不幸

ユニット型特養は、新型特養と呼ばれる新しい施設形態だ。完全個室で、各ユニット十名。そのため、一人一人に手厚い介護を提供できる。自宅のように、生活の場としての面を強調され、利用者の居室は廊下の脇に二部屋ずつあり、間に挟まるようにトイレが設置されていた。廊下もまっすぐではなく、途中で折れて奥が見えない作りになっていた。プライバシーに配慮した作りだが、見通しが利かない分、介護事故の危険性が高まっていた。

生活の場なので、利用者は起きたいときに起きて、食事を摂りたいときにとる。利用者の居室内も、自宅で暮らしていたときの構造を再現しているとのこと。

面接後、枠井課長に施設を案内されながら、春月荘の概要を聞いた。

ユニットにお邪魔すると、職員が忙しそうにしながらも挨拶をしてくれた。印象は悪くない。玄関を潜って、すぐ右手に食堂があった。数人の利用者がいて、シンクの反対側に、食器棚、冷蔵庫、電気コンロが設置されていた。調理員が食事の準備をしていた。利用者に五感を使って、食事を楽しんでもらうために、あえて目の前で料理を作っているらしい。本来は、利用者も一緒になって料理を作ってもらうのが理想だが、現状はできていない。

古い木造建築は歩くたびに床が撓んで、ミシミシと音がする。いつか抜けるんじゃないかと、ヒヤヒヤした。

二つのユニットで一グループ。単純計算で、全百床受け入れることができた。

各ユニットの玄関先に、円形の木にユニット名が彫られた表札があった。『いろどり』と彫られたユニット前を通りがかったときに、太陽グループで見た高身長のイケメンが、ちょうど洗濯籠を持って出てきた。

「こんにちは」

無表情だが、挨拶だけはしてくれた。忙しいのか性格なのか、大股で歩いて行った。

また別のユニット前の廊下で、私は驚いて声が出そうになった。

やわらぎに勤務していたとき、杖で私を叩いた葛葉治くずのはおさむが車椅子に座ったまま、口の端から涎を垂らし、床の一点を見つめていた。杖で歩くどころか、意思表示もできそうもない。やわらぎのときより、頬はこけ、目は落ち窪んでいた。

「葛葉さん、こんにちは。調子はどうですか?」

課長が片膝を付き、目線を合わせて尋ねるが反応はない。

「すいません、すいません。今、リハビリ終わりで、ちょっとバタバタしてたとこなんで」

誰も咎めていないのに、言い訳を口にしながら、ユニットから走り出てきた。

時の流れは残酷だ。あんなにイラついた暴力的な人間の末路。

一階、地域交流ホール。学校にある体育館の三分の一程度の広さで、東側は全面ガラス張り。池の中で泳ぐ鯉が鑑賞できた。

「ここのメリットは、早出、遅出、日勤、夜勤は、基本一人で仕事をする。だから、自分のペースでゆっくり仕事ができる。誰にとやかく言われることもない」

私は黙って聞いていた。

「いいかい。何度も言うが、キミは欠員補充で異動してきた。後ろめたいことはない。胸を張りなさい。正直、嫌な思いをすることもあるとは思うが、そう言い切ってくれてかまわない」

