第19話 花月の願い

 暁の三人は、身じろぎもせず、こちらを見つめている。花月は、背を伸ばして鬼羅きらを真っすぐ見つめた。


「このような形であなたにお目通りしますこと、どうかお許し下さい。王位を追われた私には、他に、個人的にあなたに近づく手段がなかったのです。それで、楽団の座長に無理を言って、こうして、あなたの寝所にお伺い致しました」


 花月を無言で見つめていた鬼羅だったが、幾度か目を瞬き、叫んだ。


「……花月! そうか、どうりで面影が! ……いや、なんでもない」


 鬼羅の声に、静止していた室内の時間が戻ってくる。先ほど刀を抜こうとした青年が、主である鬼羅の元へ行き、その傍らに立つ背の高い男と共に、興味津々の様子でこちらを見つめている。鬼羅は、驚いた瞳はそのままながらも、さすが国王らしい落ち着きある声で言った。


「しかし……驚いたな! だが、あなたが花月女王だという証拠は? いきなり押しかけられて女王を名乗られても、はいそうですか、と納得するわけにはいかないが」


 当然の質問に、花月は頷き、懐からあの短剣を出した。父王の形見の、銀の短剣である。


「これを、鬼羅国王。これは、私の父、慈円から私に受け継がれたもの。父はこの短剣を、あなたの父である、百鬼ひゃっき国王にお譲り頂いたと聞いております。その証拠に、百鬼国王の印が、ここに」


 花月が両手で捧げた短剣を、鬼羅は椅子から立ち上がって受け取った。見事な銀装飾の短剣である。彼はそれを一通り眺め、花月の手にそっと戻した。


「……確かに。これは、我が父、百鬼の印だ。間違いない」


 彼は、花月を間近でじっと見下ろしていたが、ややあって、ふっと微笑んだ。


「なるほど、確かに。あなたは、花月女王に違いない。……面影があるからな」


 優しい微笑みだ。花月は、噂に聞く鬼羅の印象とかなり違うことに、内心戸惑う。


(この人が、本当に暁の鬼羅? 聞いていたのとはかなり違うわ……)


 その黒い瞳をいつまでも見つめていたい気持ちに囚われるが、花月はその気持ちを振り払い、言った。


「面影? 父、慈円のでしょうか。あまり言われたことがありません」


 鬼羅は、花月を見つめたまま、肯定も否定もしなかった。そして、すっと振り返り、彼がさっき座っていた卓と椅子の置いてある来客用らしき場所を示して言った。


「こちらで共に酒でもどうだ、花月女王。あなたには、聞きたいことが山ほどある」


 彼の側近らしき二人の若者が、主と来客のために卓を準備しようとしたが、花月はそれを断った。余計な情報を他国に漏らすのはごめんだし、今ゆっくり酒を飲んでいる暇などない。


「ありがとうございます、でもこのままで結構です、鬼羅国王。それから、私が国を追放されてから、どうやってここに来たのか、なぜこの楽団に世話になっていたのか。恐らく、あなた方が聞きたいだろうそれらのことは、後ほどゆっくりご説明させて頂きましょう。今はとにかく、時間がございません。私は、あなたにお願いがあって参ったのです。どうか、お聞き入れ下さいませ」


「願い? 同盟の件ならばお断りだ。暁は、どことも……」


「いいえ。違います」


 花月はきっぱり言った。鬼羅は、片眉を上げて、興味深そうにこちらを見下ろしている。


「私は、あなたに、私と取引をして頂きたいのです」


「取引だと?! 国を追われた女王とか?」


「ええ」


 彼は愉快そうに、元居た椅子に腰かけ、「聞こう」と言って身を乗り出した。その黒い瞳が、好奇心に輝いている。その後ろには、明らかに腕の立つ二人の側近が控えていた。3対1。完全に分が悪い。けれど、負けるわけにはいかない。絶対に、鬼羅の興味を引いて、この話を受け入れてもらわなくては。自分が失敗すれば、大切な人達が死んでしまうかもしれない。花月は今、天敵に追い詰められた野生の獣と同じ位、命がけなのだった。花月は頷き、凛とした声で話し始めた。


「あなたもご存じの通り、我が国には、他の国にはない優れた産物が多数あります。農産物、海産物はもちろん、工芸品、特に絹織物と真珠加工品においては、他国には類を見ない、大変高い技術力を有しております」


「ああ、もちろん知っている。瑞の絹と真珠は、非常に高値で取引されているはずだ」


「実物をご覧になったことは? お手元にお持ちですか?」


 鬼羅は、暫く考えてから、背後に立つ背の高い男を見上げた。


「私には覚えがないのだが……どうだ? きょう


 侠、と呼ばれた男は首を振った。


「いいえ。暁の交易品には含まれておりません」


「……だそうだ、女王。暁は、武に重きを置く強国。悪いが、工芸品の類には興味がない」


 花月は頷いた。事前に分かっていたことだ。以前、折衝せっしょう府と人民府の資料を見ていた時に、暁との交易品目の中に、絹織物も真珠も入っていなかった。成功するか怖いけれど、迷っている暇など無い、今こそ、賭けてみなければ。


