第155話
「俺もだよ、ひより」
彼女に聞こえないくらいの音量で、いやちょっとは聞こえて欲しかったかもしれない、それくらいの音量で囁く。
直後、すーすーと穏やかな寝息が聞こえて一安心。頬に垂れる髪かくずったいのか、口をむにむにと動かしている。
普段会社ではあんなにしっかりしているのに、寝ている時は子どもみたいだ。
さらっと髪をひと撫でしてベッドから立ち上がる。クーラーの静かな音だけが響く部屋を出て、やけに明るく感じるリビングへと足を進める。
平日昼間、一人の時間なんて久しぶりだな。
「さーて、何作ろうか」
まぁもちろんリクエストのあったおかゆなんだが。せっかく休みなんだ、少し手間がかかってもいいだろう。
意気揚々とキッチンに入場、エプロンの紐を後ろ手に締める。
そういえば前に自分が倒れた時は秋津がおかゆ作ってくれたんだっけ。あの時、あいつ仕事あったはずなのにどうやって帰ってきたんだ?
今となってはもう分からず終いか。
「何作るにしても、まずは米よな」
炊飯器に米をセット、ボタンを押す。今やこれだけで美味しいご飯が食べられるんだから、文明の利器ってすごい。そのうち料理の全工程を眺めるだけになるんだろうか。
それは少し寂しいな、あの「自分で作ってる感」がいいのだ。
それに、彼女が料理しているところをキッチンを覗き込んで見るのも嫌いじゃないのだ。面と向かって言うのは恥ずかしいけれど。
リズム良く鳴る包丁、ぽこぽこと泡のはじける音、たまに聞こえる鼻歌。
どこにでもあるありふれた日常は、実は当たり前じゃないだなんて、昔の自分に言ったら信じるだろうか。
なんてことを考えながらも次は洗濯を干す。
あれだけ高熱なんだ、寝汗もかくだろう。今のうちにシーツを乾かしておいて、夜は気持ちよく寝てもらおうじゃないか。
まだ辛うじて朝と言える時間、マンションの前をゆっくりと歩く人々を眺めながらシーツをばさばさと煽る。
たまにはこんな日があってもいい。あいつが元気になったら家で映画観るデートでもしたいな。
こうやってふと考えた未来が叶えられるのはありがたい話だ。
そうこうしているうちに軽快な音、米が炊けた。
再びキッチンに戻ると土鍋を用意する。
水を張って鶏がらスープの素を投入、火にかける。少しすると香ばしい匂い。
先ほど炊いたご飯をしゃもじで掬うと土鍋に移す。これで煮詰めるだけでもおかゆになるが……。
「しっかり治してもらわんとな」
冷蔵庫から生姜を取り出すと細く切っていく。
我ながら、というのも変な話だが、まぁまぁ平日遅く帰ってくる二人暮らしにしては、冷蔵庫の中身が充実していると思う。
続いて長ねぎ、そういえばこの前の休日に秋津が「小口切りにしてタッパーに入れといたわ!感謝して!」とか言ってたっけ。自分で伏線回収してるじゃねぇか。
全部鍋に入れると、最後に卵だ。
小さな器に満月が揺れる。少し眺めたあと箸を入れて溶いていく。
流し込まれた黄金色は鍋に触れるとじゅっと音を出して固まった。
レンゲで掬って少し味見、薄いか?
ようやく完成したおかゆは、一旦火から下ろして冷ましておく。
俺もお腹空いてきたな……あいつのご飯が終わったらなんか食べるか。
寝室に戻ると、発熱モンスターはすやすやと寝息を立てていた。
まったく、穏やかな顔しやがって。
彼女が起きるまではこの寝顔を堪能させてもらおう。
ベッドの横に椅子を持ってくると、俺はまだ続きを読めていなかった小説を手に取った。
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