「そうは言われても、同じ会社ですからね。事実は、すぐに広まりますよ」

「誰だって、生きてりゃ、傷の一つや二つ、あるもんさ。私の方からも、各リーダーにお願いはしてみるがね」

「しんどいっすね。また、逃げ出すかもしれませんよ」

「大丈夫。そんなことは、させないから」

鯉が水面から顔を出し、口をパクパクさせていた。

思い返せば、課長のこの言葉は事実だった。



私は、『みらい』『ひかり』ユニット、ひかりに配属された。

加古川真弓かこがわまゆみユニットリーダーは、優しそうな雰囲気の人だった。

初日は、彼女について、いろいろ教えてもらった。

「ユニット型なんですけど、起床も食事も、普通の施設と一緒で、全員いっきにやってるのが現状です」

食事に関しては管理栄養士の指示の下、提供後二時間しか保存できない。

「聞いてた話と、だいぶ違いますね」

どこも一緒。理念や理想と現実は、ほど遠い。

「一応、配属は、ひかりですけど、みらいにも入ることがあるんで。夜勤は両ユニットを一人で診ることになるんで。ゆっくり、覚えていきましょう」

ユニットで分けられてはいても、結局同じグループ。

加古川リーダーはそう言うが、現場の職員はそう思ってはいない空気を感じ取れた。


新崎玲奈しんざきれなは、キャバ嬢みたいな厚化粧に、パーマをかけた長い茶髪を後ろで縛っていた。真っ赤な口紅が印象的だった。彼女は、今年入社したばかりだ。

利用者の排泄介助を見学させてもらった。てきぱきと慣れた様子で、作業は早いが、丁寧とは言いにくい介助だった。

「二号館ですか。元カレが就職しましたね」

「…もしかして、伊藤君?」

「そうです。そうです」

話に聞いていた寝取られた彼女って、新崎だったのか。

「アイツ、元気ですか?」

「そうだね。話には聞いてたけど、まさか、新崎さんだったとはね」

「どんな話聞いたんですか?」

「いや、まぁ、寝取られたとか」

「あぁ、なるほど。まぁ、アイツと付きあったのは、ただの繋ぎですから」

明け透けに言う。

「そうなんだ。彼氏って、もしかして…」

私は、みらいユニットのリーダーかと思っていた。

「もう、辞めてます。前のリーダーですよ」

「そうなんだ。伊藤君、一瞬でも俺と付き合ってくれて感謝してるって言ってたよ」

「へぇ、かわいいトコあるんですね」

色っぽい表情で、微笑む。

なんで、介護してるんだろう。性格的にも、キャバクラで働いてそうなのに。

不思議だった。


みらいユニットリーダー中山徹なかやまとおるは、良くも悪くも正直な人だった。

「なに、やらかしたの? キミ、ちょっとした有名人になってるよ」

施設裏にある非常階段の下。後付けのトタン屋根に覆われた喫煙所には、座り心地の悪い木製のベンチが二脚あった。

ベンチに深く腰掛け、足を組んで、中山リーダーは聞いてきた。前歯は折れてないが、その隙間に煙草を挟んでいた。

「施設は違えど、同じ会社やからね。異動もあるし、職員間はツーカーだから。やけど、こんな夏場に異動なんて、普通ないからね。あるとしたら、犯罪を犯したか、なんかやらかしてトバされたか」

私は、正直に打ち明けた。

「そりゃ、しんどかったね。うちも、前のリーダーのときは酷かったから。俺、リーダーになって、まだ二ヵ月くらいやから」

前みらいユニットリーダーは、恐怖で支配していた。

職員の仕事の揚げ足を取っては、空残業を強いていた。口答えすると、威嚇、恫喝をして従わせる。

パソコンに日誌を打ち込みたくても、常にパソコン前から動かず、またもう一台のパソコンから打とうとすると、「○○さんのリハビリやってないやろが」と阻まれる。

勤務中、急にトイレに行きたくなっても「そんなのは休憩中にするもんやろが。仕事、舐めてんのか」と、トイレにも行かせない。

一時間程度の残業は毎日で、最高で四時間くらい残ったこともあるらしい。

「お前の仕事ができてないのが、悪いやろ」

そう言って、緊急性のない仕事までも押し付けられ、毎日定時で帰らせてもらえなかった。定時で帰ろうとすると、

「本当に、今日一日の仕事はすべてやったんか? ご利用者様に、満足できる介助、掃除、できたんか? 帰ってもええけど、一つでもできてなかったら、迷惑かけることになるぞ」

圧をかけ、職員を不安にさせ、絶対に帰さない。

毎月開催されるグループ会でも、職員一人につき一つ議題をあげることを強要した。何も議題をあげない職員には、執拗にねちねちと攻撃する。

「お前は、毎日、何も考えずに仕事してんのか? だから、お前は、ダメなんだよ。介護士というより、社会人、いや、人としてダメ。そんなんで、給料貰って恥ずかしくないの?」

まるで、軍隊だった。

イエッサーしか求めていない。

「新崎おるやろ。あの娘が、学生のときからイチャイチャしよったきね。階段の踊り場で、抱き合ってるのを見た職員もおるし。前に、利用者の備品を買いに行くって二人で社用車で買い物に行ってたことがあるんやけど。定時の間際まで、時間いっぱい使って、帰ってきたからね。しかも、マック食いながら。ふざけとるやろ。仕事中に、デートすなって話やろ」

新崎もいい性格をしている。

「ヤバいっすね」

「ほんで、俺がおかしいやろってキレて。向こうも威嚇してきたけど、もう関係ない思うて、課長のところに辞めますって言いにいったんよ。今すぐ辞めさせてくれって。それで、課長と主任が動いて、自主退職にもっていったんよ。まぁ、役職連中も、辞めさせる口実を探しとったしね」

