つぐみ姫の囁き
川坂千潮
つぐみ姫の囁き
帝都は音で満ちている。
人々の話し声、車のエンジン音、自動車をよけて走る自転車。
辻塚家の屋敷は、喧噪から離れ、郊外に建てられた。
賑やかさが嫌いなのではない。彼ら一族にとって音とは畏怖であり、祈りであり、弄するものであり、遊ぶものなのだ。
そんな静寂を破り、どかどかと足音が屋敷を踏み荒らす。
屋敷の当主の愛娘、辻塚鶫の部屋にまで、その足音は響いていた。足音が鶫の部屋の前で止まる。障子に人影が映る。
障子が勢いよく開かれ、鶫の婚約者である永江實の姿が現れた。
實はきりりとした眉の雄々しい顔立ちで、着ている洋装は、老舗呉服屋の次男坊らしく洒落ていた。
どういう風の吹き回しだろう。いつもならば、實は屋敷を訪れるやいなやあの子の元へはせ参じていたというのに。鶫が顔を出すと「いたのか」と鬱陶しさを隠しもしない。
今日も今日とて眉間の縦皺ときつく結ばれた薄い唇が、不機嫌なのだと露骨に主張している。
とりあえず、挨拶しようと鶫が口をひらこうとする前に、
「鶫、貴様との縁談、破談させてもらう」
そんな台詞で遮られた。
「……」
鶫は筆を置いた。實へ手紙をしたためていたところだったのだ。まあ、返事を貰えたためしはない、そもそも読まれているのだろうか。
着物の袖を括っていたたすきをほどき、立ち上がる。
「實様」
名を呼ばれただけで、その身を引き裂かれるのではと恐れたかのように、實は肩を震わせ一歩後ずさった。
「理由を教えてください」
鶫に表情に変化はなく、声もかすれや震えはない。
身勝手な発言をされても、怒りもせず、悲しみもせず、冷徹さを保つ。
鶫の面立ちも仕草も、洗練された美しさを纏っている。
「っ、貴様は本当に可愛げがないな」眉を寄せて苦々しげに呟くと咳払いをした。「理由だと?決まっている、はつい嬢のことだ」
「實様、はつい様は、私が彼女と同じ学校、同じ学年だったご縁で、辻塚家がお預かりるすこととなった四ツ塚家の娘様です、気安く名前をお呼びしてはいけません」
「はッ」
實は鼻で笑った。
「貴様は辻塚家の娘という立場を笠に着て、はつい嬢を虐げていただろう」
「はて、心当たりがございませんが……」
「とぼけるな!」
實は唾を吐きながら鶫を指差す。
「書では何枚も書き直しさせ、縫い物では難癖をつけてやり直しばかり、琴の練習では同じ曲ばかり演奏させ、挙げ句の果てに外を何時間も走らせていただろう!」
「あの子が、そのように、實様に哀願なさったのですか?」
「まさか、俺がどれだけ訊いても否定してばかりだったわ! しかも、やれ自分が未熟なのだ、やれ貴様にはよくしてもらってばかりだと、貴様を庇う台詞ばかり……けなげな娘だ、それとも辻塚家の通力でも利用したか?」
實は、どことなくうっとりとした声色で回想した。
はついは、つぶらな瞳にやわらかな黒髪の、華やかな笑顔の少女だ。さては岡惚れか。
「……」
「ふん、だんまりか、陰湿な貴様など跡継ぎとしてふさわしくないわ!」
「……」
「そもそも、女が辻塚家次期当主などということがおかしいのだ、女に家の主人がつとまるわけがないというのに、家元も家元だ、辻塚家を滅ぼしたいのか……」
やれやれと、實は首を横に振った。
「貴様との関係は終いだが、この家を見捨てるわけにはいかん、深く反省し、二度とはついに手を出さず、大人しくしているというのなら、俺が当主となったあかつきには、ここで使用人として働かせてやろ」
「──開錠、開門」
鶫が言葉を舌に乗せる。
屋敷じゅうの障子が、襖が、窓が、戸が、扉という扉が一斉に開いた。
「なっ、なんだ!」
「──青嵐」
疾風が實の全身を切り裂くように吹きすさび、實は悲鳴を上げて尻餅をついた。「貴様!ど、どういうつもりだっ……!」涙目で鶫を睨む。
「實様の言い分はわかりました」
今度は私の番ですと、鶫はうたう。
「まず、私が次期当主候補についての疑念ですが、辻塚家は純粋にして苛烈なる実力主義、私の力が一族の誰よりも優れている故に選ばれました」
辻塚家は言霊使いの一族だ。
その舌に乗せた言葉を、音を、具象化、具現化させる。
「ほんのわずかですが、今のが言霊です、起こした風は少し強すぎてしまいましたね、申し訳ありません」
「ぐっ……貴様、よくも……報復のつもりか……っ」
