大きな犬が欲しかった

しっぽタヌキ

大きな犬が欲しかった

 大きな犬が欲しかった。

 ぎゅっと抱きしめても壊れないような。私のさみしさをぶつけてもビクともしないような、大きな犬が欲しかった。

 物心ついたときには、なぜかさみしさが心にあふれていて、大きな犬がいれば、自分は救われるんじゃないかって夢を見ていた。

 でも、実家はペット禁止の分譲マンションで飼うことはできなくて……。

 いつか犬が飼いたい。

 そう思ったまま、気づけば成人していた。

 そして、私は――


「はじめまして。これからよろしくね」


 ――古い一軒家の廊下。白地に茶色の模様のついた犬に挨拶をしていた。


「ここが君の家だよ」


 生後五ヵ月。子犬と成犬のあいだのちょっと微妙な時期。子犬の愛くるしさはなくなって、耳と足だけが長くて、犬というよりは狐っぽい風貌。

 お世辞にもかわいいとは言えないけれど、その犬にかけた私の声は、自分で思っているよりも甘ったるくて、優しい音だった。


 この犬に出会ったのは一週間前。

 小さな個人経営のペットショップで大きくなった犬はかなり値引きされた値段で売られていた。

 昨今のペット事情からペットショップでの生体の購入があまり勧められず、純血種がほしいのならばブリーダーから迎え入れるのがいいということは知っている。そして保護犬という選択肢があり、犬を家族にするのならばそれもまたすばらしいことだ、と。でも……。


「茶色のハスキーがいる……」


 店頭にいた狐みたいな姿を見て、私は自分の心の弱さに驚いた。

 犬は……飼いたいと思っていた。そのためにペット可の古い一軒家に住むことにしたのだ。欲しいのは……大きな犬。そして……できれば、シベリアン・ハスキー。色はどんな色でもいいと思っていたけれど、できればハスキーっぽくない色がいいな、なんて。

 そんな私の理想通りの子犬が目の前にいた。……子犬というよりは狐だけれど。

 ハスキー狐を見つめながら、私はすぐに自分の生活について思いを巡らせた。

 まだ引っ越してきたばかり。本当ならばもうすこし落ち着いたタイミングでブリーダーからハスキーを迎え入れることを考えていた。もし、近場にハスキーのブリーダーがおらずハスキーの子犬を迎えることが難しい場合は、違う犬種でもいいかな、なんて。

 自分の考えの中にいる正しい自分は、正しい選択をして、正しく犬を飼っていた。のに。


「……この色、好きだな」


 正しさを乗り越えて、心が言う。この犬を飼おうよ、と。ちょうどいいよ、と。

 現在はしばらくは家を空ける予定もなく、日中も一緒にいられる。子犬を一人にしなくていい。お金もある。家も……まだ整っていないところはあるが、だからこそ犬仕様で物を揃えていけばいいし。

 犬を見つめれば、茶色の目がまっすぐに私を見て、ちょっとだけ細まる。うれしそうだ。


「いや、っ、でも、ダメ。衝動買い、よくない」


 その茶色い目の魅力に負けそうになるけれど、さすがに正しい私がその日は勝ち、なにもせず、家へと帰った。

 でも、家にいて思うのはハスキー狐との生活。

 ここにケージを置けば……。ここに水でここに餌……。散歩はこのコースで、帰ってきたらお風呂場で足を洗って……。

 「ただいま」と帰ってきたときに、あの茶色い目が私を見上げてくれれば、どんなにうれしいだろう。

 「疲れたーしんどいー」と抱きしめたとき、あの白と茶色の毛皮があれば、どんなに癒されるだろう。

 そうすれば……このさみしさは消えるのかな? 満たされた気持ちで日々を生きていけるのかな? それなら……。


「すみません、あの、あそこにいるハスキーなんですけど……」


 結果、正しい私は完敗し、正しくない私はハスキー狐を購入し、ペットショップの店長さんにすごく喜ばれ、ケージやそのほかの用品、餌などを50%offで買っていた。

 子犬ではなくなってしまうと買い手がつかないのはもちろんだけど、大型犬だから展示する場所にも困り、かわいがって育てたハスキー狐にいい家族を見つけたいと思案していたらしい。

