第36話 修羅の国
僕たちの旅の目的は、医者を探すことだった。だけど今は、モーセの一族を探すことに変わっていた。
目的地も当然ながら変更になる。目指すところは、ミツライムだ。
「ミツライムって軍事大国でしたよね? カデシュの戦いで当時のヒルデダイトと戦争をして、この辺りでは火の七日間って言われてるんでしたっけ」
ミツライムに関する僕の認識はそんなところだ。
僕は直接ミツライムには行ったことがない。港街で聞いた噂話が僕の知るミツライムの全てだった。リッリもシェズもナタも同様だろう。
「戦争のことはよくわかりません。ミツライムとは関わらないようにしてきましたので」
モーセは海沿いを歩きながら、僕にいろいろと教えてくれた。戦争のことはともかく、
「ファラオによって壮大なピラミッドを作る計画が進んでいるようです。伐採された木材はワニの海で運搬され、ミツライムに運ばれていきます」
と海に浮かぶ丸太がどこから来てどこへ行くのかも、教えてくれる。
「ミツライムで使う木材って、これ全部そうなんです?」
「ここまで流れて来たのものは、ミツライム側で保管されている内の一部でしょう」
「ほんの一部?」
「家屋の建築にも使われていますが、大量に集め出したのは最近のことです」
「ふうん」
そうなると、「これを運搬しているってことは、この辺りからミツライムまでは判りやすい道が通っているってこと?」と言える。
「その道までご案内しましょう」
モーセに言われて、
僕は頷いた。
ミツライムの首都ラムセスまでの道に迷うことはほぼないと言って良かった。
だがそうなると、
「モーセが探す人に名前はないの?」
これが気になる。「どんな人たちなんです?」という疑問だった。
人を探すにも手がかりが必要だった。
「ミツマの土地に住んでいましたので、四〇年も前はミツマの人と呼ばれておりました。兄はアロン、姉はミリアムと言います。二人がまだ生きて居れば私の名前を出せばすぐにわかるでしょう」
「ミツマ?」
「今でも彼らがそう呼ばれているのかはわかりません」
モーセは何もわからないとため息をつく。
「心配しないでください、それを僕たちが調べてくるんだから」
僕は姿勢を良くしてしばらく海辺を歩いた。モーセの兄や姉が生きて居るかどうかはわからないが、ミツマというのは良い手がかりになりそうだ。そんなふうに思った。
同じ歩幅で歩いたモーセだが、彼にしてみればため息は深くなる。
兄や姉の名前を口にしたのは何年ぶりのことだろうか。
決して忘れたわけではない。だが歳月を重ねるにしたがって、どんどん薄れる記憶というものはある。
兄はモーセに似ていて、何をするにも視野の狭い人だった。丁度モーセが集落を放っておいてシナイ山を散策するのに似ている。モーセにとって待ち人を待つのが重要な仕事だが、残された集落の妻や子供たちは不満にも思うだろう。
姉のミリアムは、モーセには優しかった。
覚えているのは美しく頼れる姉の背中だ。
「ちゃんとしなさい。背筋を伸ばしなさい」
そんな風に姉はよくモーセに言い聞かせていた。「ちゃんとしていれば、どこに出て行ったって、ミツマの人たちが悪く思われることはないのだから」それはモーセだけでなく、周囲を気遣う言葉だ。
モーセは姉を尊敬していた。あの頃はずっと姉を見ていたのかもしれない。
もう一度会うことができるならと思う。
四〇年前はすぐに会えると思っていた。
ミリアムたちが手をふって笑いながら、「会いに来たよ」「わたしたちもミツライムから出てきたよ」と言ってシナイ山に来るのを今か今かと待ち望んでいた。
しかし、あれからもう四〇年。
結局、誰も来ることがない。
モーセはここで空を見上げていた。
羊飼いはたまに空を見上げる。
大空に浮かぶふわふわの白い雲はまるで羊のように、ただただ流れて行くだけ。何を考えているともわからない。それを見るのは、羊を見るのと似たようなものかもしれない。
ただ羊と違うのは、雲のことだ。
四〇年前も、空の景色はたいして変わらない。そして世界のどこに行ったとしても、見上げれば人は同じ雲を見る。
