第4話 父王の崩御
瑞の王都に、みぞれ混じりの冷雨が降る。
宮廷の官吏たちは皆、国王の寝所に詰めかけていた。長きに亘り伏せっていた慈円国王の寝所には、死を思わせる冷たく重苦しい気配が満ちている。誰も彼も、彼らの戴く偉大な国王との、もう間もなく訪れるであろう別離の予感に、その顔を曇らせていた。その密度濃い悲しみが満ちる室内に、聞く者の胸震わせる密やかな声が響いた。
「父上。わたくしです、花月です。どうか、どうかお目を……。今年は、ご在位46周年になるのですよ。もうあと4年もすれば、父上の願っていた、50周年です。父上はいつも仰っていたではありませんか、在位50周年には、都で盛大に宴を開こう、と」
あの桜舞い散る庭園での祝賀会から、11年という月日が流れていた。あの時ほんの子供だった花月は、21歳の麗しい女性に成長していた。花月は、まるで骸骨のようにやせ細った父王の手を、彼女の滑らかな両手で包み込んだ、幼い頃からそうしてきたように。
「父上。花月は嫌です。大好きな父上と、もうお別れしなければならないなんて!」
花月の頬を、真珠のような涙が伝った。その涙が、彼女が握りしめている父王の枯れ木のような手の甲に落ちる。ふいに、まるで冥府から呼び戻されたように、慈円がゆっくりと瞼を開けた。花月が声を上げた。
「父上!」
人々が息を飲む気配が、さざ波のように薄暗い寝所を駆け抜ける。慈円の枕元に控えていた医術者が、膝をにじって慈円の傍に寄る。花月は、わなわなと震えるように動く父王の口元に耳を寄せた。
「なんですか、父上? 花月はここにいます。お声を、どうか……」
「か、げつ……この、くにを……」
父王は、最後の力を振り絞るかのように、その白く濁った瞳を見開いた。花月は、急速に命の灯が消えて行くその手を必死に握りしめながら応える。涙で喉が詰まり、声が掠れた。
「……はい! 花月は、この命をかけて、瑞をお守り致します! 天地神明に誓って!」
花月の声が届いたのだろうか。慈円は、最後にふっと口元を緩ませると、瞼を閉じた。そしてもう二度と、その瞼が開かれることはなかった。
偉大な国王崩御の
氷雨は降り続く。まるで慈円の死を、天も悼んでいるかのように。国葬が終わって数日経っていたが、花月は未だ、黒い着物に身を包んでいた。彼女は、宮廷の、氷のように冷たい木の廊下を、侍女の桐と牡丹を伴って歩く。小石の敷き詰められた中庭は氷雨に沈み、いかにも寒そうだった。侍女の桐が、ぶる、と震え、10代の頃と変わらず、いやむしろ、更に冷淡そうに吊り上がった目で中庭に一瞥をくれて言った。
「今朝も寒いですわね、花月様。ご覧下さい、中庭の池が凍りそうですわよ」
もう一人の侍女・牡丹も、はあー、と丸い両手に息を吹きかけた。かつて花月の遊び相手として宮中に上がった牡丹は今年20歳になるが、子供の頃と大して変わらぬ丸顔にぼっちゃり体型をしている。
「池どころか、牡丹も凍っちゃいそうですよう! 朝アツアツのお粥食べたばっかりだけど、もうほら、指先が氷みたいになっちゃいましたあ」
「桐に聞いたわよ。牡丹は五杯も食べて汗をかいていたんでしょ? もう冷えてしまったの?」
「外が寒すぎるんですよう! だってほら、花月様。雪でも降りそうな氷空ですよ」
彼らは立ち止まって、空を見上げた。音もなく降り続く雨は、今日には雪に変わるかもしれない。牡丹がしんみりと言った。
「きっと、お天道様も泣いているんですよ。国王陛下がお亡くなりになって」
「本当ですわ。陛下がご崩御されたあの日から、一度も晴れ間をみておりませんもの」
桐が悲しそうに首を振った。花月は「ええ、そうね……」と頷いた後、暫く凍りそうな灰色の空を見上げていたが、やがて二人を振り向いて言った。
「……けれど、後ろを向いてばかりはいられないわね……。私は、父上に約束したのだもの。この瑞を、命に代えても守っていく、って。このまま空位が続けば、他国に隙を見せることになる。特に、兄上のことを考えると、焔は危険だわ。一刻も早く、即位式を行わなければ」
桐と牡丹は頷いた。彼らは、花月の寝殿から続く冷たい
(父上。どうか、花月をお守り下さい。私は怖い。父上のような立派な
宮廷の広い屋根の上には、いつの間にか、真っ白な雪が舞い始めていた。
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