 あまりにも安かった物品とともに家に帰ったハスキー狐は初日からすでにうれしそうで、口角を上げ、茶色の目を細めて、廊下をチャッチャッと音を鳴らして走った。

 そして、一ヶ月前に拾った子猫がその姿を見て、シャーッと背中を丸めて怒る。そう、先日、河原で一匹でいた子猫を拾ったばかりだったのだ。

 本当に私は正しくない。とりあえず三月生まれと四月生まれ、仲良くしてくれ。


 それから年月が経ち、子犬は成犬になった。

 体重も25kgになり、狐の面影はない。もふもふの立派なシベリアン・ハスキーだ。

 これだけ立派になれば私の理想通り。私の抱えていたさみしさを込めて、ぎゅうと抱きしめてもビクともしない体躯。ふかふかと優しく受け止めてくれる最高の毛皮。

 そんな犬との生活で、私の中にあったさみしさはゆっくりと埋まって――いかなかった。


 まったく埋まらなかった。常にそばにさみしさが鎮座。なんで?


 埋まらんのかい! って自分に何度も突っ込んだし、まじでどういうことやねん、と聞きたい。どうなってるの?

 しかも、大型犬を飼うのは、正直、めちゃくちゃ大変だった。大型犬は一人で飼うものではない。


 まず、子犬時代。

 破壊神だった。

 古い一軒家で和室が多いから、柱が見える構造だが、柱という柱を齧りまくった。だいたい膝下の柱は角がない。歯の生え変わりで痒かったんだろね。だね。


 そして、成犬になっても油断はできない。

 五才ぐらいまではちょっとでも齧れそうなものがあれば、気分により破壊。

 ブルーレイはケースごと破壊し、リモコンも半分になっていた。トイレシートを破った回数に至ってはもはや数えきれない。

 犬の動画でよく見る、クッションから羽根が出てお部屋を彩っている状態もあった。

 仕事から帰り、玄関を開けて部屋にはいったときに惨状を見た際の絶望感と言ったら……。

 疲れ切った体と心にとどめを刺してくる。


 さみしさを埋めるとかなに言ってんの?

 お前にあるのは孤独の後押し。一人ぼっちで犬の片づけをする苦しみだけですね。


 そんな疲労と孤独に震える私とちょっと離れたところで、伏せをする犬。

 犬は自主的に伏せをし、クーンクーンと悲しい声を上げていた。

 どうやら酷いことをしてしまったという気持ちはあるらしい。いつも明るくて愉快な犬がそんな姿をしていると、とても哀れではある。

 が、悲しいのは私だ。仕事から帰ったら風呂に入って、寝かせてくれ。深夜に部屋を片付けながら泣いた。


 そこから七歳ぐらいになり、パタッと悪戯がなくなった。

 日中はゆったりとくつろぎ寝ているだけ。夜は散歩をし、なんか撫でたりおやつ食べたり。

 お互いにお互いがいる生活が普通で、私が外で仕事をしているあいだは寝て、家で仕事をしているときは隣で寝そべる。私が夜中にベッドへ移動すれば、ベッドの隣で一緒に寝た。

 ほぼ同時期に来た猫とは仲良くはなっていないが、お互いに存在はわかっているというような距離感になっていた。

 基本的に明るくて陽気で愉快な犬だが、ちょっと甘えたなところもあり、猫が私の膝で寝ていると、のそっと近づいてきて、猫を見ないふりをしながらも、ちょっとずつ頭を私の膝に乗せて、猫を落とすような犬だった。

 そして、猫にシャーッと鼻を叩かれて怒られるまでが一連の流れだ。仲良くして。


 私が欲しかった大きな犬。

 夢見ていた正しい飼い始めじゃなくて、夢見ていたようなさみしさのなくなる生活ではなかった。

 犬は私を助けるためにいるわけではないし、救ってはくれない。

 仕事をやめたいときに代わりに稼いでくれるわけでもないし、未来を保証してくれるわけでもないし、食事も作ってくれないし、家事もしない。

 むしろ、仕事から疲れて帰って来た私に鞭を打つし、どんなに疲れていても散歩に行こう! と誘う。行かなければクーンクーンを悲しい声で催促もする。疲れと罪悪感の狭間でA.M2:00に散歩に行ったことも何度もある。


