茜さす~或る戦車兵の話~

磯風とユキカゼ

茜さす~或る戦車兵の話~



私は物心付いたときから女ではなかった。

もちろん、生物学的には女である。立ち居振る舞いが、だ。

地方の小作農家の長女として生まれたが、二人の兄達そして二人の弟達と一緒に野山を駆け回り、木に登ってセミを取り、棒切れを見つけては振り回し……そのようなやんちゃには枚挙に暇がない。妹達が静かであったし、両親も矯正させることは不可能と悟っていたようだったから、余計目立った。

そんな私が興味を抱いたのは、機械だった。その中でも、未だに舗装など無い道路で土煙を上げ、臭い排気を撒き散らす自動車に強く惹かれた。ちょうど私たちの畑の地主である中田さんが、私の集落の中で唯一の自動車所有者であった。中田さんは新しいもの好きのおおらかな人で、よく子ども達と外で遊び、色々な事を教えてくれた。しかも土地代の徴収も最低限と地元でも老若男女から人気のある人だった。地主以外にも仕事をしているから、最低限でいいとの噂だった。

これに乗せてほしいと、私が言えば、

「おっ、境さんとこの嬢ちゃんか!ええぞ!」

と言って、燃料のガソリンも安い訳が無いのにその助手席に乗せてくれた。それが楽しくて楽しくて、いつしか魅せられていた。


それから十数年経ち、この国は変われど故郷(くに)は変わらず、農業で生計を立てていた。もう世間一般では女性は嫁入り修行や稼業の手伝いをするものだが、十六になった私はというと中田さんの車の運転手になっていた。親はもう色々諦めたのか、何も言わなかった。

しかし、閉鎖的なここで独り身の女性となるとあまり都合がよろしくない。

中田さんにそのことを相談すると、「陸軍の戦車兵はどうだい?」と進められた。

つい前年のこと、この国の陸海軍は、志願すれば女性でも兵隊になれる「女性志願兵士官制度」および陸海軍大学への女性課程設置を始めていた。中田さんによれば、「普通の民間企業は未だに女性への扉を閉ざしたままで、そこで車をとなるとバスガール以外は難しすぎる。お前さん(私の事である)は、頭もいいし力もある。陸軍さんに行けば、その知恵も体力も武器になるだろう。士官学校なら将来も安泰、お給料は今より減ってしまうが……」とのこと。私は、その言葉を信じて両親に話し、一年みっちり勉強し、晴れて士官学校の門をくぐった。

両親は何も言わず苦笑で、上の妹と弟はまるで厄介者が消えると言わんばかりの顔で、兄たちと下の弟と妹は純粋な笑顔で私の門出を祝った。


士官学校での士官教育は苛烈を極めた。予科・本科共に月のものも考慮されない訓練と大量の座学、男性に寝込みを襲われそうになったこともある(もちろん返り討ちにしたが、過剰防衛気味とのことで私は罰掃除一週間、相手は初犯だったこともあり罰掃除二週間と反省文が課された)。しかしながら、ここでの学びは非常に有益な物であった。例えば戦史、例えば兵站学、例えば兵器学……挙げればキリがない。一刻でも早く戦車に乗りたかった私は、その課程を片端から飛び級して一年半で修めた。

そして、全て終えた後、見習い准尉として任官され、そのまま戦車学校に入校し戦車についての専門的な教育を受けた(士官学校の恩師によれば「普通なら順番が逆だが、まぁ別に問題ないだろう」とのことである)。

「そしてこれが、諸君たちがここで使う教材である!戦車、前へ!」

入校式の際、校長の号令で運動場に入ってきたのは、何とも小さい、可愛らしいという表現の似合う戦車とそれと比べたら遥かに大きな戦車だった。

「これが!諸君らが世話になる、B式練習戦車及び3式戦車1型である!しっかり学び、良き戦車士官となるべし!以上!」

「校長ならびに二両の戦車にィ、敬礼ッ!」

進行の号令で一糸乱れぬ敬礼を送る。これが私の、戦車兵人生の始まりであった。

入校式の翌日から、戦車兵としての訓練が始まった。そこで、「乗り物自体に慣れているから戦車も問題ないだろう車って付いてるし」などという私の慢心は尽く打ち崩された。

まず操行装置が違いすぎる。B式の操縦席にはレバーが三本とペダルが二つ。私の見慣れた、ハンドルと三つのペダル、そして一つのレバーとは全く違う。それに視界も悪すぎる。中田さんの自動車とは全くもって勝手が違った。それでも殆ど主席の成績を取れていたのはアクセルとクラッチの扱いについて心得があったからだろう。

