第6話 対峙
百合香はその日、奈美子を新居へと招待した。
引越ししてから初めて呼ばれたと奈美子は上機嫌だった。
「いいなあ素敵な家ね」
「ありがとう。渉が頑張ってくれてるから。私はしっかりこの家を守らないとね」
「えーすごーい。でもその為に残業続きなんじゃないの? もしかしてどこかで息抜きしてるのかなあ」
「ちょ、ちょっと奈美子さん」
わざわざ残業なんて口にして牽制のつもりかよくも平然としていると百合香は心の中で毒づく。
「そうなの。みて、この三ヶ月の渉の残業した日。遅くなることが増えてて私もパートに出なきゃって考えてるのよ」
「百合香こんなの⋯⋯付けていたのか」
「だって心配だもの。ほらこの日と、この日とか十一時過ぎてるの。残業するような時間じゃないでしょ」
渉の顔色が失われて行く。
反対に奈美子は百合香を睨むような視線を向けてきた。
「ほんとだあ」
「そう言えば亨さんが言っていたけど奈美子も最近は遅くなる日が増えたって言っていたわよ」
「え、なんで亨が!?」
「先日親戚の家で偶然会ったの。心配していたわよ。聞いたら渉が遅くなった日と同じだったわね」
渉はもう口を開こうとはせずただ百合香に情けない視線を向けるだけになっている。
「何が言いたいのかな? お姉ちゃん」
「私は奈美子のお姉ちゃんではないわよ」
「⋯⋯ふうん、お姉ちゃんは私と渉が不倫しているって言いたいのね。お姉ちゃんて鈍いと思っていたけどそうでもないのね」
「話が早いわね」
奈美子はちっと舌打ちする。
「お姉ちゃんが渉を働かせ過ぎるからよ。私は慰めてあげたの。感謝して欲しいくらいだわ」
「そう⋯⋯渉は奈美子にそんな事を頼んだのかしら」
「いや⋯⋯俺は⋯⋯拒んだんだ⋯⋯でも⋯⋯百合香を愛しているのに一途に俺を慕ってくれる奈美子を⋯拒めなくなって⋯⋯すまない百合香」
「渉は私が好きなんだって。可愛いっていってくれたわよ。身体の相性も私の方が良いんじゃないかなあ」
ニヤニヤとした奈美子の笑い方はあの時と同じものだ。それはこちらが何もしていない何もできないと見下している嘲笑だ。
「バレてるならはっきり言うわ。私と渉は愛し合ってるの。ここは私と渉の家になるからお姉ちゃんは渉との離婚届早く出して出ていってね。離婚してくれないと私が不倫略奪したってご近所に広がっちゃうもん。それに離婚した後なら不倫の慰謝料いらないでしょ」
「何を言っているの。奈美子は亨さんと結婚してるのよ? 私も亨さんも納得しない。それに今、不貞を告白したわ。ここに証拠があるじゃない」
「えー、亨なんて簡単に騙せるわよ。すぐに別れられるしい。それにさあそんな遅くなった日が重なっただけで不倫の証拠になるわけないじゃない。お姉ちゃんが渉を蔑ろにしたからって私が言えばうちの親もおばちゃんとおじちゃんもお姉ちゃんより私の方を信用するわよ。お姉ちゃん親戚の中でも地味で目立たないじゃない。私の方が親戚ウケいいの知ってるでしょ。お姉ちゃんが黙っていればいいし、まあ? 不倫だって言ったところで信じないわね。だから、お姉ちゃんが素直に離婚すればなにも問題ないの」
以前の百合香のままであれば奈美子の勢いに押され言葉を詰まらせていた。
けれど今回は違う。
百合香は一口お茶を飲んでから大きな溜息を吐き、隣で青ざめた渉、そして勝ち誇った奈美子を順番に見てクスクスと笑った。
「私は奈美子に慰謝料を請求するわ。渉にも」
「はあ!? そんなもの証拠にならないって、誰も信じないって言ったでしょ。ショックでおかしくなったのかしら」
「みなさん、二人の不倫告白、ちゃんと聞こえましたか?」
「えっ⋯⋯」
「何で⋯⋯」
勝ち誇っていた奈美子の表情が歪んだ。
隣の部屋から出てきたのは亨を始めとして奈美子の両親、渉の両親。そして陽介。
百合香は今日この日に家に来て欲しいと頭を下げて回った。
奈美子の両親に当然理由を聞かれたが、失礼を承知で当日に自分の目と耳で確認して欲しいのだとお願いする百合香に、よからぬことが起きていると察し今日まで何も聞かず何も言わずにいてくれたのだ。
「証拠は日付の記録だけじゃないんだな」
陽介がバラバラとテーブルに蒔いたのは渉と奈美子が待ち合わせから食事。顔を寄せ合いキスを交わし、腕を組みホテルへと入り、出るまでの写真。
「なんで陽介が⋯⋯」
「改めまして、僕の仕事は探偵なのさ」