 花月は、羽織っていた上衣を脱いだ。庶民がよく着ている、簡素な木綿の上衣が床に音もなく落ち、その下から、月光のように白く輝く絹の服が現れる。花月の体の線に沿って美しく仕立てられた滑らかな服は、仄かな光沢を放っていた。花月の細い首には、大粒の真珠の首飾りが二重に巻かれ、手首にも、小粒の真珠と黄金の腕輪をはめている。


 鷹揚に足を組んで花月の様子を眺めていた鬼羅の動きが、止まる。花月は、彼の瞳が自身に釘付けになっているらしいことに内心ひどく安堵し、言った。


「ご覧下さい、鬼羅国王。こちらが、瑞の誇る絹織物と真珠です」


 そして花月は、足を組んだまま凍ったように動かない鬼羅の目の前へと歩いて行った。彼の後ろの二人が、反射的に後ろへ下がる。花月は、彼らには注意も払わず、椅子に腰かけている鬼羅の瞳を見下ろしたまま、その手を両手でそっと取った。彼の冷たい手が強張る。


「……どうぞお手を、鬼羅国王。いかがですか? 滑らかな絹でしょう」


 そして花月は、本当に興味を引けるのか内心不安に揺れながらも、彼の手を自分の体にそっと触れさせた。薄い絹織物越しに、その大きな手のぬくもりが伝わって来る。同様に、鬼羅の手のひらにもまた、花月の温かな体温が伝わっていることだろう。


 暫くそうして、彼の手で絹織物……つまりそれを着ている自分の体……を撫でさせてから、花月はそっとその手を離し、身じろぎもしない彼の元を離れ、胸に右手を当てて言った。


「これが、瑞の誇る名産品です。瑞は、あなたが私の願いを聞き入れて下さるならば、これらの美しい品の数々を、喜んで暁に献上致しましょう」


 暫く室内に沈黙が下りた。やがて鬼羅が、ごほっと軽く咳込んでから、掠れた声を出した。


「……なるほど。その品と引き換えに、私に何を望む?」


「援軍を出して頂きたいのです」


「援軍?」


「ええ。同盟を願うわけではありません。今、この時だけでもいいのです、武で比類なき暁の御力を、私どもにお貸し頂きたい。私を追放して宮廷を乗っ取った兄を、排除するために」


 壁際へと身を引いていた側近二人が、顔を見合わせた。鬼羅が、組んでいた足を解いて、身を乗り出す。霞がかかったようにぼんやりしていたその瞳に、再び好奇の光が宿っていた。


「……ほう? 女王は、王座を取り戻すつもりと言うわけか」


「ええ。このままでは、瑞は内部から崩壊してしまう。もしそうなれば、いいえ、そうならなくとも、焔の東仁とうじんは、瑞を我が物にするつもりでしょう。あなた方にとっても、それは避けたい事態なのでは? 東仁が瑞の財を手にすれば、暁にとって非常に厄介な存在になるのは間違いない。東仁は、いずれきっと、あなた方に敵対してくるでしょうから」


「それは私も考えていたことだ。焔が瑞を統合するのは避けたい」


「兄慈英は、焔の言いなりです。何しろ彼は、流刑地から焔に逃亡していたのですから。兄は気づいていませんが、恐らく東仁……いいえ、参謀の零玄ね……は最初から、兄を使って、瑞を乗っ取ろうと考えていたに違いありません」


慈英じえいが、焔に逃亡していただと? なるほどな、奴は、東仁の支援を受けて瑞の王都に舞い戻ったと言うわけか」


「そうです。もしも兄がこのまま王座に居座れば、瑞は焔のものになってしまう。どうでしょう、鬼羅国王? どうか今だけでいい、兄を排除できるだけの力をお貸し頂けませんか。瑞の宮廷は既に、兄の少数の手勢と、王権を振りかざす兄に媚びへつらう者達で、混乱と分断が起こっています。私は早く国に戻らなければならない。私を待つ者達がいるのです。私に王座を取り戻させて下されば、先程申し上げた通り、瑞の産物を献上させて頂くことが出来る。それを売却すれば、暁にはかなりのお金が入るはずです。失礼ながら……戦をするにも、資金は必要でしょう?」


 鬼羅は暫く顎に手を当てて考えていたが、やがて顔を上げ、言った。


「女王。その取引品目の中には、そなたも含まれているか」


「どういう意味です」


 鬼羅は、寝台の置いてある隣室の御簾みすの方へ顎をしゃくり、挑むような笑みを見せる。


「つまり、この私にその体を差し出す覚悟はあるか、と聞いている。同盟関係でもない、何の恩もない国へ軍を出すとなると、こちらにも相応の覚悟が必要なのでな。見返りに高価な品を献上するとは言うが、それはあくまでも口約束。どんな取引でも、『前金』は必要だろう? 国を追われたその身であれば、今この場で私に支払える対価としては、その美しい体しかないのではないか?」

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