そんなわけで、私は、この国で初めての「女性戦車士官」となった。




彼女との出会いはそこから三年後であった。国境での小競り合いに戦車乗りとして参加した私は、戦車学校で使っていた3式の後継である4式戦車1型の車長として五台の敵戦車を叩き潰し、四台のトラックを吹き飛ばしたことで(等級は低いが)勲章を頂き、休暇を貰っていた。戦場の空気など微塵も感じられない帝都は少し落ち着かず、かと言って今から実家に帰るには行って帰ってくるだけで休暇は終わってしまう。さてどうしようかと思案した時、士官学校時代に順番が逆と言った恩師が、帝都にある軍人共済病院に入院していることを思い出し、そちらを訪ねることにした日のことである。


「おう、気を付けてな」

簡単な花束と少しの水菓子を手土産に、恩師の大佐を訪れ少し歓談したのち、そのまま帰ろうとしたその時、歩いている廊下が騒がしくなり白いなにかとぶつかった。

「ごめんあそばせ!今忙しいの!」

白いなにかは入院着に身を包んだ、燃え盛る炎のような深紅の髪をした少女だった。何かから逃げるようにその場を走り去る。

「軍人さん!その子を捕まえてください!」

彼女を追いかけているのは看護婦だった。その要請を受けた私の体は、バネのように伸縮し、彼女を捕まえようと動く。病人が正規の軍人に勝てる訳もなく五秒で捕まえた。

「これで何度目ですか三堂様……私たちを困らせるのはやめてください……」

「あら、名字で呼ぶのはやめてと何度も言っていますよ?」

「そういうことではなくてですね……」

「私のことを下の名前で呼ばないとここから動かないわよ!」

「はぁ……分かりましたよ茜様。ほら、戻りますよ!」

「はーい、あ。ちょっと待って!」

看護婦に連れられて病室に戻る三堂 茜という少女は、私のほうに近づいてきて

「もしよろしければ、このあと私のお部屋に遊びに来ませんか?カッコいい軍人さん?」

と誘ってきた。特に行くところもなければやることもないので、二つ返事で了承した。

程よく電気冷房の効いた彼女の病室は、朝日の差し込みやすい、東向きの端の個室だった。強く差し込むはずの日差しは、清潔感溢れる白いカーテンによってこれまた程よく遮られていた。

「そういえばお名前を聞いていませんでしたね。お教えくださる?」

一昨日の新聞に受勲者として名前があると言うと、「新聞は読ませていただけていないので……」と申し訳なさそうに言った。

私は自分の氏名、階級(少尉。先の戦勲はあるが、まだ若く学ぶべきことが多いと判断されたため、異例の昇進無しの受勲となった)と所属(国境付近の戦闘部隊である)を話した。それを話しても彼女はキョトンとしてよく分かっていなかった。

「ごめんなさい……全然疎くて……」

申し訳なさそうに謝る茜。しかしながら、すぐに顔を明るくし

「でもあなたの名前も綺麗ね!ゆーちゃんって呼んでいいかしら?」

いきなりあだ名を付けられた。少し驚いたが、別に変なものではないし了承した。

そして茜は、私のことを根掘り葉掘り聞いてきた。

「ゆーちゃんはどこ生まれ?」

「なんで軍人さんに?」

「戦地でのお話を聞かせて?」

などなど。私はその全てにおいて、軍機以外のことは誠実に対応した。

「あー楽しかった!また遊びに来てね、ゆーちゃん!」

日もすっかり傾き、 帰ることを告げると茜は、そう言って微笑んだ。


「ねぇ、お外に行かない?」

そう彼女が言ってきたのは彼女と出会って一年経つか経たないかといった時期のことだ。その頃の私は、帝都防衛の要である第一機甲師団で四両の戦車を率いる小隊長になっていた。職場が近くなったこともあり、足しげく通うようになっていた。

「私、ぷりんという物を食べてみたいの!」

無論私も食べたことがない。軍営の売店で手に入る甘味といえば、古くから食される伝統の菓子ばかりで、舶来の物といえばキャラメルくらいだった。私は食べられる所を知らないと言うと、彼女はおもむろに何かを取り出した。

