微笑んだ。
「そうだ、じゃあ私からも!」
彼女は自分の手元にある箱から時計を取り出して、俺の左腕へと巻き付ける。
初めて着けたはずがしっくりきて。
「どこかの残業モンスターに邪魔されたから言えなかったんだけど、」
楽しそうに彼女は呟く。何がどこかの残業モンスターだ、俺しかいねぇじゃねぇか。
「こんな私だけど、これからも一緒にいてくれる?」
答えのわかった告白のくせに、心臓をぎゅっと締め付けられる。
返す言葉なんて決まっていて。
「そんなひよりだから、ずっと一緒にいたい」
秋の訪れはあっという間で、空気が冷たくて寂しくて、でも暖色が似合うあの温かな空気に包まれている。
付き合った時とは違う、
何でもない日をこれからも、美味しそうにご飯を食べる彼女と過ごしていくのだろう。
あわよくば、彼女がそれを幸せだと思ってくれたら。
◎◎◎
こんにちは、七転です。
多くは語りませんが、完結済になっていない、後は分かるな?
ここまで初投稿からちょうど1年。甘くて痺れる毎日でした。
昨年の自分に言ったら信じてもらえないだろうな、6,000人あまりの人に見てもらえて、初めて書いた小説が本屋に並ぶなんて。
みなさまにめいいっぱいの感謝と愛をこめて。
七転
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