「もう、ヤクザじゃないですか」

「それに比べたら、キミなんて、かわいいもんよ。あの人が辞めてから少しして、別の施設に就職したって噂で聞いたわ。それで、自分で施設を作るつもりなんか、何が目的なんか知らんけど。キミのユニットに横田さんっておるやろ。あの人、優しいのはいいんやけど、気が弱くてね。前のリーダーのときは、毎日、胃が痛い言うてた。横田さんが夜勤の日に、廊下の奥の窓を叩く音がしたんやって。見に行ったら、前のリーダーが立ってたって。そこの非常階段から、上がったんやろ。そんで、施設の規約書を見せろって言うて来たらしい。それはムリですって断ったらしいけど、ええからって。最終的に、警察呼びますよって言うたら、裏切り者! 覚えとけよ! って帰ったらしいわ。怖いよな。裏切り者もなにも、最初っから、お前の味方なんて一人もおらんのやけどな。だからかな、新崎も、横田さんのこと舐めてるし」

狂った人間はどこにでもいる。

ひと昔前は、新聞配達はどこにも就職できない人間の最後の砦だと言われていた。今では、介護がそうなっている。人手不足で、まともに面接で選考をしている余裕はない。少なくとも、私が知る範囲では、定員いっぱいでもない限り、クズだろうが犯罪者だろうが、来るもの拒まずの精神だ。


「あれ、どっかで見たことありますよね?」

私が高校くらいに流行ったナンパの文句を言ったのは、佐久間結衣さくまゆいだった。優秀すぎる故に、一等級で入社したスーパールーキー。次期、リーダー候補。

「同期ですね。一緒に、入社の説明会受けたんで」

「あぁ、やっぱり、そうですよね。すいません、忘れるなんて失礼ですよね」

悪びれた様子はなく、今まで何不自由のない暮らしをしてきた。人並み以上に、勉強も仕事も恋愛もしてきた。人生、一度も躓いたことはない。そんな幸福が顔に滲み出ていた。噂では、警察官の彼と別れて、今度は消防士と付き合っているらしい。公務員キラーと呼ばれていた。

「いえいえ。覚えてなくて当然ですよ。佐久間さんみたいに有名ではないですから」

佐久間は、愛嬌のある美人らしく、春月荘のホームページや広報誌でご利用者様と一緒に撮った写真が使われていた。

「あれですか。なんか、勝手に使われてるんですけどね」

イヤと拒否しないことに、自信が見え隠れする。


早出で佐久間に付いていたとき、私は勤務開始は六時半からと聞いていたので、その時間に出社したが、彼女はすでに起床介助を始めていた。

「おはようございます。あの、六時半からですよね」

「おはようございます。はい、そうです。間違ってないですよ。ただ、暗黙の了解で、六時半からやっちゃうと、七時半の朝食に間に合わないんですよね」

起床介助には、排泄、更衣、口腔ケア、洗顔が含まれていた。整容もするので、髪の毛を整え、化粧をする利用者もいた。男性は、髭剃りをする。

生活の場と言われたように、春月荘の利用者は、パジャマに更衣する。起床時に、日中の服に更衣をして、尚且つ、布団も畳み、カーテンも開けなければいけない。

やっとのことで、食堂に誘導すると、ココアやコーヒー、ジュースを提供して、水分摂取を促す。自分で飲めない利用者には、介助をしなければいけない。合間に、バイタル測定。オムロンの上腕測定器は年季が入っていて、マジックテープの部分がすぐに剥げる。押さえながら測定しなくてはならない。そんなので測定した数値が正しいのか疑わしいが。

そこまでして、次の利用者に行きたいところを、「おしっこ」と急な尿意を訴える利用者もいる。

六時半になると、食堂の左奥にある通路に入る。そこは、隣のユニットとの連絡通路になっていた。入ってすぐに奥まったスペースがあり、事務用デスクにノートパソコンが置かれていた。脇には、ファイルキャビネットがあり、資料やご利用者様のファイルがあった。みらいユニットも同じ作りだった。

通路の中央に、壁付けされたホワイトボードがあり、申し送り事項や本日の特記事項などが書かれていた。そこで、夜勤から申し送りを聞く。

全員起こして、朝食の準備。エプロンを必要な利用者に付けて、お茶を淹れて、服薬用のファイルを用意する。

たった十人だが、一人でやる仕事量としては、朝からハードだった。

少なくとも、皆、六時には出勤して起床介助を始めていると聞いた。

彼女は特に急いだ様子もなく、利用者と冗談を言う余裕を見せながら、時間に間に合っていた。そして、利用者に目配せしながら、食堂脇の窓際にあるワークデスクでパソコンに日誌を打ち込んでいた。