それは雑誌で、表紙には「帝都一周美食ガイド」とある。

「この雑誌によると、この病院の近くの喫茶店で食べられるらしいわ!」

確かに、ここに来る途中に一軒の喫茶店がある。テラスにも席があるので煙いタバコも気にしなくていいだろう。その旨を看護婦に伝えようとすると、

「ダメよ!こっそり行くのがいいんじゃない!」

と遮ってきた。しかし何も残さずに行くと心配するだろうと言うと、不承不承といった風で、書き置きをすることに賛成した。

そして私は白いワンピースに着替えた彼女をこっそりと連れ出すことに成功し、件の喫茶店に向かうのであった。


その喫茶店は、お世辞にも繁盛しているとは言い難い店だった。雑誌にも載っているのだからさぞ人が多いのだろうと思っていたが、広くない店内には、カウンターの奥で船を漕ぐ老齢のマスターと、その近くの椅子に腰を掛け、短い鉛筆を片手にうんうん唸っている、作家風の若い男。そして笑顔で接客をする女給が一人。その女給には、

「まぁ!?境少尉じゃありませんか!!」

と驚かれた。この女給はどうやら新聞などを読むお人らしい。

私はぷりんとやらを一つと紅茶を頼んだ。女給は、「かしこまりました」と言ってカウンターの後ろにある、まだ珍しい冷蔵庫から、戦車の砲塔を小さくしたような黄色の円錐台を取り出し、丁寧に紅茶を淹れてポットで持ってきた。

「こちらプリンとお紅茶でございます。ごゆっくりどうぞ」

「ありがとうございます。それじゃあさっそく……!」

茜はスプーンを取り、プリンの柔肌をそうっと、慎重に削り取った。それを口に運ぶと、

「ん~~~~~っ!!」

満面の笑みを浮かべ、声にならない歓喜の叫びを上げた。

「これとっても美味しいわ!ゆーちゃんも一口、あーん!」

と言って、プリンの載ったスプーンをこちらに突き出してきた。それを口に入れ、咀嚼しようとしたが、舌の上に乗った途端、冷たさと共にキャラメルとも違う濃厚な味わいが口いっぱいに広がり、それを上にかけられた茶色の液体がその苦味で優しく包み込んで、思わず笑みが溢れてしまう。

「どう!?どう!?」

美味しいと伝えると、茜は大仰に頷いた。

それを端から見ていたであろう作家風の男は、忙しなく鉛筆を持つ手を動かしていた。

満足した私たちは、病院へと戻る。病室まであと一歩というところで看護婦に見つかり二人まとめて説教を受けたことは、言うまでもないだろう。

この日から、彼女の脱走劇に私は手を貸すようになった。途中から看護婦は黙認しだし、主治医に至っては

「まぁ、ずっと娯楽の少ない院内というのも気が滅入りますし、彼女は不治の病ですから、今のうちにたくさんやりたいことに付き合ってあげてください」

と言って、あまり遅くならなければという条件付きで認めてくれた。

ある時には、病院とは国鉄の環状線で真反対にある国立の科学博物館の鉱石や化石の展示が見たいと言い出した。そこまで連れ出し、学生が見つけたという首長竜の全身化石や、この国から採取された石英や黄鉄鉱などの鉱石に目をきらめかせていた。ただ、この時ばかりは日没までに帰ることができず、こっぴどく叱られた。


そしてそんな日々を過ごして、私は茜と可能な限り長く一緒にいたいと思うようになった。機械にまみれる日々を長く過ごしていた私にとって、茜はまさに「茜さす」存在だった。


「戦車に乗せて!」

これまた無茶な注文が飛んできたのは、初めて外に連れ出してから二年後のことだった。

駐屯地への立ち入りは原則家族でも難しい、ましてや戦車への乗車となると更に難易度が上がる。そのことを伝えると

「受勲者でもできないことってあるのね……」

と少し落ち込んでいた。

その哀しげな表情に、流石の私もこれには堪えた。そして、二週間後に観閲式を兼ねた駐屯地開放日があることを思い出した。開放日には様々な催し物があり、そこでならなんとかなるかもしれない。駐屯地へと帰還した私は、自身の上官である中隊長に掛け合った。

「観閲式後での戦車体験搭乗の催し、か……悪くないな。大隊長に話してみよう。無論、少尉にも来てもらうぞ」

「ふむ……体験搭乗か……確かに戦車という物が如何なる物か、その体で知ることができ、尚且つ将来を担う子供にも受けが良さそうだな。連隊長に話してみよう。境少尉、貴官からも説明してくれ」

