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「お久しぶりです、先生」
知らない――目の前の車椅子の男性にそう言い放たれても香美村孝幸の表情は全く変化することなく、いつもの調子でその無表情から仕事のやり取りのような言葉が発せられた。しかも彼はこのしょぼくれた白髪混じりの男を「先生」と呼んだ。かつての学校の教師か何かだろうか、と慌てて彩は自身の脳内に書かれたメモを探ったが、石塚扇太郎についての情報は最近のものしかなかった。もっと時間があればどういった由緒のある人物で香美村孝幸とどういった関係だったかも調べられただろうが、とにかくどうしても居場所を見つけろという命令だったので、各所に手配するだけで手一杯だったのだ。
石塚はそれでも「誰だお前?」と眉根を歪めている。
「先生にピアノを教わっていた生徒の香美村です。かつてはお世話になりました」
「ピアノ?」
「はい。ピアノですよ、先生」
普段、仕事上でも香美村孝幸はあまり丁寧な喋り方はしない。その
その彼が、目の前のしょぼくれた男性に対して丁寧な言葉遣いをしているのは新鮮だった。
「ピアノなぞ、知らん」
「知ってるでしょう。だってあなたのピアノが俺を、香美村孝幸を作ったんだから」
「香美村? あの、世界的ピアニストの香美村さんですか?」
反応したのは石塚ではなく、彼の車椅子を押してきた横に大きなスタッフの男性だった。眼鏡を掛けた丸顔の彼は頬を赤くして早口にまくしたてる。
「昨日の来日公演チケット取れなくて行けなかったんですよ。けど今回はこの三日間しか公演しないんですよね? それともまだ別にこちらで演奏する機会あったりしますか? ぼく五歳からずっとピアノ習ってて、でも全然香美村さんのような才能なんかなくて、途中で辞めちゃったんですけど、それでもずっと音楽だけは諦めきれずに、今もバンドでキーボードやらせてもらったりしてるんですよ。もちろん、上手くなんてないし、本当はクラシック音楽やりたいっていうのも全然叶えられてないんですけど、そんなぼくの一番の憧れが香美村孝幸なんです。演奏だけで人生を変えられる。単純な感動じゃなく、魂を直接触るような、そんな天才的な旋律なんです。いつか絶対に生で聞きます。だから絶対またこの国で、生まれ故郷で、コンサート開いて下さい。お願いします」
自分で勝手にべらべらと気持ちを吐露しているだけなのに「よしだ」と書かれた名札をつけたその眼鏡のスタッフは、涙を流していた。よく興奮したファンに遭遇することはあるが、ここまでではないにしろ、多くが感謝を伸べる場面を見てきた。人生を変える。その言葉を否定するつもりはないが、時折そこまでさせてしまう香美村孝幸という人物の演奏が一体何なのだろうかと、彩自身、考え込んでしまう。もしそれが今目の前にいる、この石塚扇太郎という老人から授かったものだとすれば、この男もまた、同様の才能の持ち主なのだろうか。
しかし孝幸は感涙で鼻をすすっているスタッフのことは全く眼中にないらしく、返事すらしないまま、再び石塚に話しかけた。
「全部忘れたフリをしても無駄ですよ、先生。もし思い出せないというなら、思い出させてあげましょうか」
うまく焦点が合わないと思っていた石塚の目が一瞬だけ、はっきりと孝幸を捉えたように彩には見えた。だがすぐに「お前のことなど知らんと言っておるだろう」と不機嫌に声を荒げただけだ。
「島崎君。あれ、使ってもいいかな」
あれ――と視線で差したのは埃を被った音程の外れたオルガンだ。彩はそれが使用許可を取れという意味だと汲み取り、その場にいたスタッフに弾いても大丈夫かどうか、何か問題があった時にはこちらで全て責任を持つことなど、穏便に交渉をし、困惑する女性スタッフから許可を取り付けた。