一等級の優秀さは伊達じゃない。

私は、彼女と一緒に仕事をするのが嫌だった。

自分が、惨めになるから。


「あの、三上さんから聞いたんですけど。急に、来なくなったって、どういうことですか?」

彼女は月グループの三上恵子と学生時代からの仲で、お互いに一等級クラスだ。私と、一緒に働いていると連絡を取ったときに聞かされたらしい。

「どう聞いてるかは知りませんが、私はただの人事異動ですよ」

説明するのが面倒だ。

いや、本当は惨めな自分を晒したくなかった。

「そうなんですね。なんかよく、わかんないですね」

佐久間はそれ以上聞いてこなかった。

わからないだろう。佐久間みたいなお嬢ちゃんには。

私の気持ちは、一生理解できない。


私は、自分の劣等感を忘れるため、必死になって勉強した。

利用者と一対一で介助をする。今までみたいに、誰かやるだろ。わかるだろ。そんな甘えは許されない。

介助をするときも、効率的な作業方法を模索した。

利用者、一人一人のデータを頭に叩き込む。

すべての介助において、私は利用者の癖を掴んだ。

人間には、行動の癖がある。例えば、朝起きてから、すぐに顔を洗う人。歯を洗う人。いきなり、朝ごはんを食べる人。寝起きに煙草やコーヒーを嗜む人。

右手が先か、歯ブラシが先か、タオルか。声掛けして動くタイプか。自発的に意欲を持って行動するタイプか。

行動の癖を知って、すべて先回りして行動した。利用者にあれして、これしてと言われる前に動く。

一番厄介なのが、職員だった。時間を少しでも押していたら、すぐに機嫌が悪くなる。枠井課長の説明のように、各時間帯、基本的には一人だ。時間被りで人数が増えるが、仕事は時間帯でやることが変わる。ただ、前の仕事が押すと、結局手伝わなくてはならない。

なにが、自分のペースでできるだよ。ここも、一緒じゃねぇか。

だから私は、後から来る職員の仕事もすべて先回りして、一人でこなしていた。


食事介助一つとっても、介助が必要な利用者は十人中五名いた。

一人で介助を行うなか、時間との勝負だった。

利用者も介助をすれば、完食してくれるわけではない。

基本的に食事は管理栄養士が計算して提供している。完食できていないと、栄養不足が疑われる。

本人の性質なのか、職員の介助の問題なのか、器具の問題なのかが会議で炙り出される。

たった一時間で、その人数を介助して、食事も水分も完食させて、服薬介助もしてって、かなり無理がある。できなければ、鬼のような職員が待っている。

利用者も食欲のない方ばかりで、「食べとうない」と意思表示をされる方の口に、「食べないと元気でないですよ」「栄養がないと、病気も治らないですよ」気休めにもならない正論を口にしながら、ご飯を突っ込む。

「あぁあぁ」

と叫び声をあげて、拒否する利用者もいた。

お互いにストレスを感じていた。

自力摂取できる利用者にも目配せが必要で、食が進んでいない利用者には声掛けし、それでも食べないと軽介助をする。軽介助も常態化すると、利用者は自力で食べなくなる。悪循環はわかっているが、食べない選択肢はない。

かき込んでしまう利用者もいて、かき込まなかったとしても、喉に詰まらせてないか、常に観察が必要だった。

朝食介助中に、下剤服用の利用者が盛大にぶちかましたことがあった。匂いもそうだが、ズボンから車椅子を伝って、水分過多の便が床に溜まりを作っていく。

「もう、ご飯食べゆうのに、臭いねぇ」

「どこで、しゆうがで。トイレもわからんくらい、アホになったんかえ」

利用者の心無い言葉は、ごもっともだが、配慮の欠片もない。職員も利用者も、一緒じゃないかと思った。結局、人間は、自分より劣っていると思っている人間を蔑むようにできている。

しかも、排泄はトイレで二名介助の方だったので、隣のユニットの職員に手伝ってもらったことがあった。


私は、裏技を使った。

半分以上、七割程度食べていたら、途中でもお膳を下げた。水分も、全部飲まなくても、最低200㏄摂取できていれば良い。もともと、食欲のない利用者は文句を言わなかった。

日誌には『お声がけし、朝食介助をさせて頂く。スプーンを口元に運ぶと顔を背けられ拒否見られた。7/7摂取。半分以上摂取されているので、中止する。水分200㏄、介助にて摂取される』