「ほう……面白い。師団長に掛け合おう。境、君も説明してくれたまえ」

以上のように、トントン拍子で話は進み、当日中に第一戦車師団師団長にまで説明をすることになった。

「なるほど……戦車体験乗車……いいだろう。やってみなさい。観閲式の一週間前までに書面にまとめて持ってくるように」

白髪混じりの師団長は、そう言って許可を出した。書類の文章を考えながら師団長室を去ろうとすると、

「境くん、君は残りなさい」

師団長に呼び止められた。

「……乗せたい人がおるのかい?」

私は即座に否定した。本当はいる。しかしそれは完全なる公私混同であり、認められない。

「何、ここには私と君の二人しかおらず、また、この話に聞き耳を立てる人間もおらん。正直に話してはくれまいか?」

即座に否定した私を見て、師団長はそう言った。この方に隠し事は通用しないらしい。私は少し迷った末、先程の問いに対して肯定しありのままを伝えた。三堂茜という少女と最近仲が良いこと、彼女が不治の病を患っていること、彼女の病状がここ数年安定していること、その病は感染しないこと。そして、彼女の願いは可能な限り叶えてやりたいこと。

全てを聞き終わった師団長は、微笑みを浮かべ、

「……なるほどな。その三堂くんが君の想い人というわけか」

発言の意味が分からない。狼狽えながらも理解しようとしていると、続けて、

「いや、君はずっと戦車が恋人のような、人間に興味がないような空気を醸していたからね。安心したよ」

そこには、まるで子を心配する親のように、孫を心配する祖父母のように柔らかな調べがあった。


開放日当日。目も眩みそうな快晴の下で、駐屯地は普段以上の賑やかさを持っていた。

茜は真っ白なワンピースに身を包み、痛みの全くない麦わら帽子をかぶっていた。

見つけるのは簡単だったが、

「境少尉!」

「握手して下さい!」

行く先々で握手などを求められ、その様子を同僚に冷やかされ、彼女に近づくことは困難を極めた。

茜の元に辿り着くだけに、実に十二分ほどの時間を要した。

「遅い!」

茜は、それはそれはカンカンに怒っており、いくら謝罪してもなかなか許してくれなかった。

いくつか提示したお詫びの中で、あの喫茶店のプリンをいくらでも食べてよいという物で決着がついた。

師団長による観閲行進の後、各種の催し物が始まった。

音楽隊の奏でる音色と、数々の屋台から漂うさまざまな香りがそこら中に満ちていく。

「戦車体験乗車をォ、希望される方はァ、こちらでェす!!」

広報に当たる軍曹のよく通る声が人々を集めていく。いつの間にか受付天幕の前にはどこよりも長い列ができていた。列の幅も二列、三列と増えていき、最終的には四列で多重に折り返すような事態になっていた。

この日の戦車は、私が国境で乗り回していた4式戦車ではなく、その後継となる5式戦車であった。車体も砲塔も、直線的な装甲で覆われていた従来の戦車と異なり、全体に傾斜がつけられている。一番傾斜のきつい砲塔防盾は50度にも達する。それに合わせ、最大で100mmの装甲板と長砲身の75mm砲を備える最新鋭の戦車だ。一般的な分類を適用するなら、中戦車あたりが妥当だろう。

