第2話(後半) 宇佐見光莉は新聞部……?
「橘先生、おはようございます」
「おはよう、高屋敷。今日も暑いな」
「はい……で、今回はなにを企んでいるんですか?」
翌朝、登校して間もなくのこと。職員駐車場に続く校舎横、花壇であじさいの剪定をしていた橘冬子に、咲人はこう問うた。
橘は、ふっと声にならない笑いを見せた。
「失敬な、企んでなど……私はね、ただ宇佐見千影に仕事を頼んだだけだよ」
やっぱりな、と咲人は思った。
千影の名前すら出していないのに——察しがいいと言うより、最初からこうして咲人が訊ねてくると予想していたのではないか。
相変わらず話が早くて助かるが、果たしてなにを企んでいるのだろう。
「千影の担当を新聞部にしたのは、光莉がいるからですよね?」
橘は、肯定も否定もせず、ただ薄っすらと笑みを浮かべながら、パチン、パチンと剪定を続けている。切り方に意味があるのか、形良く切り揃えているわけでもないらしい。
「ま、企みうんぬんはともかくとして、新聞部は今非常に大変な状況でねぇ……」
「……? 廃部に追い込まれているとか?」
「さすが、察しがいいな」
「今のはテキトーです。でも、なにか問題があるなら、廃部もやむを得ないことだと思うんですが?」
「逆だよ。残さなければならないから難儀なんだ……」
橘は「ふぅ」と一息ついて、ハサミを革製のケースにしまった。
「部活というのはね、そう簡単には潰せないものなんだよ。一つ潰すと、同好会を格上げしろとか、新たな部を作れとか、そういう要望が生徒だけでなく保護者や地域、後援会からも来るんだ」
「なんだか面倒そうですね?」
「ああ、とても面倒だ。それくらいたいしたことでもないと思われがちだが、新たな部の創設は摩擦と軋轢を生むからな。そこに大人が絡むと、教師サイドは大変だよ」
橘は苦笑いを浮かべる。
「一人でも活動している部活動があれば残すのはそういう事情だ。誰もいなくなったら休部というカタチをとるのも、けっきょくは新たな部の創設を阻止するためさ」
しかし腑に落ちない。
カタチばかりの「部」というハコになんの意味があるのだろうか。
それならいっそ、やる気のある新たな部をつくったほうが賢明なのではないか。
「ところが、件の新聞部は現在廃部になりかかっている。かつての威光は地に落ち、しばらく一部も発行できていない状況が続いているんだ。それだけでなく……まあ、いろいろ込み入った事情があってね……」
橘は頭を抱えた。その「込み入った事情」とやらが悩みのタネなのだろう。
とはいえ、新聞部の事情などはどうでもいい。
咲人にとって重要なのは光莉と千影——二人に悪影響が及ばないかどうかだけだ。
「あの、橘先生——」
「ときに高屋敷、あじさいはなぜ植える場所によって花の色が変わるかわかるかね?」
「……え? なぜって土の性質です。土が酸性なら青、アルカリ性ならピンクですが、それがなにか……?」
「正解だ。よく知ってるな?」
「まあ、そう習いましたから……リトマス試験紙の逆って……」
あじさいを見つめながら橘は微笑んだ。
「ふむ。正確には、土のPh《ペーハー》という。もともとあじさいの花の色はピンクだ。|アントシアニンという色素がそもそもピンクでね。ところが、アルミニウムを吸収すると、アントシアニンと化学反応を起こし、青色に変わる——」
橘はその場に屈むと、今度は指先で土を摘んでみせた。
「アルミニウムは酸性土壌では水に溶けやすくなり、アルカリ性土壌では水に溶けにくい。この性質を利用して好みの色を出すんだ。……まあ、品種にもよるがね」
さっきから、いったいこの人はなにが言いたいのだろうか。関係のない話でお茶を濁すつもりなのか。——いや、そろそろ話を元に戻したい。
「そうなんですね? じゃあ、俺の質問に——」
「要するに、土壌だよ。大事なのはね」
橘は腕時計を見た。
「——おっといけない。朝の職員ミーティングの時間だ」
「先生、まだ話は——」
「ま、せっかくだ。宇佐見姉妹もいるし、新聞部に協力してみてはどうかね? 本気の君がどこまでやれるのか、私は見てみたいな——」
煙に巻くようにして、橘はさっさと校舎へ向かった。
(……逃げたな。でも、なるほど……俺を引っ張り出したかったわけか……)
橘の目論見はだいたいわかった。
宇佐見姉妹をダシに使って、廃部寸前の新聞部をなんとかしてほしいようだ。
しかし協力と言っても、千影は今回一人で監査を頑張ると宣言していた。
一方の光莉は、いちおう新聞部の部員ではあるが、やる気がまったくない。
(むしろ、今は光莉と千影とどう付き合っていくかのほうが大事なんだけど……大事なのは土壌か……)
要するに、もし新聞部の現状を変えることができたなら、そこに所属している光莉も変えることができると橘は言いたかったのだろう。
(光莉を変える? 今のままでも十分だと思うんだけどな……)
光莉は元気に登校できているし、新聞部の東野和香奈に追いかけられている以外は、特に問題を抱えている様子も見当たらない。
監査と新聞部、どちらとも関係ない身としては、出しゃばる必要もなさそうだが——
(——いや、ちょっと待て……今回は光莉というより……)
と、咲人はそこで急速に理解し始めた。
問題を抱えた廃部するかもしれない新聞部。そこに千影が生徒指導部の犬として送り込まれ、積極的かつ忠実に仕事をこなしたなら——
(新聞部を廃部に追いやった責任が、千影に背負い込まされるかも……⁉ あの人、せっかくもなにもないだろっ!)
