第三章 決着、そして……
第16話 麦藁帽子
──午後から興貴へ会いに来た。
ルドは馬車の中で待機させてる。
この前みたいに、聞き耳立てられるのもなんだし。
青々とした葉物野菜が並ぶ畑の中で前かがみの、農作業中の興貴。
鎌で葉っぱの間引きをしてるみたい。
華穂の姿は、一見なし。
「……興貴」
「アイリ……か」
脇道から声を掛けるとすぐに反応して、腰を伸ばしながらこっちを見た。
まるで、そのうちわたしが来るだろうって意識してたような挙動。
歓迎とも迷惑とも取れない真顔。
軽めの汗と跳ねた土がついてるだけの顔。
「興貴。いま、ちょっといい?」
「ん……。大丈夫だ」
「華穂は?」
「
「そう。ま……いたとしても、席を外してもらうつもりだったけれど」
「俺もそうさせたよ。なにせおまえに会いに行った日、メンタルボロボロで帰ってきたからな」
「そのボロボロ。わたしの十分の一もないと思うけど」
「……とりあえず、日陰へ行こう」
自分が不利な話題は、早々に断ち切ろうとする。
興貴の嫌いだったところ。
だけれどいまは、それも懐かしい……。
畑の近くにある、ケヤキに似た太い幹の樹。
興貴はその根元へ腰を下ろし、幹に背中を預けて、左手の鎌を地面に刺した。
恋人時代のデートのように、わたしは興貴の右隣りへと、身を屈める。
すかさず興貴が仏頂面で、麦藁帽子を草の上へと置いた──。
「……これに座れ」
「あら、ようやく敷き物をくれる男になったの? 時間かかったわね」
「領主の娘のお召し物を、汚すわけにはいかない……ってだけだよ」
「……そう。それにしては汗と土埃に塗れてるけれど、遠慮なく使わせてもらうわ。これ、ずっと興貴にしてほしかったことだもの」
「……………………」
あちこちほつれてる、麦藁帽子。
それでもわたしには、屋敷にあるどんな高級な衣類よりも価値あるものに思える。
興貴が畑に目を向けたまま、横顔で話し出す。
「それで? なんの用だ」
「今度、わたしと会ってほしいの。二人っきりで」
「……いま会ってるじゃないか」
「こういう開けっ広げな場じゃないところでよ。話したいわ、いろいろ」
「…………断れないな。前世的にも、いまの身分的にも」
「そうね、断れないわよ。あなたはわたしと、きちんと向き合わなきゃダメ」
「ふぅ……。いずれ潰される畑だ。手入れ一日サボっても、どうってことないか」
「あら嫌味? 華穂と暮らしてるうちに、少し小さな男になった?」
「嫌味じゃなくって諦めさ。おととい、建設会社の連中が来てな。無断でうちの畑へ入って、測量してた」
「……ええっ!? まだ計画も決まってないのにっ!?」
「領議会議員様の中に、農道計画に入れ込んでる奴がいるそうでな。そいつの頭ン中じゃあもう、確定してんのさ」
あの、カジノ誘致を進めてる議員ね。
きっと……。
「測量に来たのが、下請会社の平社員だからまだよかった。俺たち農家に立場近いからな。ちゃんと作物をよけて移動してくれた。あれが議員様の息がかかってる元請なら、権威を誇示するために踏み荒らしていただろう」
「そんな……酷いことを?」
「ここはそういう世界で、俺とカホはここで三年生きた。そしてようやく環境に慣れて、貧しいながらも楽しい生活を築き上げた」
「そう、なの……」
「公園の砂場で、友達と協力して作った砂のお城を、突然やってきたいじめっ子が横から蹴っ飛ばしたようなものさ。あの農道計画は……な」
「……やっぱりわたしが、悪者になるわけ?」
「いや……そうじゃない。悪い悪くないで言えば、俺が一番悪い。次にカホ。アイリはいっさい悪くない。それはわかってる」
「……………………」
「おまえの言い分……。あの吊り橋の状態へ戻せ……って理屈もわかる。けれど理屈と現実は違う。俺とカホはもう、三年苦楽を共にした夫婦。その事実は消せない。アイリ、おまえがどんな権力を持っていようと」
「……そうね。事実の積み重ね……歴史は、権力でもお金でも変えられない。せいぜい
けれど、でも……。
「……でも、未来は変えられる。いまこの状態から始まる、興貴とわたしの未来。そんな未来は……ないの?」
「……農道計画。おまえにとっては、未来へと続く道……か」
「元々は、あの吊り橋をイメージしたのだけれどね。わたしたち三人が死ぬ直前にいた、逃げ場のないあの一本道……を」
「なるほど。俺たちの家と畑の上に、あの吊り橋か。それは確かに逃げられないな……。ははっ……」
乾いた笑いとともに、やっとわたしを向いた興貴。
顔つきはこっちの世界の人間だけれど、口ゲンカでわたしに負けたときに見せる、眉をひそめた苦笑いは相変わらず。
「あなたと華穂が、この世界で苦労したのは事実。けれど、わたしが三年遅れで転生してきて、なんの謝罪もないまま、疎外されているのも事実」
「うん……」
「興貴が事実を振りかざすなら、わたしも事実を振りかざす。もし興貴が、自分の事実だけを守りたいというのなら……それは大人げないわがまま。わたしの夫たる価値のないクソ野郎。全力で潰すわ」
「……返す言葉もない。会うのは、あすでいいか?」
「いいわ。日が高いうちに、わたしの屋敷へ来て。正装でね」
「わかった。じゃあ俺は、もう畑に戻る。間引いた葉は、ご近所さんの
重そうに腰を持ち上げながら、鎌を地面から抜く興貴。
農家の男が、板についてる感じ。
その農家の男の正面へ回り、借りていた麦藁帽子を頭へと返却。
顎紐を結んであげる。
『朝家を出るとき、嫁にネクタイを直してもらうのが夢だったんだ。ははっ』
結婚後の、初出社の朝。
夫になりたての興貴が玄関で言った、初々しいセリフ。
そして新妻のわたしの夢は、行ってきますのキス。
けれどいまは、そこまではしない──。
「邪魔したわね。じゃあ、あした──」
懐かしさで、頬の内側がツーンと甘酸っぱくなる。
熱い涙の膜が、瞳を覆う。
それが粒になって垂れる前に、興貴へ背中を向ける。
……あす、わたしと興貴は、体を繋げる。
夫婦の阿吽の呼吸で、興貴もさっき、それに同意した。
それでなにかが変わるのか、変わらないのか。
お互い、確かめるために──。
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