このように記載した。

服薬介助は、誤薬を防ぐために、隣のユニットの職員に「○○様、何月何日朝食後薬です」と報告して、二名で確認しなければいけない。

常に、状況の中で、最適解を導かねばならない。

だから、心身ともに疲弊した。


みらいユニットにも入るようになった。

電動車椅子で認知もなく活発に活動される方がいた。伊瀬知雅子いせちまさこ様は、バルーンを装着していた。

夜は誰よりも遅く日を跨ぐこともあった。朝は誰よりも早く、四時過ぎには「起きたい」と訴えてきた。通常なら、自由は許されないが、ここのコンセプトは生活の場。自宅と同じように、生活してもらう。もともと、短時間睡眠の生活歴だった。ベッドに横になっても、テレビドラマを見たりして、すぐには寝なかった。

認知症もなく、ご自分の意思がはっきりされているので、本人の意思は尊重された。

食堂でよくパズルをされていた。あと手芸も得意で、厚紙で飾りのボンボンを作ったこともある。年齢の割に精神は若く、スマホで電話したり、ニンテンドーDSでどうぶつの森をされていた。

よくご家族様に連絡して、外出されたり、外泊され家に泊まっていた。

光が強ければ強いほど、影は濃くなる。

彼女はストレスが溜まると、バルーンの管に穴を開ける。腹部から膀胱に挿入しているため、抜去してから一時間以内に再挿入しないと穴が塞がり、病院受診をしなければいけない。

そう聞いた。

自宅から持ち込んだのか、注射器やハサミで傷つけたこともあった。

一度、遅出で帰る時間に、オンコールナースが看護師長だった。野上瑠美のがみるみは、私とほぼ同年代だが、看護師として性格までどっぷりだった。口では、良いように言うが、介護職を見下げていた。

以前も書いたが、夜勤の看護師はいない。その代わり、医療的な事案が発生した場合、オンコールナースに連絡しなければいけない。一回五百円。次の日も、当然仕事がある。一日ごとに交代する。

最悪、状況によっては、施設に来なくてはいけない。

「お疲れ様です」

帰り際、伊瀬知さんの抜けたバルーンの処置をしていた野上と目があった。

死んだ魚の目をしていた。それだけで、不機嫌さが伝わってきた。


夜勤に入るようになると、いろんな方がいた。

みらいユニットには、完全に寝付くまで、五分十分で排泄に起きられる方。一度、起きると、それがまた寝付くまで続く。一回の排尿量は極少量で、本人も気持ち悪いのだろう。すぐに立とうとはしない。床に敷いたセンサーコールが、手持ちのPHSに知らせてくる。その音を聞くだけで、イライラする。頻尿の薬を貰えばとリーダーに相談したこともあったが、流された。頻尿は、数秒、一分の世界の話。それには該当しないから、なしとのことだった。

睾丸が肥大してソフトボール大になった男性利用者。無意識に股間を掻いて、ペニスに巻いたパットはいつも外れ、毎回、排泄介助のたびに、全更衣をしなければいけなかった。試しに、一時間ごとに見に行っても同じことだった。毎回、全更衣。尿でかぶれた様子はないが、痒みを伴う刺激を少しでも軽減しようと、陰部洗浄後ワセリンを塗って保湿したり、ベビーパウダーを塗布してみたりしたが、すべて無駄に終わった。

毎回、衣類とラバーシーツを洗濯機にかけなければいけない。

尿や便に汚染された衣類は、バケツでハイター消毒してから洗濯機で回すことになる。一時間は付けていないといけない。

途中から面倒になり、洗濯機に汚染された衣類とハイターと洗剤を一緒にぶち込んで回すようになった。

ひかりユニットには、右半身麻痺の男性がいた。橋口勝弘はしぐちかつひろ様は、言葉を発することはできないが、キレやすく、抑肝散を二袋服薬していた。

それでも、介助に不満があると、私の腕を掴んで力いっぱい握りしめてきたり、拳を繰り出された。

日中もトイレで排泄介助をしていると「あぁ」と声を荒げることがあった。

毎回、キレるポイントが変わるので、対策を講じるのも難しい。祈るしかない。

野田千代子のだちよこ様は、こだわりがかなり強い。ご自分の決めた順番を乱されるのを嫌われる。自分の介助中に、他の利用者が気付かずに扉を開けると、この世の終わりのような声で怒鳴り散らされる。しかし、他人が排泄中には、かまわずどこにでも入っていく。