「人聞きの悪い、百聞は一見にしかず、実際に体験なされた方が納得できると思いましたの、さて、次に、私がはつい様をいじめたということについてですが……」
「お姉さま!」
四ツ塚はついが廊下を駆けてきた。まるで子犬のようで、守ってあげたくなる男心もわからなくはない。
「永江様、これは一体……」
實は激痛に苛む身体を叱咤して立ち上がり、愛しい少女へ両腕を広げた。
「はつい、俺は今、この女の悪行を糾弾していたのだが、もう逃げられないと悟ったのか抵抗された……だが、もう大丈夫だ、俺がいる!さあ、この女の本性を暴こうではないか!」
「永江様……」
はついの腕がふらりと實へとのばされる。
實の服の襟を破かん握力で掴んだ。
「わたし、言いましたよね!すべてはわたしの実力不足!お姉さまは覚えの悪いわたしにずっと根気よく付き合ってくださっているって!口酸っぱくなるくらい言いましたよねえ!」
腕の力だけで、前後に實を揺らす。
「は、はつ、いぃぃい」
「待ちなさい、はつい、實様の目が回ってしまうわ」
「ごめんなさいっ、お姉さま!」
はついは、ぽいっと襟から手を離した。實はうずくまり、揺さぶられた視界と脳みそが落ち着くまで深呼吸を繰り返した。
「は、はつい……そ、その女に、脅されていたんじゃないのか?」
「あ?」
はついの目が据わる。
「ま、毎日朝から晩までこき使われているだろう?こいつに逆らえないんだろう?」
「あのですねえ、わたしは弓で魔を払う四ツ塚家六人きょうだいの末娘、払う力はあっても弓の腕がひとっっっつも上達しなかった落ちこぼれ!」
料理や裁縫などもからっきしであった。それでも家族ははついを見放さなかったし、ゆっくり覚えていきなさいと見守ってくれた。
「お姉さまが、辻塚家で行儀見習いとして奉公してはどうかと提案してくださったのです」
「そっ、それこそ下僕扱いだろう!」
「行儀見習いだっつってんだろ」
はついの目に殺意が宿る。
「だ、だが、縫い物では難癖をつけてやり直しばかり」
「わたしの縫い目がガタガタなんですよ、練習です」
「琴の練習では同じ曲ばかり」
「いつも同じところで間違えてしまうんです、練習です」
「外を何時間も走っていた!」
「薙刀のための体力作りです」
「え、な、なぎなた……?」
「わたし、弓はポンコツでしたが、薙刀は合っていたんです、ですから破邪を薙刀でしようと決めました、そのために、まず体を鍛えなくてはと毎日走っています!」
「走りすぎよ、はつい、昨日も授業中に居眠りしていたでしょう、体を壊したらどうするの」
心配する鶫に、はついの殺意は消失した。
「實様あ、どうです! お姉さまは、こんなポンコツの外れ野郎を見捨てず、面倒くさがらず、できるようになるまで一から十まで何度も何度も指導してくれているんですよッ、なにがいじめですか、永江様の目は節穴ですか、というか、わたし、このくだり一から十まで何度も何度も説明してますよね! 耳腐ってんじゃないですか!」
「はつい、言葉遣い」
「すみません、お姉さま!」
「はは、なんだか賑やかだね」
着流し姿の華奢な青年がやってきた。
「お兄様」
「事情は大体聞こえたよ、實君、発想が豊かだねえ」
辻塚
妹に跡継ぎの権利を奪われたにもかかわらず、対抗しようともしない腑抜けた男と、實は紬を侮蔑していた。
だが、今の紬はどうだ。ひどく冷ややかな笑みを浮かべ、ゆっくりと心の臓を締めつけてくる。
「い、今更のこのこ出てくるとは、あ、兄として情けないッ」
「鶫に止められていたからねえ、それにしても、君は、はついちゃんの話を微塵も信じなかったんだねえ」
實の上擦った声での悪態も、紬はさらりと流す。
「我が家は純粋にして苛烈な実力主義、性差なんて些末なもの、問題になんてなりゃしません、君の発言は現当主への侮辱だ、それに、僕は一応長男だし、それなりの教育は受けているんだ、これでも高等学校で成績も良かったんだよ」
實は高等学校を落ちている。来年再度受験するつもりだが、勉強に身が入っておらず、はついを追いかけ回してばかりだ。
「仮に妹が辻塚家を継がないとしても、僕を押しのけて君が当主になれると?」
心底不思議そうな紬の声色に、實は恥辱で顔が赤くなる。
