第3話 花月と鬼羅

 鬼羅は優しい声で言い、優雅に頭を下げた。花月は、自分の頬がカーッと熱くなるのを感じる。慌ててぺこりとお辞儀をし、再び父王の体の影に隠れる。周りの大人が、一斉に和やかに笑った。恥ずかしさに、顔のみならず、体中が熱くなってくる。父王の困ったような声がした。


「すまない。この花月は、今年まだ十になったばかりでしてな。わしが甘やかしているのもあって、まだまだ幼い赤子のようなもの。今後とも、どうぞよしなに」


 子供の花月の態度に緊張が解かれたのか、暁の客人たちは、父王も含めた瑞の官吏たちに案内され、和やかに談笑しながら宴席へと移動して行った。花月はそっと彼らの輪を離れ、一人、庭園の東屋に向かって駆け出す。


(もう! 大人って、すぐに笑うんだから、嫌になる。いきなり話しかけられたから、びっくりしただけなのに。それにしても、あの人が、暁の王様なのか。じゃあきっと、すごく怖い人なんだろうな。暁は、列島の中でも大きな武力を持つ強国だ、って橘が言っていたもん)


 東屋に着いた花月は、ふう、と息を吐いて木の長椅子に腰を下ろした。庭園の外れのこの場所には、大抵誰もいない。宴の賑やかな話し声が、春風に乗って微かに聞こえて来る。ここにも、はらはらと白い花びらが舞っていた。花月の火照った頬を、軽やかな春風が撫でて行く。花月は暫くそうしてぼんやり空を見上げていたが、やがて、舞い散る花びらを見上げながら、ぽつりと呟いた。


「……のど、乾いちゃったな……」


「はい、どうぞ」


 突然掛けられた声に、花月は「きゃっ!」と叫んで文字通り飛び上がった。見ると、先程の鬼羅きらと言う若者が、笑顔で朱塗りの盃を差し出している。花月は、東屋の端まで飛び退いて、彼の姿を見つめた。鬼羅は、戸惑いもなく東屋の中に入って来た。右手に長い取手のついた急須を下げ、左手に盃を持っている。彼は花月の座っていた傍に座り、笑顔で言った。


「大丈夫。盃だけど、お酒じゃなくて花のお茶だ。喉、乾いているんだろう?」


 そう言って、長椅子に急須と盃を置くと、重ねてあった盃の一つを取り、自分が先に飲んだ。花月は、固唾を呑んでその様子を見守る。彼はぷはっと息を付き、こちらを見て笑った。