「卑怯じゃないの! なんでお父さんとお母さんまでいるの! 寄ってたかって私を悪者にしようとしてるんでしょ! 性格が歪んでるんじゃない!?」
奈美子は百合香を罵り陽介を睨んだ。
彼はその視線に怯む事なくおちゃらけながら「やだ怖い」と亨の後ろに隠れた。
「⋯⋯性格が歪んでるのはどっちだ。私の記録と百合香さんの記録の日付はこの写真と一致している。これが不貞の証拠にならないなんて言わせないよ」
その言葉には棘があり亨の目が鋭くなる。
奈美子は悔しそうに唇を噛んだ後、怯むどころかニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「あーはいはい離婚ね離婚する。私は女だから慰謝料は亨が払うのよね。不倫されて慰謝料まで払わされて亨かわいそぉ」
「聞いていればお前は何を言ってるんだ馬鹿者! 何をしたのか本当にわからないのか!」
「きゃあ! 痛いじゃない! 暴力よ! 怖い渉!」
怒りの形相で奈美子の腕を捻り上げながら叫んだのは奈美子の父親だ。
父親の腕を振り解き、渉に抱きつこうとした奈美子を阻止したのは渉の両親。
二人に睨まれた奈美子は怯みその場に座り込んだ。
「奈美子、慰謝料って被害を受けた側がもらうものよ。男だから女だからではないの。奈美子は加害者側。私と亨さんに慰謝料を払う側よ。渉、あなたもよ」
「⋯⋯分かってる」
「本当に分かっているのか渉。お前は自分が何をしたのか、百合香さんにどれだけ辛い思いをさせたのか理解しているか?」
「⋯⋯ああ」
息子を叱る渉の父親から静かな怒りが溢れている。
百合香は渉の両親には記録と報告書を見せ彼の不貞を話した。
渉の母親は言葉を失い、父親は「息子が申し訳ない」と百合香に頭を下げたのだ。
親が頭を下げる。その事の意味を渉は分かっているのだろうか。
「いいじゃない! 私は亨と離婚する、百合香は渉と離婚する。私は渉と再婚する! 百合香は亨と再婚する! 丸く収まるじゃない! 百合香だって亨と不倫してたんでしょ! 二人で記録を合わせたって言ってたもんね! そうに決まってる! そうよ! 法事の時、百合香は亨といたもの。百合香は私より先に不倫してたのよ! だったら私が慰謝料貰えるじゃない! 絶対そう!」
開き直った奈美子はなお声を上げた。
馬鹿馬鹿しいその主張に百合香は冷めた視線を返した。
「本当にぽんぽんと自分の都合が良い方向に持っていこうとするわね⋯⋯残念だけど、あの時は親戚も一緒だったわよね? 嘘はダメよ。これが貴女の好きな証拠」
百合香がスマホの録音再生アプリを起動させボリュームを上げながら掲げると、そこから渉に言い寄る奈美子の声が流れ始めた。
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「私、百合香は渉さんに相応しくないと思うのよ。だって私の方が若いしみんな可愛いって言うのよ。渉さんも私を可愛いと思うでしょ? 仲良くしましょう。ね、お姉ちゃんの旦那さんと仲良くしたいって妹の気持ち分かるでしょ?」
「ね、仲良くしてお兄ちゃん」
「まさか奈美子ちゃん渉くんに言い寄ってたのかい?」
「おいおい親戚同士で何しようとしてるんだ」
「あの子昔からそういうところあったじゃないの」
「幸枝さんと浩二さんに話しておいた方がいいんじゃないかい」
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奈美子の声も、一緒にいた親戚の声もしっかり録れている。
奈美子の両親は頭を抱えているし、渉は青ざめた顔で黙ってしまった。
「僕からも。百合香ちゃんと亨さんは一度も二人きりで会ったことはないよ。証拠ならこれ、これはウチに相談に来た時。母さんと俺が映ってる。それからこれは百合香ちゃんと亨さんのこの三ヶ月の行動記録。要らない疑いをかけられないように二人は考えて動いていたけど、これは証明できるように僕からのサービス」
陽介は二冊の報告書を広げ奈美子に突き出した。
何時に家を出たか、何時に帰ったか、どこに行ったか。その報告書には亨と百合香の行動が記録されていた。
「陽介は奈美子の味方でしょ! 会っているところを撮らなかっただけじゃない!」