収集癖があり、共用のティッシュ箱だろうが、パットだろうが、全部部屋に持っていこうとされる。

「これは、私が金出して買うたがやろ。私は、ここで一番金払いゆうがで」

加古川リーダーや、小川伊代おがわいよケアマネージャーが何度も「皆さん、一緒です」と説明をした。

それでも不服そうだった。

食堂で、他の利用者がご自分の前にあるティッシュを使おうとすると、箱ごと取り上げて「これは、私のがで。勝手に使いな。常識もないがかえ、低能が」と平気で言う。

その都度、これはみんなのと説明するが、本人は納得しない。だから、家族に相談して、ティッシュを買ってきてもらうことにした。これで本当に、本人の持ち物になった。だから、他のご利用者様が取らないように、こちらも目配せする必要があった。

入浴介助中も、「私は昔看護師やりよった。体操の選手もやってた。だから、自分の身体は自分が一番、よく知っちゅう。はい、温度上げや。こんなぬるい風呂に入りよったら風邪ひく」と言われた。

温度は適温だが、本人は銭湯バリの熱湯を所望する。夏でも、熱湯を希望される。

施設の設備として、熱湯は出ないように設定されていた。浴室には暖房もあり、寒いことはない。

それを何度も説明するが、忘れる。

冬は特に注意しなければ、ヒートショックを起こしかねない。

私は、秘策を見つけた。ずっと、マシンガントークをして、温度が話題に出ないようにした。本人を持ち上げ、気分を良くしてもらう。太鼓が破れるくらい太鼓持ちをした。

夜勤中は、トイレに起きられるので、その都度コールされる。他のご利用者様の介助で、なかなか手が離せないときなどは「いつまで待たせるがで」と怒鳴られたことがある。

確かに、トイレでずっと待たされるのは心細いだろう。

しかし、この方は本来介助は必要ない。見守り程度で、なんでもできる。その証拠に待ちきれないときは、自分で勝手に行く。

五十嵐芙美いがらしふみ様は、美術の才能がある。いつも、食堂で暇つぶしに塗り絵をされていたが、メリハリはあるが繊細さも兼ね備えた、絶妙な色遣いをされる。施設で秋に開催される個展では、毎年出品されていた。