今日は5式の車体後部を若干拡張するように、簡単な足場と手摺が組まれ、そこに乗ってもらうことになっている。

茜は、その足場でも一番砲塔に近いところに陣取った。車長用キューポラの真後ろである。

「えへへ。ゆーちゃんのすぐ側ね!」

そして戦車は走り出す。茜は右手で麦わら帽子を抑え、左手で手摺を握る。最初はゆっくり、だんだんとギアを上げて最速近くの30㎞/hに達する。

少し後ろを見ると、子ども(茜を含む)ははしゃぎ、大人はたじろいでいた。

「すごーい!はやーい!!」


「ゆーちゃんはいつもあの視点なのね!うらやましいなぁ……私も病気じゃなければ……」

全ての催しも終わり、日も暮れだした。私と茜は夕暮れを背に門に向かって歩く。

「来年も、また来ようね!」

そう言って、こちらに振り向いた彼女の顔を、西日が照らし出す。その顔は満面の笑みで、私の心に強くきらめいた。


その時私は悟った。

とっくのとうに、私は彼女に、





惚れていたのだと。





その来年は、永遠に来なかった。




この数週間後、私が4式で駆け回った国境線がよりきな臭くなってきた。それでも辛うじて均衡は保たれていたが、年明けに崩れた。

突如として東側の隣国に宣戦布告され、東部方面の国境警備隊はなすすべなく蹂躙された。陸軍も準備不足から初動の展開が遅れた。

その空いた穴から隣国の部隊が雪崩を打ってやってきた。

国家は戦争状態へと移り、軍人共済病院には病人よりも怪我人と死人の割合が増えていった。

「ゆーちゃん。もう一度、プリン食べに行かない?」

茜がそう誘ってきたのは侵攻から五ヶ月がたった頃。何とか防衛に成功し、建て直しを図っている最中の時期だった。私は同期の見舞い(寮に侵入してきた奴である)に行ったついでに、自然と茜の病室に寄っていた。

その誘いを快諾した私は、茜を連れて病院を出た。件の喫茶店は、一応営業していた。閑古鳥が鳴く店内に女給の姿はなく、茜が「ごめんください!」と言うまで誰も出てこなかった。

出てきたのは老齢のマスターだった。

「申し訳ありません。ドアベルを付けているのですが、この歳になるとどーしても耳が遠くなるものでして。それで、お客さん、何にします?」

物腰低く謝罪をし、自然と注文に移る所作は何とも熟達した物を感じる。

「プリンを2つ……あと紅茶をお願いします」

茜がそう言うと、マスターは顔を伏せて少し思案し

「プリンですか……あの子が先月嫁に行きまして、上手く作れるか分かりませんが、やってみましょう」

と、言った。

そうして、マスターがレシピと思われる紙とにらめっこしながら作り上げたプリンは、お世辞にも良い形をしているとは言えなかった。

意を決して茜がプリンを口に運ぶ。

「……おいしい」

私もプリンをひと掬いし、おずおずと持って行った。

女給の物とはまた違う、固めに引き締められたプリンは、その上品な甘さを余すことなく味覚に伝えた。確かにこれはこれで美味しい。

「若いお嬢さん方においしいと言っていただけるのは喫茶店の店主冥利に尽きるというものです……。最後のお客さんがあなた方でよかった……」

「どういう……ことですか……?」

茜が目を見開く。

「物が全然足らんのですよ……。卵も……砂糖も……茶葉もね……」

曰く、このプリンがこの店で出せる最後の物だったそうだ。

最後のプリンを噛みしめ店を後にした私たちは、茜の提案で、そのまま写真館に向かった。

写真館の店主は、軍服を着ていた私を見て、即座に用意をしてくれた。

「現像に時間がかかりますので、後でお持ちします。どちらに持って行けばよろしいでしょうか」

茜は病院の窓口、私は駐屯地の警衛門に頼み、写真の撮影が始まった。

茜は豪奢な椅子に座り、私がその肩に手を置く。

こちらからは茜の顔は見えない。今更ながら気づいたが、出会った時には煌々と鮮やかな紅(べに)を放っていたその炎髪も少しくすんで見えたような気がした。

撮影は数分で終わった。私たちは病院への帰途につく。

街並みはあまり変わっていない。しいて挙げるなら、建物の窓ガラスには十字に紙が貼られ、一部は板で封じられていることと、元からあまり多くない自動車の通行が著しく減ったことだろうか。

