89 重なるシルエット

薄明かりの路地裏、古びたレンガの壁に女のシルエットが浮かび上がっていた。長い黒髪が肩にかかり、細くしなやかな肢体が煙草の紫煙に霞む。その姿は、まるで夜の帳に溶け込む妖精のようだった。だが、その瞳には、拭いきれない悲しみが影を落としていた。


「またここで一人か?」


男の声が静寂を破った。影から現れた男は、黒いコートの襟を立て、女と同じように煙草をくゆらせていた。


「ええ、いつもの場所。あなたも?」


女は振り返ることなく答えた。その声は、どこか寂しげで、それでいて芯の強さが感じられた。


「ああ、この静けさが心を落ち着かせるんだ」


男は女の隣に立ち、レンガの壁に寄りかかった。二人の影が重なり合い、一つの大きなシルエットとなった。


「そうね。それに、影は何も語らない。ただそこに在るだけ」


女は夜空を見上げ、星明かりに目を細めた。日中の喧騒の中で押し殺した感情が、静寂の中で再び彼女を襲う。愛する人を失った悲しみ、そして、これから一人で生きていかなければならないという不安。


「でも、影は時に真実を映し出す。光が当たれば、全てが露わになる」


男は女の横顔を見つめ、静かに呟いた。


「光が怖い時もある。影に隠れていたい時もある」


女は煙草を深く吸い込み、煙をゆっくりと吐き出した。心の傷を癒やすには、まだ時間が必要だった。


男は女に近づき、そっと肩を抱いた。女は男の胸に顔を埋め、静かに涙を流した。


「影は孤独じゃない。光があれば、必ず影も生まれる。二つで一つなんだ」


男の優しい言葉が、女の心に染み渡った。


「ありがとう。あなたの言葉で、少しだけ強くなれた気がする」


女は顔を上げ、男の瞳を見つめた。二人の間に、かすかな温かさが生まれた。


二つの影は、しばらく寄り添ったまま、夜空を見上げていた。星明かりの下、二人のシルエットは、まるで一つの絵画のように美しく、儚く、そして温かかった。それは、孤独な魂が出会い、互いの存在を確かめ合う、静かで美しい瞬間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る