ミリアム姉さんは、今もどこかで同じ景色を見ているだろうか。
ところで、僕は考える。
「ミツマ」
僕がその言葉を口にした途端、モーセは懐かしい記憶の中に優しい人たちを思っただろう。会いたい人を思って綻ぶ顔は、どこに行ってもどんなに時間が経っても変わらないものだと思う。
僕はそんなモーセの顔を見ながら、吉報を届けることができるように頑張りたいと思った。
モーセが指し示してくれた道を辿れば、すぐにミツライムだった。
ミツライムはナイル川の下流に広がる国。太古よりナイルの流れによって肥沃な大地が形成されてきたが、ナイルの流れはは時に家屋をすべて押し流すほどに凶暴になる。知恵をつけてナイルの流れを制した民族が全ての富を手に入れる。そんな単純な歴史がその国を時代最強の軍事大国へとのし上がらせていた。
この時はファラオであるラムセス二世が統治する時代。
首都は王の名から、ラムセスと呼ばれていた。
「ギリシャやキリーズからの海路があって、首都のラムセスには凄い大きな港があるんだ。商人たちの船がひっきりなしだって言ってたよ」
僕が知る、それがミツライムの首都。
「どうやったら、そのミツライムの首都にいけるんだ。海から行ったほうが良かったってことか?」
ナタは首をひねった。
ナタがそれまでの白いローブから旅慣れたボロに着替えると、それだけでパーティの雰囲気は変わっていた。
僕たちはどこから見ても旅商人に見えただろう。
リッリだけはお気に入りの赤いローブだが、年期がはいってしまえば、商人が着ていてもおかしいとは思われない。
そんなリッリが荒野に続く道で背伸びしても、まだ街は見えなかった。
ここで、ナタに続いて、赤頭巾の賢者も首をひねっていた。
「シナイ山からなら、陸路のほうが早かり。地図を見ても、納得しれりや。問題は陸路とか海路だとか、そういう話でもなき」
道の問題ではないとリッリは言う。
それ以外におかしい点が僕たちの旅路にはあった。
実は、僕も何かおかしいとは感じていたところ。
今、僕の目の前には立て看板がある。
そこには、
「ここを通りたければ、子供を差し出せ。それ以外の者は殺す」
そんなことが書かれていた。
僕が顔を上げると、半壊した馬車、散乱した荷物。そして肉塊となった惨殺死体が見えていた。
「これはまさに……」
看板が意味するところじゃないだろうか。
「ここが通れないなら、海から行ったとしても、門番みたいな奴がいるってことか?」
それがナタには気になるらしい。
門番がいて、まるで通せんぼ。そう思える状況だった。
賢者曰く次のような特徴がミツライムにはある。
「もともとミツライムは神の国なや。ラーという太陽神を初めとして様々な神を信仰してり。戦士の中には殺し合って生き残った者だけを勇者とする時代もあったりや。そんな修羅の国であるからに、ミツライムは軍事強国としてこれまで世界に君臨してきたり」
「修羅の国か」
「修羅の国なり」
「それは修羅しか入れないってことか?」
ナタは腕を組んで考えた。
僕も考える、首都ラムセスに至る道を進む方法はある。
「子供を差し出せって、どういう意味かな? それを逆に考えれば相手と交渉する余地が生まれるかも」
「子供が欲しくてやってるんだろ。他人から子供奪って自分の子供にするのか?」
ナタの発想はありきたりだ。
「そんなことするくらいなら、直接隣人を襲ったほうが早いよ。実際に、旅の人が襲われているんだし。こうやって待ち構えるってどう考えても理屈に合わない」
「子供がたくさん必要とか?」
「うん。そう考えられるよね」
「たくさん集めてどうするんだ?」
「わからないけど、あれ見てよ。荷物とか馬とか、そういうのは強奪していないんだ。欲しいのは子供だけみたい?」
僕は看板の先を指差した。
荒野をつっきる道の両脇に険しい斜面があっって、まともに通れる道はそこしかない。看板の先には勾配のある道が続くのだが、その途上には半壊した馬車や、内蔵をぶちまけた馬、惨殺された旅人たちの姿。