 ……でも。

 幸せだったな。


 最高の犬だったな。


 気づいたら大好きな散歩で立ち止まることが増えて、距離が短くなった。足を引き摺るようになった姿を見て、年だから仕方ないのかなと考えていた。

 うしろ足を引き摺るから、爪が割れて血が出てしまうようになり、どうすばいいか方法を探し、犬用のブーツを買って保護することにした。

 でも、ブーツがしっくりこないみたいで、座り込んで散歩どころではない。

 せっかくの大好きな散歩なのに、茶色の目が垂れて、これヤダって私を見上げるから、うーん……って悩んで。

 結局、散歩に行く前に毎回、爪にテープを巻くことにしたらうまくいくようになった。

 毎回散歩の前に20分ぐらいかかるし、大変なんだけど、それが一番、楽しそうだったから。


 でも、そのうちに立つとふらつくようになって。

 それでも散歩に行きたそうだから、うしろ足を腰から持ち上げるサポーターを買った。

 左手でリードを持って、右手でサポーターを持ち上げて。雨だと傘も持ったりして。

 気づけば20kgを切って痩せてしまった体だけど、さすがに片手で腰を持ち上げ続けるのはしんどかった。でも、前に進むぞって犬が行くから、右手がプルプルしながら散歩して。


 全部、全部、最高だったな。


 足を引き摺るようになって診てもらった病院では、治療でよくなる病気ではないってすぐに判明して、いろいろ相談して入院することにした。

 入院で軽快しなかったから、通院に切り替え。仕事の前に病院へ送って、点滴してもらって仕事終わりに迎えに行った。

 それでも軽快しないから、病院の先生と相談して、あとはゆっくり自宅で看取ろうって決めて。

 尿が出にくくなってるから圧迫排尿をして、自分で体を起こせないから二~三時間に一回の体位変換をして。寝心地のいい場所にいろいろ移動させて、いっぱい撫でて。

 食欲もないけど、すこしは食べてほしいから、無理やり口を開けて、ちゅーるを上あごに塗って舐めさせて。ちょっと舐めたらおいしいみたいで、茶色の目が輝くのが好きだった。

 昼は調子いいけど、夜になると苦しいのか、さみしいのか、しんどいのか、毎日クーンクーンって言うようになって、眠いけどずっと隣で撫でながら眠って。

 さすがに夜に眠れなくて、仕事でぼんやりしてしまうし、心も疲れてきて。

 そんな私を見透かすみたいに、ゆっくりと息を引き取った。


 本当に。

 そういうところが。


 陽気で、明るくて、愉快で、ちょっと腹黒くて、ちょっとわがままで。

 でも、私が本当にしんどくなるころにはいつもいつも優しくて。


 犬が亡くなった日。

 仕事から帰ってきた私は、まずは体位変換をして犬の姿勢を整えた。

 そのときは、まだ目も開いてて、「ただいま」って言うと、茶色の目を細めてくれた。

 仕事中に亡くなっていないことにまずは安心して、よしよしって頭を撫でる。

 とりあえずごはん食べて、お風呂。そうしたら犬のおしりを洗おうかな? って思って、まずはごはんだけ食べて。

 ごはんを食べ終わって、犬のそばにいくと、息が弱かった。

 直観的に、あ、そうか。って思って。

 そばに座って、頭を撫でてたら、茶色の目がこっちを見上げた。

 その目が困っているみたいで。

 苦しいのか、さみしいのか。……わからなかったけど、安心させてあげたいと思った。


「大丈夫だよ。そばにいるよ」


 って、二回、頭を撫でて。


「たくさん、ありがとうね」


 って。


 茶色の目はもう私を見てなくて、力なくぼんやりとしていたけど、さっきみたいに困った目じゃなかった。


 ずっと。

 本当は後悔してて。


 こんな飼い主でごめんって思ってた。もっといい飼い主だったらよかったのに。

 こんなに素敵な犬なんだから、私以外に飼われたらもっと幸せだったのかなって。

 でも、最後にちゃんと終わりを教えてくれて、病院にも行けて、介護もできたから、最期に「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」って言えた。

 どこまでも優しい犬だった。



 ペットショップで茶色いハスキーに出会った私。

 残念だけど、さみしさは埋まりません。さみしいのはきっと一生続くんだろうって、最近は諦めてきたよ。

 なにをしてもだれといても、猫を飼っても犬を飼ってもさみしいまま。


 でも、その犬は最高の犬です。


 あなたの人生はだいたいくそですが、その犬と出会ったことは、あなたにとって最高の幸運です。

 愛することを教えてくれ、与えることを教えてくれます。

 亡くなる瞬間さえも、優しい時間をくれます。

 あのとき、勇気を出して、犬を飼って本当によかった。

 

 私が欲しかった大きな犬は、最高の犬。

 できれば、その生涯が幸せであれば、と。


 大好きだよ。

 一緒にいてくれて、ありがとう。


 

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