第74話 朱夏

「やっぱり好きなの」


 その言葉を皮切りに世界に音が戻ってくる。数秒前より鮮やかに色付いた景色は、まるで絵画のようだった。


「これは私のけじめでエゴなんだけどさ」


 口を開こうにも、夏芽の指が邪魔をする。


「でも実は答えも知ってるんだ。それでも有から聞きたいな」


 すっと指が離れていく。


 俺が口にすべき言葉は案外簡単に喉まで出かかって。


 こんな時に、こんな時だからか最初に思い浮かんだのはあいつが美味しそうにご飯を食べる顔だったんだ。

 どうせ今頃家でごろごろしてるんだろうな。


 能天気なくせに悩む時は真剣で、押しが強いと思えば気は弱くて、あの陽だまりみたいな匂いに甘えてしまってるから。


 息を大きく吸うと、肺に冬の冷たい空気が流れ込んでくる。


「なぁ、あい」


 熱を持った息が空気を白く染めていく。


 彼女は静かに聞いている。煙草はもう少ししかない。ほとんど吸ってないじゃないか。


 俺は今どんな顔をしているんだろう。眉を下げて泣きそうな彼女を見ながら考える。

 薄く透明な雫が滲んでいるからか、俺の顔がそこに映ることはない。


「俺さ、好きな人いるんだよ」


「知ってる」


 今まで見た彼女のどんな顔よりも儚くて。何もかも見透かされているかのような視線は真っ直ぐで。


「だからお前の気持ちには応えられない」


「うん……うん、」


「こんな俺を2回も好きになってくれて」


 そこまで言って再び指で唇を塞がれる。さっきまで煙草を挟んでいたからか、少し苦い。

 目を見開いた俺とは対照的に、彼女は穏やかに目を細める。


「今優しいのはずるいじゃない。お礼を言うのは私の方」


 灰皿に短くなったそれを落とした彼女は、ヒールを鳴らして背筋を伸ばす。


「ありがとう、それでも友達でいてくれる?」


 これは外しちゃいけない。俺たちは元々友達だったんだから。


「もちろん、お前が望むなら」


「それで十分よ。それじゃ、身体冷やさないようにね」


 ネクタイをくっと引っ張られ、自分の顔が彼女の高さと同じになる。


「好きだったよ、有」


 雪でも降ってくれればな。


 彼女は振り返ることもせず駅へと歩いていく。


 あぁでも、昔2人で歩いたあの時間は確かに俺の中にあって。


 夏芽あいという人間のことを俺は何も分かっていなかったみたいだ。こんなに強くてしなやかで、そしてまっすぐだと。


 最後見た彼女は、涙が伝いながらもどこか晴れやかで、頬に朱の差した横顔は年相応に大人びていた。




 

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