ご本人は、豪快な人で、野田様に負けず劣らずの気性の持ち主で、席も同じテーブルなので、しばしば喧嘩されることもあった。

朝食後に、持病の癲癇発作が発現することがあった。

排便がないことに、不機嫌になったり、トイレで力みすぎて痔になっていた。

コールから少しでも本人が遅いと感じると、怒鳴られる。

それも機嫌の状態によって変わり、事情を説明すると「かまんよ」と納得される日もあった。

私は、利用者をうまく捌くことで、イラつきを抑えた。



秋になって、佐久間がいろどりユニットに異動になった。

私の劣等感を刺激する人間はいなくなった。

加古川リーダーが妊娠した。

「すいません。ご迷惑おかけします」

職員から「またかよ」「何人目よ」と陰口が聞かれた。

介護の世界では、他人の幸福は、自分にとっての不幸になるらしい。抜けた穴を埋めるために、その皺寄せがくる。

中山リーダーも、別のユニットに異動になった。

後任に、小川真人おがわまさとリーダーが選ばれた。筋肉質な肉体に、いつも笑顔を貼りつかせ、およそ本音がわからない。橋田リーダーを思い出した。


十二月。

私は、バイク事故を起こした。

出勤していたとき、施設近くの十字路で、止まれの標識を無視して車が突っ込んできた。

あっ、死んだ。

私は、ブレーキを抑えるが、車のドテッ腹に突っ込み、視界がぐるっと回った。

だが、死んでなかった。怪我すらしていなかった。

「大丈夫ですか?」

中尾彬のような捩じりマフラーに、金持ちそうな中年の紳士が真っ青な顔で走ってきた。隣には中年の美人な淑女が立っていた。

「はい、大丈夫ですけど」

私は起き上がると、まず、スマホと財布、煙草を探した。原付はオシャカになっていた。相手の車を見ると、運転席のドアが凹んでいた。

紳士は、震える手で警察と救急車の手配をする。

私は、道路脇で煙草を吸いながら、面倒なことになったなと思った。とりあえず、電話でユニットに連絡する。

「大丈夫ですか? 今日は、休みでいいですよ」

「いえ、行きますから。遅れます」

「はぁ」

電話越しの小川リーダーは、社畜にドン引きしていた。

すぐに、警察と救急車がきた。事情聴取を受けてから、救急車で市内の施設からかなり遠い病院に搬送された。

「うん、問題ないね」

医者はすぐに診察を終えると、二時間くらい待合室で待たされた。

病院を出ると、夕方になっていた。

「休んでいいですよ」

「いや、でも、医者も大丈夫だって」

「まぁ、動けそうなら、来てもいいですけど」

「一時間くらいで着くと思います」

私は、給料日前で金欠だった。

だから交通機関を使う金もない。

施設まで歩いて行った。田舎育ちのせいか、歩くのは苦ではない。道は続くよどこまでも。道がある限り、歩くことはできる。

予定通り、一時間程度で施設に着くと、とりあえず一服した。ここまで遅刻したら、何分遅れようと同じことだ。中町清子なかまちきよこ介護主任がたまたま喫煙所に来ていて、私を見て「大丈夫?」と慌てていた。


私はユニットに行くと遅れてきたことを詫びた。

誰も「大丈夫ですか?」「今日は、休んだら」とは言ってくれなかった。

不幸な自分を見せつけたかったのか。心配されたかったのか。

小川リーダーは私のせいで、十何時間の労働を強いられていた。私と交代してからも、リーダーとしての事務仕事をしていた。

そして、利用者が転倒した。普段、転倒したことのないご利用者様。

壁で頭を打っている可能性があったので、受診をすることになった。

野上看護主任は、この日三件の受診を終えて、やっと帰路につくところだった。

「ここまで来たら、何件でも行ってやるわよ」

開き直っていた。


まったく、ツイてない。

今頃になって、足が痛くなってきた。

引きずって動かなければいけない。

ツイてない。ツイてない。ツイてない。ツイてない。

最悪の年末だった。


少しして、新崎の妊娠が発覚した。

煙草を辞めて、いつもは食べない食事も摂っていた。よく休むようになった。

本人は何も言わなかったが、周りは薄々感ずいていた。

加古川リーダーもそうだが、二人とも、休憩中に横になることが多かった。



一月。

小川リーダーが退職した。

私は突然の報告に驚いたが、水面下で以前から決定していたらしい。

嫁の小川ケアマネに聞くと「もう、介護はしんどいって。次は、農家でもやるらしい」と言っていた。

しばらくみらいユニットは、リーダー不在の状況だったが、いろどりから一幸太郎にのまえこうたろうリーダーが後任に選ばれた。太陽ユニットで見たイケメンだ。

そして、ひかりユニットにも、加古川リーダーの後任に深田香織ふかだかおりがリーダーに選ばれた。一リーダーと同じくいろどりで一般の介護職だったが、今回初めてリーダーを務めることになったそうだ。

もともと、加古川リーダーは深田の学生時代の後輩で、同じバレー部に所属していたらしい。


二月。

新崎が先に産休に入った。加古川もリーダー職を下りて、一般介護職員になっていたが、体調が悪いのかよく休むようになっていた。

その穴を埋めるために、私は地獄のシフトを働いた。

まるまる一ヵ月、休みなし。

大袈裟に思われるかもしれない。

シフト上には休みとある。だが、それは、夜勤明けであって、本来の休みではない。

通常、夜勤明けの次は公休になる。その公休を剥奪された。つまり、毎日、どこかの時間帯は、必ず働いている状態になった。

皆、家族持ちだったり、恋人がいたり。

一般職で、何もないのは私だけ。

一リーダーや深田リーダーは、そんな私を尻目に三連休や四連休を取って、ゆっくり休んだ。深田リーダーは独身で恋人もいない。ただ、リーダーに何かあったらいけない。その配慮で、人の後頭部を殴っていた。その他の職員も、公休は与えられていた。

