小狸

短編

 ある秋の日のことである。


 自宅に帰り、ネット上の小説投稿・閲覧サイトへと、予約していた小説を投稿しようとしていた時。


 ふと僕は、その数が次で百を迎えることに気付いた。


 百という数字は、古来より節目として設置されている。


 神道では死後百日目に百日祭というものが行われ、それは仏式の百箇日にあたる。他には感染症の百日咳、代表的歌人百人の歌一種ずつを集めた「百人一首」、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『百日曽我』、さるすべりは「百日紅さるすべり」と書く、「百葉箱」は百葉、つまりひだの沢山ある胃袋を意味し、格子状の内部構造をそれに見立ててそう表現しているのだとか。


 たとえとして「百日の説法屁の一つ」があるよう、百という数字は、百個存在するという確実な個数以外にも、たくさんあることを表現することに用いられる。


 百か――と、思った。


 思うだけで、特に感慨とか、そういう類の感情は湧かなかった。


 この場合の百は、前者、実在する数を意味する。


 よくそこまで続いたものである。


 元々僕は、飽き性である。


 何かにつけ、継続して何かを達成することをできた試しがない。


 小学校の頃からそうであった。


 流行のもの、ことを真似し、欲しがっては、すぐに飽きてゆく。


 それは誰でもそうである――と言われればそれまでだが、しかしそんな何事も継続できない自分に自信を持つことのできない時期も、確かにあった。


 何も続かない。


 何も繋がらない。


 この人生に、果たして意味はあるのだろうか、と。


 そこまで拡大解釈してしまうことまであった。


 飽き性で、かつ、心配性でもあるのである。


 ほとほと面倒な性格だなと、自分でも思う。


 勿論もちろん百回の中には、途中で書くことを辞めた長編小説も存在する。


 書けなくなったというか、短編の方が自分にとっては書きやすい――要するに気分屋なのである。


 小説を書くという行為にも、僕はさして強い意思を抱いている訳ではない。


 自分が小説家になれると思うまで自惚れるだけの自尊心は持ち合わせてはいないし、何よりこの小説を書くことだって、仕事のストレスのけ口の一つとして、何となく初めたものだ。


 「いいね」や「評価」が欲しくて打鍵している訳ではない。


 継続は力なりとは言うけれど、僕は脱力したまま継続しているので、実質何にもなっていないのである。


 そういう自己評価を、僕は僕に下している。


 ただ。


 そんな足許あしもと覚束おぼつかない自分でも、百回を迎えることができた。


 それだけでも、僥倖ぎょうこうだと思うのは、甘過ぎるだろうか。


 いや、甘いな。


 まだ、僕は書き続けるだろう。


 理由なく、意味なく、それこそ飽きるまで。


 褒められようと、けなされようと、それは関係ない。


 書こう。


 書き続けようと、僕は思った。


 ――しかし、まあ。


 スーパーで、いつもは手を出さない、高めの肉を購入した。


 今日くらいは、そんな自分を、こんな自分を。


 祝しても良いのかもしれない。


 そんな風に思って。


 僕は百作目の短編小説を、擱筆かくひつした。


 お疲れさま。



(了)



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