「花月王女も飲むといい。旨い茶だ。そんなところで怖がっていないで、こちらにおいで。大丈夫、取って食ったりはしないから」


 いかにも、からかっている口調だ。花月は少しムッとして、鬼羅の方へと足を進め、顎を上げてきっぱり言った。


「別に、怖がっているわけではありません。ただ、知らない男の人とは、あまり話さないことにしているの。私は王女なので、そういう、ことはしないのです」


 すると、鬼羅は声を上げて笑った。すごく楽しそうだ。花月は顔を赤くして抗議した。


「なっ、何がおかしいのです!!」


「ははは、いや、そうだな、その通りだ。きみはまだ子供だけれど、立派な王女だな」


 なんだか馬鹿にされた気分だが、これ以上言うと、子供っぽいと思われるかもしれない。花月は、おほん、と咳払いし、もったいぶって手を出した。


「盃を、えっと……ちょうだ、頂戴、できますかしら?」


 鬼羅は、再び笑いそうになったが、どうにか堪えながら言った。


「……ああ、もちろん。さあ、こちらへ」


 鬼羅が自分の隣を指し示すので、ちょこんと腰を下ろす。彼は笑顔で、茶を注いだ盃を差し出した。


「どうぞ。麗しい花月様」


 実はすでに、喉がからからだった。花月は返事もなく、ごくごくと一息に盃を傾ける。香りのいい茶を飲み干すと、ぷはあっと息をついて叫んだ。


「美味しい! ありがとう、鬼羅殿!」


 笑って、傍らの鬼羅を見上げる。彼は一瞬目を見開いて沈黙したあと、あの魅力的な声で言った。


「……いや、とんでもない。愛らしい王女のお役に立てて光栄だ」


 茶をもらってすっかり打ち解けた気分になった花月は、足をぶらぶらさせて鬼羅を見上げた。


「ねえ、鬼羅殿。あなたは一体、おいくつ? 随分若そうに見えるけれど、もう王様なのね」


「私は今年18になった。もう立派な大人だな」


「ふうん、18歳なのね。じゃあ、私の8つ年上で、兄上よりも1つ年上だわ。大人ね!」


 花月が指を折って数えながら無邪気に言うと、鬼羅は暫く考えてから問いかけた。


「……花月王女の兄上は、慈英じえい王子と言ったな。お兄さんとは、よく遊ぶかい?」


「ううん、ぜーんぜん! 兄上は、たまに意地悪をするの。それに、最近はあまり宮廷にいないのよ」


「ほう。どこかへ出かけているのか」


「うん。ほむらの国に行ってるんだって! なんだか楽しい遊びがあるから、って言っていたわ」


「焔に……なるほどな」


 鬼羅は呟いて、顎に手を当てて考え込んだ。花月は、その顔を覗き込む。


「鬼羅殿? どうしたの?」


「……いや、別に。さあ、王女。茶はもういいのか?」


「もっと! 私ね、さっきから侍女ともお花を拾って遊んでいたから、喉が渇いてるの」


 花月は、最初感じていた緊張はどこへやら、きゃっきゃっとはしゃぎながら、鬼羅の手から盃を受け取る。花月はまだ子供だった。いつの間にか、彼が他国の王ということを忘れていた。鬼羅に聞かれたことを無邪気に話していると、背後から、花月を呼ぶ声が聞こえた。


「あっ、桐だ! 行かなくちゃ。叱られちゃう!」


 花月は立ち上がり、それでちょうど同じくらいの目線になる鬼羅を見つめた。こうして傍で見ると、意思の強そうなその黒い瞳に、なんだか吸い込まれそうになる。花月は笑顔で両手を差し出し、鬼羅の大きな手を、何気なく握った。父王にいつもそうしているからだが、鬼羅はぎょっとしたように目を見開き、その冷たい手を強張らせた。


「じゃあね、鬼羅殿! 今日はお話出来て嬉しかったわ。お茶、ありがとう!」


「……いや……私も、愛らしい王女と語らえて光栄だった。いつか、きっとまた会おう」


「うん、いつかきっと! またね。ばいばい!」


 花月はそう言って鬼羅の手を離し、桐の呼び声に「はあい」と答えて走って行く。辺りはいつのまにか、薄暮の淡い光に包まれていた。


 東屋には、鬼羅が一人残されている。鬼羅の背後から、音もなく若い男がやって来た。鬼羅よりもがっしりした体つきで、黒よりは茶に近い髪と目の色をした、実直そうな男だ。


「鬼羅様。そろそろ、引き上げる刻限にございます」


「ああ、きょうか。分かった」


 彼の側近の侠は、じっと自分の手のひらを見つめている主に不思議そうに問いかけた。


「鬼羅様? 何か?」


「え? ああ、いや。羽毛のように柔らかかったな、と思ってな」


「は?」


「なんでもない。こちらの話だ。……行くぞ。これで周辺諸国には義理を果たしたからな。急ぎ戻って、今後の戦略を練らねばならない」


「はっ……」


 侠は桜の影に姿を消した。鬼羅は、先程少女が座っていた椅子を見つめて呟く。


「花月王女、か。愛くるしい娘だ。成長すればさぞ……いや、俺は何を考えているんだ」


 鬼羅は自嘲気味に笑い、茶器を持って立ち上がった。薄暮の庭園には、先程と変わらず、白い花びらがはらはらと舞い落ちていた。

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