第23話 後宮の二人

(ここは、元は後宮……この人はまだ正妻を娶っていないとは聞いていたけれど、側室は何人かいたはずだわ)


 花月は窓辺に立ったまま、目を伏せる。国王なのだから、何人もの側室を持つなど当然だ。だがなぜか、花月の胸が痛む。花月は、まるで嫉妬のような感情を自分が抱いていることに驚き、それを打ち消すように思わず呟いた。


「……側室はどうしたの? 今は、ここには誰もいないみたいだけれど」


 といった声に、なんとなく棘がある気がして、花月は急いで取り繕う。


「いえ、以前に、宮廷で聞いたことがあるものだから。鬼羅国王は、後宮に他国の王女を迎えているという話を」


 言えば言う程、余計に気まずくなる。鬼羅がからかうように言った。


「私の側室に会いたかったのか? それは残念だったな。ああ、もしここが気に入ったのなら、花月がここに来てくれても構わないのだが」


「なっ……ぶ、無礼な! 私は、後宮になど……」


「ははは、知っている。他国の女王を後宮に囲おうなどと畏れ多いことは考えていないさ」


 と言って、彼は卓上の瑠璃るり細工の燭台に火を灯した。半分開いた窓から夕暮れの春風が吹き込み、蝋燭の炎が揺れる。橙色の炎が彼の手を掠めて、彼は「おっと」と言って手を引っ込めた。花月は何気なく、その手に自分の両手を伸ばしていた。心配して覗き込むが、炎がかすめた彼の右手は、赤くもなっていない。花月はほっとして、その手を両手で包み込んだまま、鬼羅に笑いかけた。


「良かった。火傷にはなっていないわ」


 思ったより、顔が近い。鬼羅が、驚いた顔で花月を見下ろしていた。薄暗い部屋の中、揺れる灯が、ただでさえ綺麗な鬼羅の顔に美しい陰影を作っている。突然、花月の鼓動が跳ね上がった。時間が止まったように、身動きが出来ない。二人は、吐息がかかりそうな距離で、長い時間、見つめ合っていた。


 じじ、と蝋燭の芯の燃える音がして、溶けた蝋燭が燭台に落ちた。鬼羅が、掠れた声で言った。


「……花月。きみのこの仕草は、心臓に悪い。初めてきみに会ったあの時も、きみはこうして、小さな手で、私の手を包んでくれたが……」


 花月は鬼羅の手を離せないまま、眉を寄せて囁き返す。


「……小さな手……? 一体、いつの話かしら。私があなたに会ったのは、昨夜が初めてのはずでは……」


 と言いながら、何か、記憶のひだに隠れて思い出せない欠片かけらがある気がして、花月は必死に考える。けれど、思い出せない。突然、扉が叩かれて、二人は飛び上がりそうに驚く。女官の声がした。


「鬼羅様。いらっしゃいますか。きょう様がお呼びですが。兵部寮へいぶりょうの高官様方が、至急お話したいことがあるそうです」


「……ああ。今行く」


 花月が慌てて手を離すと、鬼羅は名残惜しそうに右手を握りしめた。彼は暫く花月を見つめていたが、やがて、ふっと笑って言った。いつもの声だ。


「明日、宮殿の方へ出てもらえるか。瑞の宮殿の見取り図を用意したい。侠とみなとも同席させるから、宜しく頼む」


 花月は、胸の鼓動を押さえ、辛うじて平静を取り繕って言った。


「……ええ、分かったわ。こちらこそ、宜しく……」


 花月は、鬼羅と離れがたい気分に囚われたが、一国の王を引き留めるわけにはいかない。扉まで見送りながら、言った。


「では、また明日に。宮殿に伺うわ」


「ああ。今宵の夕餉ゆうげはこちらに届けさせよう。明日から忙しくなるぞ。今のうちに、ゆっくりしてくれ」


 その黒い上衣の後姿が、女官と共に宮殿に続く回廊へと消えて行く。扉を閉めた花月は、ずず、と床に座り込んだ。


「心臓に悪いのは、こちらもだわ……」

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