春月荘は、利用者に皮下出血ができているだけで、事故報告書を提出する決まりになっていた。私は、馬鹿正直に提出していた。

排泄、食事、服薬、排泄、食事、服薬、日誌、事故報告書、更衣、離床、臥床、排泄、日誌、事故報告書、排泄、食事、服薬…。

頭がおかしくなりそうだった。いや、おかしくなっていた。

常にイライラしていた。みんな、死ねばいいと思っていた。

夜勤中、大声を出したこともあった。

安部君江あべきみえ様は、冬になると、夜間の排泄を嫌がる。

「寒い、やめてえ」

掛け布団をギュッと握って放さない。

私は、引きちぎる勢いで掛け布団を取った。

「なにするがでぇ。バカ、アホ」

と、私の腕や胸を叩いてきた。

枕もとに拳を叩きつけた。

「いい加減にせぇよ。ぶち殺すぞっ」

何度も何度も拳を叩きつけた。

「人が世話せんと小便もできんような人間に、なんで殴られないといけねぇんだよ。あぁ、ふざけんな。お前ら、さっさと死ね」

私の大声に委縮して、さっきまでの勢いは消えていた。

橋口様も、不機嫌に暴力的になっていた。私も負けず、「なんやこらっ」と言う。

手が出るので、足で胸を無理やり押さえつけて排泄介助をしたこともあった。

野田様や五十嵐様に怒鳴られると、「勝手にしろっ」と介護を放置したこともあった。


利用者の転倒事故にもあった。

気が狂いそうだった。

また、介護報告書。

誰も助けてくれない。

両ユニットのリーダーに至っては、「昨日、どこそこに行って来た。楽しかった」と、話していた。

お前ら、俺の前でよくそんな会話ができるな。

お前ら、全員死ねよ。ゴミクズが。


中町主任が異動になるため、ユニットリーダーから今回昇級した下川琢磨しもかわたくま介護主任が、私の荒んだ心に塩を塗った。

珍しくユニットに来た彼は、ご利用者様の転倒についての事故報告書の提出期限を過ぎていることにキレていた。

「いつ出すんだよ」

最初から喧嘩腰だった。さすが、新崎の彼氏のヤクザリーダーと仲が良かっただけはある。

「はぁ、うるせぇなぁ」

このときの私は、上司とか関係なく、目に映るものすべてを呪っていた。

「お前、誰に口利いてんだよ」

「お前だよ。豚野郎」

下川主任は、太っていた。

彼は、私の胸倉を掴んだ。

「やるなら、やれよ。さっさと。主任が一般職殴ったって、すぐに報告したるから」

もう、滅茶苦茶なのはわかっている。だが、どうにもできなかった。

「クソが。いいから、さっさと提出しろ」

そう言うと、出て行った。

「最近、おかしいですよ。あなたは、優しい人なのに」

加古川が、不安そうな表情で言って来た。

「おかしくもなるだろっ。こんなに働かされて。休みねぇんだぞ。自分らは連休取って、人の前で楽しかったとか喋りやがって。頭、湧いてんのか。クソが。お前ら、死ねよ」

職務を放棄して、喫煙所に向かった。

とにかく煙草が吸いたかった。


喫煙所には、枠井課長がいた。

「あれ、仕事は?」

「今だけは、固いこと言わんで下さい」

私は、課長に経緯を愚痴っていた。

「それは、良くないなぁ」


その日の午後。

一リーダーが、私のところに飛んできた。

「ごめんごめん。キミばっかり働かせてしまって。申し訳ない」

やっと、休みが貰えた。たった一日だけど。

「四月になったら、人員補充されるから。あとさ、不満があるなら、課長じゃなく、こっちに言ってよ」

「言ってたら、聞いてくれましたか? 人を働かせて取る連休は楽しかったですか?」

一リーダーは苦笑いしていた。きっと、キレたい衝動に駆られているが、ここでキレたら、話がややこしくなる。

「ごめんごめん」

一リーダーは、誰よりも出世欲が強い人だった。

だから、課長への報告は、かなりダメージが大きかったようだ。

課長から、今後シフトを作成してから、提出するように全ユニット義務付けられたらしい。あくまでも、勤務に偏りがないか確認するために。

一リーダーのプライドは傷つけられたようだった。



朝食後、安部さんをトイレに誘う。

「安部さんっ」

近くに寄ると、怯えた表情で両腕を顔の前に出した。

えっ。なんで。

加古川が「どうしたんですか?」と寄ってきた。

「さぁ、ちょっと驚かせたのかな」

私は、口ではそう言った。

だが、本音ではわかっている。

認知症があるのに、物事をすぐに忘れるのに。

なんで、覚えてんだよっ。

私が、夜勤中にした行為から、恐怖が芽生えた。

利用者は認知症があっても、物事や出来事自体を忘れることはあっても、嫌な気持ちは覚えている。

不適切な声掛けをする職員には、牙を剥くときもある。

逆に、笑顔で接すると、相手が誰かも理解できていないが、朗らかに対応してくれる。

利用者は、自分を映す鏡。

私が発した呪いは、やがて自分に返ってくる。

「ごめんなさいね。びっくりさせたかな」

本当に、ごめんなさい。

私は、罪悪感で死にたいと思った。
































「なんじゃ、こりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」

つづく。

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