咲人は慌てて校舎のほうを向いたが、すでに橘の姿はなかった。
* * *
「——どうしたんですか、咲人くん?」
はっとして声がするほうを向くと、心配そうに見つめる千影の顔があった。
今は昼休み。今日も光莉がいないので、千影と中庭のベンチに腰掛けて昼食をとっていたのだが、咲人は今朝の橘とのやりとりがどうしても頭から離れないでいた。
「さっきから進んでいないみたいですが、お腹があまり減っていないんですか?」
半分ほど食べ終わった千影に対し、咲人は購買で買ってきたサンドイッチの端をひと噛りしたところで止まっていた。
「あ、いや……」
たしかに食が進まない。千影に今朝のことを伝えようか伝えまいか、自分の中で迷っているせいかもしれない。
咲人は真剣な表情で千影をじっと見つめた。
「な、なんですか? 急に見つめられると、照れちゃうと言いますか……な、なんだか今日暑いですね〜……!」
千影はパタパタと手団扇をしながら咲人から目を逸らす。
「ひ、ひーちゃんがいないから、ふ、二人きりですね? ひーちゃん、今日も東野さんに追いかけられているのでしょうか?」
「どうだろ? ——まだ、LIMEの既読がついてないね。たぶんそうかも」
咲人はスマホを確認して、またズボンのポケットにしまう。
「大変ですね、ひーちゃん」
「あのさ、千影——」
「あ、そうだ! 旅行の件、もう叔母さんに相談しました⁉ うちはパパとママが友達と行くならオッケーという感じになりまして! 行きたい場所はもう決めました? 私、本当はあまり体型に自信がなくて、水着を着たい気持ちはあるんですが——」
と、千影はいつになく早口で話し続ける。
光莉がいないことで、かえって緊張しているのだろう。最近はずっと三人でいたから、二人きりでなにを話したらいいのか——そんな感じで。
咲人は、そんな千影を愛おしく思った。なにも知らずに問題に巻き込まれているのかもしれないのに、恥じらい、焦り、自分をこれほどまでに好いていてくれる彼女の姿を、ただただ愛おしく思った。
不意に中学時代までのことが思い起こされる。
自分が周りからなんと呼ばれて馬鹿にされていたか、そんなことを——
『高屋敷ってさぁ、なんかロボットみたいじゃん?』
『わかるー。AIとか搭載してそー』
誹謗中傷や侮蔑には耐性があった自分とは違い、千影はそうではない——
『目立つことは悪くないと思っていますが、怖いと感じるときもあります。人からどう見られているのか、これでも悩むことがあるんですよ?』
——ならば、新聞部の監査は、千影にとってマイナスにしかならない。
(千影には、俺と同じ思いをさせたくない……)
これで新聞部が潰れる事態になったら、彼女は悪目立ちしてしまうだろう。杞憂かもしれないが、咲人にはどうにも胸騒ぎがしてならないのだ。
「……千影、ちょっと俺の話を聞いてくれないか?」
いつになく真剣な眼差しの咲人を、千影は戸惑いながら見つめ返した。
「なんですか? やっぱりなにか悩み事でも……?」
心配そうな表情の千影に向けて、咲人はそっと口を開く——
「俺は君を守りたい」
千影は安心したように息を吐く。
「そうなんですね? つまり咲人くんが気にしていたのはー…………——へ?」
千影は一瞬なにが起きたのかとフリーズしたが、
「ふえぇえええーーーーーーっ⁉ いきなりどうしたっ⁉」
と、千影は胸を押さえて急に狼狽え始める。
「キュンが、キュンで、ズキューーーンって……!」
「あの、千影、周りに聞こえるから、いったん落ち着いて、深呼吸して……」
「は、はいぃー……ヒッヒッフー……ヒッヒッフー……」
「……それはラマーズ法だよ? 陣痛が始まったときのやつ……」
呆れながらツッコんでおいたが、千影はまだあたふたとしている。
「これってキュン死に案件、キュン死に案件、キュン死に案件……ぜんぜん落ち着かないぃぃ!」
「あ、そう? どうしたら落ち着くの?」
「も、もう一度今のをっ! 今のセリフをもう一度お願いします! 二度言われたら効果が薄れるはずっ! おかわりをくださいぃーっ!」
「じゃあ……——俺は君を守りたい」
「かっ、はっ……⁉」
吐血したぐらいの勢いで、千影はクラっと意識を失ったかのように身体を揺らした。クリティカルヒットである。
一度目で胸部装甲に傷がつき、二度目で貫通してしまったのだろうか。
「ムリムリムリムリ……咲人くんに言われたい言葉第三位を本日二度も……」
「あ、うん……第一位と第二位が気になるなぁ……」
「というか、急にどうした⁉ サービス精神旺盛かっ⁉ それ、今ならセットでハグとちゅーもついてくるやつですよね⁉」