「何がわかる?」
ナタは、「凶器は鋭利な刃物のように見える」と付け加えた。
「食料がほしければ、馬をそのままにしておくはおかしいよ。金が欲しければ、荷物くらい漁るはず。犯人の動機は金や食料じゃないのかな?」
僕はその点を強調しておいた。
「まだ殺されてからそんなに時間は経ってなかりや。それに荷物に手をつけていないのは、犯人に運搬するほどの人数が揃っていないだけかもしやり」
と、リッリは死体を観察する。
「単独犯?」
僕はそのことに気がついた。
「というのは、やっぱりやったのはあいつか?」
ナタが犯人を見上げたのは当然の成り行きだった。
丸太が地面に突き刺さっていた。その上に器用に足を絡めて上半身を起こしている男がいる。上半身は裸同然だが、隆々とした筋肉は戦士として鍛え上げられたものだ。丸太の上からなら辺り一帯を監視することが可能だろう。そうしておいて、男は舌なめずりをしていた。さっき殺した人間の返り血を味わうのは、狂気に駆られているようにも思われた。
僕もしばらくその男を観察してみた。
男は片足を丸太に絡めたまま、人間ではあり得ないほどに背中を仰け反らせてそのまま上半身と下半身を入れ替える。奇妙な蛇がとぐろをまくのに似ていた。
「この先がミツライムで間違いないんだよな?」
ナタがもう一度だけ確認してくる。
「そのはずだよ。都はもう少し先だけどね。ナイル川が広がっていて、あちこちにピラミッドがあるんだ。三角に石を積んだ大きな山みたいなの。青白くて神秘的だって聞いたよ。スフィンクスっていう人間みたいな、ううんライオンみたいな巨大な像があってミツライムを守っているって話さ」
「人間みたいな蛇みたいな奴が守っているって話じゃなかったか?」
ナタはまだ僕の話を信じたわけではなかった。
「僕も他の商人から聞いただけだから」
まあ、信じられても困るところはある。
「異国なんてこんなもんだろ」
それを言ったのはシェズ。「どっちみち、ヒルデリアからすれば、たいしたことないじゃん。あたしに任せとけよ」都会人の余裕だった。そこからくる突破方法はとても簡潔なものだ。
「どうするの?」
尋ねてみたところ、
「門番だろ? 修羅の国に入るにはそれなりに実力を示せってことだろ。だったらやっちまおうぜ」
シェズは隠していた鉄の剣を出していた。
門番の男は脈動する筋肉を引き絞りそして膨らませる。そこから、一気に丸太を滑り落ちていた。領域を侵した者を始末するために、素早く地面を這うように駆けてくる。
僕に門番の男が止められないように、シェズのことも僕には止められなかった。
彼女は一歩看板の向こうへ足を踏み出すと、もう一歩とズンズン歩いて行く。
「勝負」
シェズが足を踏み込んで鉄剣を背後に回した。敵が来れば、それを振り切る構えだ。
これを見て修羅の男は躊躇する。
男は見ただろう。旅装束ながら、シェズが持つのは銅剣などではない。鉄製でしかも切っ先がまっすぐに伸びている。これは下手な鍛冶師が真似て作ったような代物ではない。そして重量のある鉄剣を振るにしても、シェズの体幹が剣に負けることがない。まるで彼女は木の枝でも持つようにそれを手にしている。
シェズも見ただろう。相手の動きが止まれば、その敵は目と鼻の先だ。蛇のように編んだ黒髪に目がいきがちだが、男の指先には鉄の爪がついていた。旅人や馬を切り裂いた武器だ。
リッリはこの敵を、
「アマ領域の端っこ、地図でいえば、ヒルデダイトの上のほうにある小さな国なり。そこの戦士は、蛇を信仰してりや。英雄祭がありて、成人する若者が集められ、一様に長い髪を蛇のように編んで蛇のように殺し合いやり」と評価した。
「なんのことだ」
ナタが聞いてみれば、
リッリは次のように答えた。
「これをスクイーの戦士といいやり」だ。
賢者は目の前にいる修羅が、遠い異国の戦士に似ていると言うのだろうが、
それはあながち間違いではない。
蛇髪の修羅は賢者の言葉を聞いて慌てて行動を起こした。
