第5話 心の無い者 ――風斬り——
「心などというものは、人体で最も不要な器官さ」
共に旅していたあるとき。そう語ってくれた、英雄は。歩みを進める馬車の、幌をかけた荷台の上で。隣に座る風斬りに。
風斬りは半ば口を開けたまま、目を瞬かせて英雄を見上げる。
呪腕は御者席で手綱を握り、何も聞かないかのように前を見ていた。
変わらず微笑んだまま、英雄は風斬りの目をのぞき込んでくる。
「なぜと言って、それはすぐに崩れるからさ。骨のような揺るぎなさも筋肉の如き強さも、黙々と脈打つ内臓の地道さもそれには無い。揺らぎ、折れて、弱まって、全てを台無しにしてしまう。心など無い方がよほどいい」
風斬りはまた目を瞬かせた。鞘に納めた野太刀を抱き締めたまま、開いた口から言葉がこぼれ落ちるに任せた。
「ぼくには、無いの? それは」
確かそう言ってくれた、英雄は。風斬りを仲間とするときに。心が無いと。
英雄は笑ってうなずいた。
「ああ、無いよ」
御者席から呪腕の声が飛ぶ。
「そいつの話に耳を貸すな」
変わらず前を見たまま、幾分和らいだ声で彼女は言った。
「風斬り。……お前にはちゃんと心がある、私やそいつとは違う。そいつのたわ言を真に受けるな」
英雄は手を叩いて笑う。
「はっはっは、そんなことはないよ! 風斬り、いいんだ。君はそのままでいい」
風斬りの肩に、そっと手を置く。
「心無き人斬り人形で……失礼、刀の意のまま全てを裂く、魔物斬り人形でいい」
呪腕は何も言わなかった。ただ体の全ての動きを止め、じっと前を向いていた。
風斬りは目を瞬かせた。英雄の言うとおりだと思った。
二人に出会って以来、人は斬っていない。野太刀が斬りたがって刀身を震わせ、風斬りの体が反応し、抜刀しそうになることもあるが――他の人に出会ったとき。そして何より、隙を見せたときにこの二人へ向けて――、斬ることはできていない。
風斬りの首と両手首には今や、鋼鉄の輪が着けられていた。どんなに引っ張っても外れたりはせず、そこに張りついている。呪腕のかけた魔導の力で。
風斬りが人を斬ろうとすれば、たちまちそれらから黒い電光にも似た魔力が飛び出し、網のように風斬りを絡め取り、縛り上げる。初めて二人と出会ったとき、呪腕にそうされたように。
もう人を斬らなくていい、そんな風に呪腕は言い。うっかり千人目を斬って、人の心など持たれては困るからね、そんな風に英雄は笑った。
そして今、英雄はため息をついた。うつむいて。
「全く、残念なことだよ。俺は君たちと違って、心などというものがある」
そのとき、野太刀が鞘の中で震えた。
見れば馬車の外、草原の先の木立から、魔物の群れが――鉄の鱗に身を覆われた、角をそなえた猪のようなものが――二十頭ほども駆け出ていた。
英雄が強く、風斬りの肩を叩く。
「ようし頼むぞ! 魔物ならいくら斬ってもいいからな!」
風斬りはうなずき、野太刀を抜き放ちつつ荷台から跳んだ。着地したときにはすでに、流れるように刀を振るい。三頭をまとめて、胴斬りに両断していた。
刀身が震える。野太刀が喜んでいる、人間を斬ったときほどではないけれど。
喜んでくれるだろうか。ぼくが魔物を斬れば、あの二人も。喜ぶときは、人間はどうするのだろう。震える、のとは多分違う。
思いながらも、風斬りはまた刃を振るう。歯を見せて、微笑む。
――はてさて、何とも奇妙な英雄殿でございますなあ。心が不要、などとはまた、人の風上にもおけぬ言葉。
ですが……あるいは彼なりの、深謀遠慮あってのことやも知れませぬ。
私、聞いたことがございます。魔王めの強き訳。幾多の達人あろうとも、魔王を殺せぬその理由を。
まず一つは『英雄の聖剣でしか、魔王にとどめを刺せぬこと』。そしてもう一つは『魔王の持つ、三つの眼』。
その眼はそれぞれ、三つのものを視ると申します。左の眼は目の前のもの、『現在』を。右の眼は『過去』を。時折開かれる額の目は、予言のように『未来』を。
あるいはこのような噂もございます。額の眼が見開かれ、都合の悪い未来を見たとき。右の眼の魔力を以て、『人の過去へと干渉』し。都合の悪い未来が来ぬよう、過去を変えてしまうのだと。故に魔王めは、死に至ることが無いのだと。
ただの噂ではございますが……真実とすれば卑怯千万、憎らしい限りでございます。
もしかしたら英雄殿は、そうした干渉をされぬよう、つけ入る隙を与えぬよう、心動かぬ者を集めていたのでしょうか。
……どうでしょうかな。そうそう、お客様も魔王めに挑むのなら。心など無くした方が、よいのでしょうかな――。
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