「なにそのお得なハッピーセット……?」
咲人はやれやれと呆れながらも、首をぶるんと振るって、もう一度真剣な顔になる。
「そういうことじゃなくて、千影は知らないうちに大問題に巻き込まれているかもしれないんだ。だから、守りたいって話……」
「……大問題?」
千影は素に戻った。
「ああ……まあ、ちょっと事情を説明すると——」
咲人は今朝の橘とのやりとりから、事実と、そこから導き出したシナリオを伝える。
光莉が新聞部に所属していることとはべつに、今新聞部はなにかしら問題を抱えていて、非常に微妙な立場に立たされているということ。
そして——おそらくだが、千影の監査が今後の新聞部の活動になにかしら影響を与えるということも。
「——橘先生は、新聞部を潰したくないみたいだ。さすがに、千影の監査の結果は直接影響しないと思うんだけど……」
「けど、なんです?」
「部費が削減されたとか、最悪の場合、新聞部が潰れることになったら……千影が周りにいろいろ言われる可能性はあるし、そのときは新聞部の人の恨みを買うかもしれない」
その可能性は無きにしも非ず——なぜなら、外部生の首席合格者、宇佐見千影だから。
正しさが正しく受け入れられないこともあるのだと咲人は知っている。
「千影にやる気があるのはわかっているんだけど、君のイメージダウンになるなら……俺はどうしても見過ごせないんだ」
回り回って、新聞部に在籍している光莉にも影響を及ぼしたらとも思うと、やはり——
「やっぱり千影が矢面に立つのは反対だ。今からでも辞退できないかな?」
はっきりそう告げると、千影はふと微笑を浮かべる。慈しむような顔だった。
「……咲人くんの気持ちはわかりました。ずっと元気がなかったのは、そういうことだったんですね? 私のことを……ううん、ひーちゃんのことまで考えてくれていて……」
「うん、だから——」
「嬉しいです、とっても。咲人くんと恋人になれて良かったです」
千影は咲人の言葉を遮り、頬を紅潮させながら自分の胸に手を当てた。
「姉妹揃って、咲人くんにそこまで大事に想われているんだなって思うと、こう……胸の奥が温かくなって、勇気が湧いてきます」
「千影……」
「だから私はなにがあっても大丈夫です。それと、咲人くんとひーちゃんになにかあれば、私が守りますので任せてくださいね?」
咲人はこれ以上なにも言うまいと思った。
千影が天性の努力家で、筋を通す人だということは十二分に理解している。
そんな彼女を信頼することも彼氏の務めだと思って、自分の考えた最悪のシナリオを、杞憂かもしれない妄想を、彼女に押しつけるのはやめることにした。
だが、なにかあれば、そのときは——
「……でも、もし困ったことがあれば相談に乗ってもらってもいいですか?」
「もちろん。いつでも」
「ありがとうございます。ほんと、咲人くんが恋人で良かったー……」
そこで会話が途切れると、今度は互いに見つめ合った。
「……なに?」
「えっと、今すごく、甘えたい気分で……ちょっとだけ……」
なんとなく、そういう流れなのだとお互いに感じとっていた。
少し空けて座っていた二人の間隔がじりじりと縮まっていく。
心臓が激しく鼓動する。けれど互いに目を外さないし、外せない。
赤くなった二人の顔が徐々に近づいていき、吐息が近づき、目を瞑り、そして——
「あーっ! ちゅーしようとしてるっ!」
ギョッとした二人は、瞬時に離れ、ベンチの端と端に座り直した。
声の主は光莉で、彼女はベンチの背もたれの後ろからニョキッと顔を出していた。
「光莉っ⁉ いつからそこに⁉」
「ほんと、咲人くんが恋人で良かったー……あたりから? というか二人とも、ここ学校だからね? 周りに人がいるのに我慢が足りないなぁ〜……」
と、光莉が茶化すように言う。
「「っーーーーーー……」」
咲人と千影は、顔から湯気が出そうになるほど真っ赤になって俯いた。
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https://twitter.com/jitsuimo
特設サイトはこちら。
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次回更新は 1月28日(日)!
そして、家に帰って繰り広げられる双子たちの会話。
「ツイントーーク!」
今回もございます!
夏のお出かけデートに向けて、千影は一人で努力を続けているようで?
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