「僕は自分の仕事にプライドを持っているよ。奈美子ちゃんは昔から自分以外の人を見下しているよね。法事の時もだ。おじさん達の発言は確かに時代錯誤でデリカシーがない発言だったけど年配者は現代の僕たちとは違う価値観で生きてきた。自分とは価値観が違う相手を認められるようにならなきゃ。それから、百合香ちゃんと亨さんの方は僕の後輩が尾行の練習で付いていたんだ。奈美子ちゃんは彼らも侮辱しているんだよ」
奈美子は陽介に指摘された事が図星だったのだろうか、唇を噛み拳を握り俯いた。
「お前は親戚にも可愛がられていると言ったな⋯⋯お前の耳に入らなかっただけでいつまでも人の心を分かろうとしないお前に呆れて何も言わなくなっていただけだ。そんなお前の言う事を信用はしない。もう一度聞く、お前は何をしたのか分かっているのか」
奈美子の父親が厳しい声で奈美子に問うと、流石にもう嘘と言い逃れや誤魔化しが通用しないと察した彼女は、震える唇で何かを言おうと口を開いたがそれは声にならず、頓珍漢で苦し紛れな事を口にした。
「⋯⋯だって私は綺麗で若くて可愛い──」
「奈美子! そんなものに意味はないと結婚しても分からなかったのか! 百合香、亨くん、本当に申し訳ない! 奈美子! お前も頭を下げろ!」
「きゃっ⋯⋯す、み、ません、でしたあ! これでいいでしょ!」
「そんな謝罪があるか!」
無理矢理頭を下げさせられた奈美子は拗ねた声で謝罪を述べる。
その謝罪は反省が感じられない。謝罪そのものに意味がなく、ただその場だけの言葉だからだろう。だからなにも響かない。
なにも悪いと思っていない謝罪は謝罪ではないのだ。
「渉、お前もだ」
「百合香⋯⋯申し訳ない」
「違うだろう、お前はただ口先だけで謝っているだけだ」
「⋯⋯形だけの謝罪はこれ以上いらないわ」
土下座を促す渉の父親を制すれば渉は苦しそうに顔を歪めた。
そう、渉はどこか自分も奈美子に唆された被害者だと思っている。口だけの、形だけの謝罪に意味はない。渉も、奈美子もその場しのぎの言葉だ。
渉は前回も言い訳もできなかった。心からの謝罪ではないものはただの自己満足にしか見えないのだ。
前回の失敗は「話がある」と言った奈美子になんの準備もしていなかった百合香は主導権を握られ、百合香、渉、奈美子だけでの話し合いにしてしまった事だ。
お稲荷さんの奇跡を与えられ、そこで出会った老婦人が言った「思うように進めばよい」を信じ今回は主導権を握れるように百合香は動いた。
百合香の目的は渉と奈美子の不貞を明らかにし、自分達以外に知ってもらう事だった。
それが果たされ、無理矢理頭を下げさせられている渉と奈美子を見下ろし、百合香は静かに息を吐いた。
「ここからはそれぞれの夫婦が話し合いましょう」
「ええ、お義父さんお義母さん、私は奈美子との離婚を進めます。弁護士を立てますのでよろしくお願いします」
「ずるい⋯⋯」
「奈美子!」
「だってずるいじゃない! 百合香ばかりなんで味方がいるのよ! 一人じゃ勝てないからって陽介まで引き入れて関係ない親まで引き連れてずるいじゃない!」
もう言っていることが子供の癇癪だ。
亨は「話にならないな」と頭を押さえてしまった。
父親に押さえつけられ息を荒げながら睨みつけて来る奈美子に百合香は静かに微笑んだ。
奈美子は百合香のその笑みが気に食わなかったのだろう、ますます顔を歪める。
けれど可愛い顔が歪んだ奈美子と既に色を無くし絶望している渉に百合香は堪えきれなくなった笑い声を上げた。もう、笑うしかないではないか。
「奈美子は時代錯誤だと言うのかも知れないけど結婚は夫婦だけの繋がりじゃないの。家の繋がりもある。それを疎かにしていたのは奈美子よ。奈美子は親戚や友人に助けてもらえる付き合いをして来なかったのだもの。味方してもらえるはずがないじゃない。もっとも私は不貞を応援するような親戚も友人も願い下げだけど」
これで終わりだと実感する百合香の胸が熱くなる。
「奈美子に味方する人なんて誰も居ないと気付けないなんて──鈍いのね」
百合香の言葉に奈美子は悔しげに唇を噛み、もう反論する気力も無くなったのだろう、押さえつける父親の腕からずりずりと崩れ落ちた。
後悔、侮蔑、絶望、敗北。誰もが己の立場からくる感情を浮かべ立ち尽くす中。
楽しい集まりだったと笑ったのは百合香はただ一人だった。
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