一度はリッリを手に掛けようと、身体と爪を赤頭巾に寄せるがそこに青年剣士がいる。この剣士は、ボロの中で剣を握っていた。しかもその剣は刀身の長さと角度が確認できない。確認できないとは、そういうふうに立ち回っているということだ。この剣の運びは敵を惑わす。故に瞬間的に修羅の男は、分かりやすい最初の女子にターゲットを戻した。
修羅は歴戦の戦士だった。
お高くとまっていた都会の騎士と違って、正確に相手の力量を測ることが生き残る上で重要だった。だからこそ、シェズに襲いかかるも、その間合いを間違えることがない。シェズは自分の力量を見せつけるように剣を振る。こんなにやりやすい相手はいない。シェズがどんなに剣をふったところで男には掠りもしないだろう。
力量がわかれば、それに応じた戦法をとる。これが戦士の国での鉄則だった。
あとは相手の動きの隙やクセを見つけて、いっきに殺しにかかるだけだ。
男は右に首を傾け、次に左に首を傾ける。
この時点で男はにやけ顔に舌が出た。
ただこれを黙って見ているナタではない。
「さっきから当たってないぞ」
シェズをからかっていた。
剣を振るシェズは必死だろう。さらに凄い速さで剣を振りまくった。
「どっか当たれ」というのだろうが、
「いや、全然掠ってもいないけど」
というのがナタの感想だ。
ナタは笑っているけれど、僕にはまったく笑えない状況。
人間を簡単に切り裂く武器を双方がもって振り回しているのだから。あれにもし僕が当たったら、その瞬間命は終わってしまうに違いない。
「こいつ、さっきからすばしっこい」
シェズの言い訳は少し違う。修羅の男は完全に間合いを見て、シェズの剣を躱しながら、自身の爪でシェズを引き裂く瞬間をねらって、その辺りをうろうろしている状態だ。
修羅の男はこれを好機と捉えただろう。
ナタが油断している今、シェズを襲うふりをして近づけば無防備なナタを切り刻むことができるかもしれない。そして仲間を殺されたシェズの意識は完全にそっちに持って行かれるだろう。その時なら、シェズを殺す瞬間も生まれるというものだ。
僕がそれに気がついたのは、修羅の男が動きを変えた時。
つまり事後のことだった。
修羅はゆらりとシェズの次の攻撃を大きく躱しながらバックステップを踏む。背中向きにナタに近づいた。
振り返った瞬間、爪を振り上げて、引き裂くように振り下ろした。
爪がひとつ、ナタの指先に引っかかって右に捻れたと思った。爪の先には力が入らないから、爪ごと腕が右にもっていかれる。だが男には腕がふたつあった。片腕が逸れたということは、相手も片腕が上にあがっている状態だ。この状態では相手は剣をふることはできない。一方の修羅は両腕に爪を装備していた。両腕どちらでもやれる。
瞬間、修羅の腕が地面に吸い付いた。
何が起きたのか。
修羅が目を見張れば、鉄剣が上から押し込まれている。これによって腕ごと身体が叩き落とされたわけだ。
どこから剣が出てきたか。
それを考える前に、修羅は飛び退いた。腕がしびれている。この斬撃は予想以上に重いものだった。
それと同時にひとつわかったことがある。修羅の男がシェズの間合いを把握したように、この時点でナタも修羅の間合いを完全に把握していた。
力量の差がわかった。
あとはシェズが「こなくそ」とばかりに剣を振れば、修羅は応戦することもなく逃げ出すだけだった。勝ち残る者とは負ける戦いはしないものだ。
対して、ヒルデダイトの騎士というものは、勝てばふんぞり返るし、負けたとしても負けを認めないもの。
「勝った」
シェズが言うには、「見たか、あいつあたしの剣を怖れて逃げ出したぞ。あたしの勝ちだ」これはシェズの完全勝利らしい。
「そんな感じだった?」
僕はなんとなく頷きながら、修羅を男を見送っていた。
「これで入国だ」
とシェズが言えば、それは誰もが同意するところだけど。
この一連の戦い。そしてミツライムへの旅について、
「雲行き怪しや」
それがリッリの総評になる。
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