溺愛してくれる彼女のことを思い出せない
カボチャの豆乳
生きた証を失くすということ
「頭部外傷に伴う逆行性健忘……言ってしまえば、記憶喪失という奴ですな」
記憶喪失。
年配の医師のしてくれた病状の説明を、上の空でどこか他人事のように聞いていた。
あまりに実感の湧かないまま言葉が脳裏を流れていく。
へえ、それはまた大変なことで、ご愁傷様です……え、それっておれのことなんですか。
どうやら自分、記憶喪失になってしまったらしいです。
その翌日。
起きたら家族がお見舞いに来てくれていた、看護師さんが呼んでくれていたらしい。
父にも母にも弟にも随分泣かれてしまった。
どうやら自分はこの家庭に大切にしてもらっていたようだ。
こうなった経緯も親から訊かせてもらった。
暴走した自動車から小さな子どもを庇って轢かれたおれは、頭部を強く打ってまるまる一ヵ月も寝たきりの昏睡状態が続いてたらしい。
過去のおれ、中々やるじゃん。
誰かを助けて負った怪我なんて全部勲章だ。
一生分の話のタネにはなったし、そう悪いことばかりでもない。
家族は誰一人としておれの記憶のことには触れないまま、自然に家族の思い出話を聞かせてくれた。
気を遣わせているとは感じたけれど、不思議と居心地は悪くなかった。
何一つとして思い出すことのできないおれのことを温かく迎えてくれたこの人達となら、これから新たな思い出を築いていけるだろう。
看護師さんに、この後のことを訊かれた。
精密検査をして異常がなければ、その後の処遇は自分で決められるらしい。
おれ自身か家族のどちらかが望むなら、サナトリウムのような施設に転院して入院生活を続けることもできると言う。
家族とその場で相談して、退院を選択した。
なんせ身体は今のところ五体満足で健康なのだ。
肝心の記憶も空っぽなのだから、喪失感を覚える余地もない。
閉じた病棟にそのまま引き篭もっているメリットを感じなかった。
後は検査の結果次第だ。
「はい先輩、梨剥けましたよ」
「お、ありがとう。 鷲見さん」
「みどりちゃん」
「鷲見さん」
記憶というのは、ないならないで案外困らない。
一部分だけが欠けているなら却って不在が目立ってしまうかもしれないけれど、全部を失ってしまえばそもそも元からあったことにさえ気付けない。
例えるなら、いきなり男子高校生の身体に憑依してしまったような違和感だけがある。
言ってしまえば、家族も入院生活中に廊下ですれ違う人もおれにとっては等しく全員知らない人だし、それを相手に告げるのは失礼だったり傷付けてしまうから、ただ笑って誤魔化すことも多い。
「みどりちゃん」
「……みどりさん」
「……………………まあ、及第点としましょう」
だからこういう時、原初、笑みを浮かべるのは威嚇行動だった、という話をよく思い出す。
がるるるる。
分かったから笑みを浮かべたまま威圧しないでくれ。
まず梨を剥くのに使った刃物を手元に置くなりしてから話せ。
さっきからおれに自分の名前を呼ばせようと圧を掛けてくるこの女性は鷲見 翠。
名前自体が難読漢字の塊のような女だが、すみ みどり と読む。
よく手入れされていることが分かる、光沢を帯びた艶のあるロングヘア。
怜悧で聡明な印象を与える、深い知性を宿した切れ長なツリ目。
大きな瞳はあまりに神秘的でこの世の秘奥を湛えたみたいに美しい。
まっすぐに伸びた鼻梁、薄い唇はほんのりと桜色に色づいていて、総じて彫刻のように完成された美を持つ端正な顔立ちの美少女だった。
その現実離れした端麗な容姿からは想像も付かない程に気さくで接しやすい彼女は、なんと記憶を失う前のおれの彼女(人称代名詞の方ではなく、人生のパートナーとしての方)だと言う。
過去のおれ、中々やるじゃんその2である。
「どうです? みどりちゃんに食べさせてもらった梨美味しいって、言ってください」
「うん。 みどりさんが持ってきてくれた梨、美味しいよ。 果物は重かったでしょ、本当にありがとう」
「………………まあ、先輩好きでしたもんね、梨………………」
「声ちっさ。 言わせといてなに照れてるのさ」
水分を多く含んだ梨は口いっぱいに爽やかな香りとジューシーな味わいをもたらしてくれた。
病院食は想像していたよりはずっと美味しいものの、やはり甘味には欠ける。
芳醇で上質な甘みを摂取できるのは素直に嬉しい。
そうか、以前のおれは梨が好きだったのか。
家族がそういった話題を避けていた分、今の言葉はダイレクトに響いた。
おれの記憶はいつか何かの拍子に一部でも戻ったりするのかな。
みどりさんは、一緒に居た頃の思い出の大部分を共有できない今のおれでも変わらずに愛してくれるだろうか。
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