コデックス
笑川雷蔵
名もなき竜のうた
だってパパがいいって言ったもん
いつかの時代、どこかの旅の空の下。
「なあ、相棒」
たいそう苦い表情で、若い竜使いは、さっきからつんとそっぽを向いたままの己が半身をよばわった。
「聞いてるのか、ヴェイル」
まだ十三、四を過ぎたばかりと思われる少年が口にしたかりそめの名の通り、全身を鮮やかな翡翠の鱗に覆った若い雌竜は、不思議な色合いのまなざしで小さな半身を見やる。
「何だ、しもべ」
神の眷族と称される<旧きもの>であるゆえか、はたまたこの竜に限ったことなのか。出逢ってから数年が経とうとしているのに、ヴェイルはいっこうに少年を名で呼ぼうとはしない。
この高飛車娘と、一度は口に出してやろうかと思ったが、少年はいまだそれを実行に移したことはない。そんなことをしようものなら、ある都の城壁にすら風穴を開けた彼女の尻尾に張り倒されかねないからだ。ひとの身というのは、城壁よりももろくはかないと分かり切っていることを、みずから証明するなどまっぴらごめんだ。
「どうするんだよ、これを」
少年が指さしてみせたのは、辺りいちめんの焼け野原だった。ずいぶん前に火勢がおさまったとはいえ、革靴の裏にはまだ熱が伝わってくるし、焦げたにおいがあたりに漂っている。
ほんの少し前のこと。だあれもいない荒野のど真ん中で、弁当を広げていた少年と竜のもとを訪れたのは、これまた白銀に輝く気障な雄竜だった。
ただいま花嫁募集中でと名乗ったかの御仁は、どうやらヴェイルに目をつけたらしかった。
「竜の基準からみれば、これでもわたくしはみめうるわしい乙女なのだぞ」
つねづねそう豪語する相棒に、ふつう自分で言うかとたいそう冷めた調子で応じていた少年だったが。気障な雄竜の熱心な口説きように、あながち嘘ではなかったらしいと知る。
我が住まいはリャザンの東、ちゃちな人間どもが「竜の牙」と呼ぶ山のかなたで。
水晶と氷からなる壮麗な宮殿は、とうてい人間どもには為しえぬ偉業であろう。
己が力のすばらしさを延々と説く雄竜をよそに、当のヴェイルときた日には、「世界で五指に入る美味ぞ」と彼女が絶賛した羊飼いのパイ、少年の母によるお手製を真剣な面持ちで食しているときたものだ。当然、雄竜のはなしなど聞いちゃいない。
それを察した雄竜も、さすがにかちんときたのだろう。
神の眷族たる我らが、塵芥の食すものに興味など向けるものではないと言って、ヴェイルが卓代わりにしていた平たい岩から羊飼いのパイをはたき落とした。
何しやがると抗議の声を上げた少年だったが、竜の娘ははるかに容赦がなかった。
地面におちてこぼれたそれをしばし眺め、くるりと白銀の雄竜に振り返るやいなや、ためらうことなく紅蓮の炎を吐き出したのだ。
「気障な白竜は、もののみごとに黒竜に大変身。焦げながら飛び去っていきやがったけど」
「ふん。あと三回くらい脱皮すれば、もとの白さに戻るであろ」
おおかた三百年は姿をみせぬだろうと、にべもない姫君のことばに、いくらなんでもやりすぎだろうと少年はこぼす。
「なんにもない所だからまだよかったけどな、ひとの町だったらどうすんだよこれ!」
「案ずるな、そのときは雨雲を呼びつけて降らせてやるゆえに」
天候すら意のままに操る己が力を、大したことではないかのように語る竜に、そういう問題かと少年はうなる。
「見境なく、ぼうぼうと火を吹いて回るのがおまえら竜の習慣か?」
「たわけたことを申すな。わたくしは言いつけを守ったまでのこと」
「言いつけ? 誰の?」
「父さまだ」
なぜか誇らしげに、ヴェイルは胸を張った。
力をふるう者よ、為しえたことを見よ――ただし、おぬしがたちの悪い雄に絡まれたときだけは、ためらうことなく火を吹け。
「誰が許さずとも、俺が許すと父さまは言っておられたぞ」
「いったいどういうしつけをしたんだ、おまえの親父はッ」
その結果がこのおはね娘かと、どこにいるともしれぬ相棒の父親に、少年はあらん限りの罵倒を捧げずにはいられない。
だいたいヴェイルと知り合って以来、およそ安息の二文字ほど少年からかけ離れたものはなかった。
竜と竜使いの絆は終生のもの、ひとの子たる竜使いが<かあさん>に生命を返すそのときまで続くのだよと、里の婆さまに告げられたときには心底泣きたくなったものだ。
「あーあ、もったいないことしちまって」
割れたパイ皿のかけらを拾い上げながら、少年はぼやく。ヴェイルはチェダーのチーズ入りが好きだったわねと、笑いながら籠を差し出してくれた母の笑顔が思い出されて、胸がちくりと痛む。
「あの白竜、こんなうまいもんも知らないなんてな」
塵芥の食い物なんてばかにしてさと肩を落とした少年に、
「まったくだ。そなたの母御のパイは、母さまの次に美味だというのに」
「かあさま?」
怪訝そうな顔をする少年に、里に戻ろうぞとヴェイルは長い首をかなたに向ける。
「母御のところに戻ったら、わたくしは食しそこねた一皿をねだることにするぞ」
ごはんはよく噛んで、人参は残さずにというのが母さまの言いつけなのだとまた胸を張る竜に、ああそうかいと力なく応じると、少年は荷物を片付けることにした。
「しもべ」
まったく、きょうはさんざんな探索だったなと呟きながら、手早く荷物をまとめてゆく。
「聞いておるのか、しもべ」
竜使いとして名を馳せている兄たちや姉たちに比べたら、自分の手柄などなきに等しいものだ。くっついた竜との相性も、大いに問題ありだよなと溜息をつきたくなってくる。
「アール」
「何だよ」
ようやく、自分の名を呼んだ竜に振り返ると――そこには、どこかやわらいだひかりをたたえた不可思議なまなざしがある。
「あの白竜、人間のことを塵芥だのちっぽけだのと申しておったであろう」
「ああ」
だから何なんだと言いかけたアールの耳に飛び込んできたのは、意外なことばだった。
「父さまと母さまはひとの子であった。そなたも母御も里の者たちも、みなそうであろ」
だから、あやつの言いようが気に食わなかったのだ。言外にそう告げる翡翠の竜へ、そういうもんかねと少年は肩をすくめてみせた。
「つまり、おまえは変わり者ってわけだな。ヴェイル」
「悪かったな」
ふてくされたようにそっぽを向く竜に、冗談だってと笑ってみせる。
俺の寿命が尽きる前には、いつか必ず縁を切ってやるとはじめは誓っていたけれど。
落ちこぼれの竜使いと、人間好きな竜。どっちもどっちな組み合わせがあったって、たまにはいいじゃないかとアールは思う。
まとめた荷物をよいしょと肩に担いで、翡翠の姫君のもとへと歩んでゆく。
「今から飛んでいきゃ、晩飯には十分間に合うだろ。そうしたらお袋に、卓と同じぐらいのパイを作ってもらおうぜ、相棒」
(Fin)
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