「お兄様、實様は言葉を弄するどころか妄言しか吐けないのですから、当主の資格云々より前の話です」
「鶫、貴様ッ!俺を馬鹿にしているのか!」
「ううん、鶫は僕と違って皮肉じゃないよ、全部本心だし、嫌味のつもりもないんだ」
「貴様は皮肉と嫌味か!」
「そうだよ、今度はちゃんと聞き取れたね」
「鶫の口の悪さは貴様の影響だろう!」
「仲良しだからねえ」
のらりくらりと言葉を弄する兄に、鶫は苦笑した。
「あ、それと、忘れているようだから教えてあげるけど、この縁談は、君のお祖父様が是非にと売り込んできたんだよ」
「は……?」
「おや、お祖父様から聞かなかったのかい?」
そういえば、鶫の釣書を見せながら、祖父が何かを言っていた気がする。勝手に見合いの日程を決められ、ふてくされた實は祖父の話をすべて聞き流していた。
「永江家にはいい服を仕立ててもらっていたし、鶫が嫌とも言わなかったから進めたんだよ」
「な、なんだと……そうか!合点がいったぞ、やはり貴様は俺と結婚したかったのか、はついの面倒を見たのも、俺の正妻にはさせられんが愛妾にならと」
「違うつってんだろ」
はついが拳を力強く握るが、鶫になだめられる。
「嫌ではありませんでしたが、どうしても結婚したかったわけではありません」鶫は少し考え、「ただ、お見合いの時に、私の着物を褒めてくださったでしょう」
白縮緬の地に、花浅葱色を中心に青みでまとめた花紋様の、風雅な着物は、鶫のお気に入りだ。
鶫とて、自分が後継者となることが異質だと理解している。
同級生の、商家の一人娘も婿養子を取るつもりだが「安心して店を任せられる殿方でなくては、結婚しませんわ」と、成績優秀でありながら、自分が経営する側になるつもりはない。まあ、彼女に認められるほどの男性ならば、店を盛り立ててくれるだろう。
善し悪しはともかく、男が家を背負うものなのだ。
永江家は日常の服だけでなく、仕事用の礼装もあつらえてもらっていた。
辻塚家の内情について他の人より知っているだろうし、付き合いも長い。だから縁談を受けることにした。
見合いの当日。鶫はこれでも花のお年頃。自分の旦那様になるかもしれない殿方と会って、期待と緊張と不安で胸ははちきれんばかりだった。
初対面、猫をかぶっていたのはお互い様。だが着物を褒めてくれた實の言葉に、嘘いつわりも、世辞もなかった。
デェトや文通で少しずつ距離を縮めて、流行小説のような燃えあがる恋にならなくとも、思いやり合える関係になりたい、そんな風に期待もした。
ところがどっこい、中途半端に事情を把握していたのがあだになるわ、はついへの恋だか庇護欲だかで男のプライドに火がついたわ、と、このありさまである。
絶句する實に、そろそろこの茶番劇も終幕だ。
「そんな、ことで?」
「私は、とても嬉しかったのですよ」
はにかんだ鶫に、實は息をのんだ。
今まで婚約者の笑った顔などほとんど見たことがなかった。いや、顔などまともに見ようとしらしなかった。鶫は、女だてらに家を継ぐ、無愛想で賢しらな小娘。己の春を邪魔立てし、婿入りなどという屈辱を受けさせる天敵。
鶫の表情をもっと近くで見たくなる。だがこれ以上は身体の奥からそわそわと落ち着かなくなってしまい、目をそらした。
文机に、書きかけの手紙。實宛への、文。
「ここまで愚かでは、庇うにも限界があります、婿としての器量も絶望的ですし……」
「さて、誤解も解けたようだし、僕は父に会ってくるよ、君のお祖父様にも連絡しなくてはね」
「ま、待ってくれ!俺は!」
我に返った實が、紬に縋る。
鶫は何度も文を寄越してくれた。實は返事を書いたことがない。あんな綺麗な文字だったのか。端に鞠柄の便箋なんて可愛らしいじゃないか。
紬はさっさと背を向けて歩き出し、實へ振り向きもしない。
「はつい!」
不幸な少女と思い込み、恋い焦がれていたはついは鶫の隣で舌を出す。
「つ、つぐみ……」
辻塚家は、言葉を畏怖し、言葉に祈り、言葉で弄し、言葉と遊ぶ。
只の人とて同じ。通力があろうとなかろうと、
「ご安心ください、實様」
舌に乗せた言霊は、取り消せない。
「貴方の願いが叶いますよう、私も尽力致します」
つぐみ姫の囁き 川坂千潮 @tinatyuka
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