「戦争……終わるよね……」

茜が神妙な声音で話しかけてくる。あなたのことは私が絶対に守ると私が返すと、茜ははにかんだ。

「ゆーちゃんが守ってくれるなら、安心……かな……あ、でも無茶しちゃだめだからね?」

その顔は、確かに笑顔であったが、若干の暗さがあった。


三時間後、写真が届いた。私は紙に包んでそのままポケットにしまった。

この日以降、茜との面会が禁じられた。あの時に感じた笑顔の暗さの正体は、病状の悪化だった。





…………………………


「第一戦車師団は、明後日〇八〇〇を以て前線への進出を始める。本日は自由時間であるか、翌日は行軍準備及び事前確認を行う。各員遅れぬように。では解散」

一日だけの自由時間。しかしやることもない。故郷に戻るにも時間がない。


……茜に会いたい。


私はダメ元で病院に向かった。



「境さん、待ってましたよ」

病院に向かうと主治医がいた。

「こちらに」

案内されたのは茜の病室。中に入ると、薬液の臭いの染み付いたいつもの病室だった。

「……あ、ゆーちゃん……きてくれたんだ……」

茜がベッドの上で上半身を起こす。その声はか細く、今にも消えてしまいそうだった。

しばらく、世間話が続く。私にとってはただただ幸せな時間。ふいに、茜が切り出した。

「ゆーちゃん……お星さま……見たいな……」

星空。確かに今夜は晴天、尚且つ新月だ。星見には絶好の機会に違いない。だが、病魔に侵され、既に限界の近い彼女の体ではこの冬の寒さには耐えられないだろう。

「おねがい……ゆーちゃん……」

…………何を悩む必要があるのだろうか。これはきっと最後の願いだ。私は茜の病室から出て、主治医の許に急いだ。

「茜が星空を見たいと言いました……私は……あの子に見せてやりたい」

彼は、本当に悔しそうな顔をして、頭を下げた。

「……茜さんの身体は生物的に見ても限界です。現在の最新技術を以てしても……。境少尉、あの子の願い、叶えてあげてください」

「頭を上げてください……夜にまた来ます。通用門に話を通しておいてください」



その日の夜。私は側車付のバイクにまたがり、病院に向かった。側車にはあの子のための防寒着とヘルメット。真冬の夜の風は冷たく、肌に突き刺さる。街は静まり、灯火管制によって暗闇が広がっていた。

ヘッドライトの白い明かりのみを頼りに闇夜を切り裂く。

通用門の前にバイクを止め、守衛室を素通り。誰もいない廊下を、静かに、そして急ぎながら一目散に病室を目指す。

「…………」

病室に辿り着くと、茜は穏やかな寝息を立てていた。

「茜……起きて……」

「……むにゃ……ゆー……ちゃん……?」

「星を……星を見に行こう。今夜は綺麗だ」

「あり……がとう……」

防寒着を着せて外に連れ出す。冬を外で過ごすのは数年ぶりのようで、白くなる吐息を面白がっていた。

「戦車じゃなくてごめん。寒いと思うけど我慢して……」

「いいの……ゆーちゃんが一緒なら戦車じゃなくても……」

側車に荷重が加わり運転特性が若干変わる。カーブはきついし加速も鈍い。それでもいい。今はゆっくり走ろう。

三十分ほど走らせて、都内を流れる河に辿り着いた。葉を落とした木々の枝の間から見える星々は、地上の争いなど関係なく、空に瞬く。

「すごく……きれー……」

彼女は私の腕の中で夜空の星々に目を輝かせていた。

「……茜、こっちを向いてほしい」

「ゆーちゃん……?なに……?」

「私は……あなたのことが……」

「そこから先は……いっちゃだめだよ……?」

「っ!?なんで……」

「えへへ……私から……言いたいから」

「……へ?」

「境 雪乃さん……私、三堂 茜は……」

…………。

「あなたのことを……あいしています……

だいすきです……!」

「……わた……じ……も……あいじでる……

だいすぎ……!」

「もう……ゆーちゃんったら……ひどいお顔よ……?」

「だっで……」

「ふふふ……最期の最後に……言えてよかったぁ……」

「っ……やだ……まだ……もっと……」

 口が自然と言葉を紡ぐ。頭で分かっていても避けられない。

「だいじょうぶ……わたしはしなないよ……ゆーちゃんが……想い……つづけて……くれるかぎり……」

「……うん……うん……わがっだ……わすれない……」

「あり……がと……あぁ……たのしかったなぁ……おいしかったなぁ……」

「………」

茜を抱きしめる力が強くなる。

「ゆーちゃん……ちょっと……くるしい……」

「ぜっだいに、ぜっだいに離ざない……」

 茜は苦笑いしながら、防寒具の懐をごそごそと探り、ロケットを取り出した。

「これ……あげる……」

「これ……は……」

 中を開くと、あの時の写真が入っていた。

「わたしの……かたみ……うけとって……」

「うん……」

「ふ……わ……ねむ……い……ゆーちゃん……」

「うん……」

「あり……がと……わたしを……みつけてくれて……」

「うん……」

「あり……がと……いろんなところに……つれてってくれて……」

「うん……」

「あり……がと……だいすきって……あいしてるって……いってくれて……」

「ぅん……!」

「あい………して………r……………」

「あっ……あぁっ……!」
















 声にならない慟哭を……あげていたと思う……。















私は、結局どうすればよかったのだろうか。今でも悩みは尽きない。

それでも私は敵を撃つだけだ。

この子の安らぎを守るために。


















氏名:境 雪乃

最終階級:中尉(二階級特進・少佐)

帝都撤退戦にて戦死。二六歳

生涯戦績:戦車十三両・装甲車七両・輸送車輌九両

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