第92話

 確かな重みを感じながら手を回す。

 いつものクラゲはいないが、今日はホテルでお馴染みの透明なキーホルダーが揺れる。


 酔いも回って足元が覚束無い。


「おい、着いたぞ」


 俺の腕にへばりついたほろ酔いモンスターをひっぺがす。


「ん〜このまま寝る〜」


「だめだ、肉の匂い嗅ぎながら寝たくねぇよ」

 

「じゃあお風呂いれて」


 まるで抱っこを待つ子どものように腕が伸ばされる。


「もう20代も後半なんだから自分で入れって」


 部屋に備え付けの寝巻きを手渡して風呂場へ向かわせる。


 駄々っ子をあやしている気分になるな……こいつ本当に営業成績トップなのか?

 取引先に聞いて回りたい、こんなやつと契約して大丈夫かって。


 シャワーの音が聞こえてきたところでキャリーケースを整理する。

 荷物、案外少ないんだな。もっと色々必要なのかと思っていた。


 テレビもつけていなければスマホも鳴らない。俺の呼吸以外には彼女がひねる蛇口の音だけ。

 新幹線で読もうと持ってきた積読を手に椅子に腰かける。


 部屋に漂う焼肉の匂いにまじって、どこか淡い花の匂いが鼻腔を刺激する。そうか、さっきまであいつが座っていたから。


 紙に書かれた文字を追う目が疲れてきた頃、風呂場へ繋がるドアが開く。


「お先〜かんっぜんに酔いと眠気が醒めたわ!このままカラオケとか行ける」


「どんだけ元気なんだ、学生かよ」


「ま、まぁ?肌の張りとかはまだまだ負けませんけど?」


 長いパジャマの裾を持ち上げながら、こちらに見せつけるように近づいてくる。


「ほれほれ」


「やめんかい、近づくと焼肉の匂いがうつるぞ」


「やーい焼肉モンスター!」


 そんな…食欲モンスターに言われても…。

 ただムキになって言い返すと不機嫌になるのでやんわりとかわす。

 長い付き合いで培われたのはこんなスキルばかり。


 せめてもの反抗をと頬をむにむにと摘むと、細められた目がこちらを見返す。


「あんた今の仕事嫌になったら私の頬撫で係にならない?」


 なんとも魅力的な仕事だな。

 まぁ社畜根性が尽きない限りは今の職場でひいひい言いながら働くんだろうが。


「俺もお風呂いただいてくるな」


 頬から指を離して揃えると、まだ湿っている彼女の頭に手刀をお見舞いする。

 「あでゃっ」というこいつ以外から聞いたことのない声を背にしてキャリーケースへと近付いた。

 

 自分の肌着とひとつ分既に姿を消した寝巻き、バスタオルを抱えて、先程彼女が出てきたドアへと体を滑り込ませた。

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