いつもこうだった。表情のない割には気分屋で、自分が思った時に思ったように物事が進まないと明らかに機嫌を崩す。それくらいならよくある天才と呼ばれる人間の日常だが、香美村孝幸の場合は表面上は不機嫌なのかどうかよく分からず、それにもかかわらず機嫌によっては仕事もせず、応答すらしてくれなくなる。彼とのコミュニケーションの取りづらさの一番の要因がこれで、三年付き合ってきて未だに彩は孝幸が何を考えているのか理解できたと思った瞬間がない。
でもそれを差し引いても彼の才能は本物だった。ピアノだけは特別だった。
許可を得て、香美村孝幸はオルガンの前に腰を下ろした。オルガンなんて弾いたことがあるのだろうか、と彩は疑問に感じたのは一瞬で、蓋を開け、一音一音確かめていくその指使いだけでもうそこには別の世界が生まれていた。
それまで好き勝手に話したりしていた入所者たちが一斉に動きを止める。麻雀を囲んでいた老人たちも何事かと手を止め、こちらを見る。
静かな、まるで何も音がしていないような始まりだった。いつの間にか音は鳴り始め、空気に浸透していく。音がズレているはずなのに、それを感じさせない、むしろそれが独特の味わいとなり、旋律を生み出していた。
曲はベートーベンのピアノソナタ第十四番「月光」だ。今が真夜中なのかと思うほど静寂と独特の重苦しさに包まれた中、ぼんやりと天井に浮かんでいる。怪しく輝く月が見えていた。
それは彩にだけでなく、他のスタッフや入所者たちも同じようで、誰もが天井に視線を向け、やがて声もなく涙を流し始めた。
ピアノの音じゃないし、音程も正直言って素人が聴いても分かるくらいには無茶苦茶だった。それなのに、そこにはいつもの演奏と同じくらい、記憶と悲しみを想起させる作用があった。
随分と慣れた――そう思っていた彩だったが、それでも証券会社時代の、いや、もっと以前、中学時代の、いじめを黙認した結果、その子の自殺に加担してしまったという後悔を、思い返してしまっている。
誰かのためになりたい。
そう思うようになった直接のきっかけがその事件だった。
それまでの彩は周囲となるべく同じように見られるよう、服装や髪型までを似せ、できるだけ目立たないように振る舞う少女だった。それは物心ついた頃からの彼女の処世術で、後から考えると二番目の父親と母親に面倒を掛けたくないという子ども心から自然発生的に生まれたものだったのだろう。だから小学、中学と地味が制服を着て歩いているだけだった。それを変えたのがあの事件だったと言っていい。
同級生の自殺から一週間、彩はずっと高熱を出して寝込んでしまった。
学校に戻ってから彩が一番最初にやったことは、いじめについてのリポートを作成し、担任と教育委員会に提出することだった。これは流石に問題視されたものの、それをきっかけとして県にはいじめ対策委員会が作られたのだから、結果的に良かったと思っている。ただ中学時代はその件によって、周囲からは浮いた存在と化してしまった。
我に返ると既に香美村孝幸の演奏は終わっていた。けれど周囲を見回しても誰もまだ自分の世界から、感傷という檻からは戻ってきていない。彩は自分が拍手をすべきだと手を構えたところで、別の方角から拍手が響いた。車椅子に乗った石塚扇太郎だ。先程までとは全く表情が異なっている。確かに齢六十を超えたシミや皺の目立つ皮膚だが、明らかに張りがある。仕事をして充実している男性のそれだ。石塚は目を細め、口の端を浮かし、笑みを浮かべながらゆっくりとした拍手をしていた。それにつられ、レクリエーションルームにいたスタッフや他の入所者も拍手を始める。
「相変わらずくだらん演奏をしているな、孝幸」
その拍手が少し弱まったところで石塚は立ち上がると、彼に向けてそう言った。
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