旅を忘れた旅鳥は

 シルにとってリュヤージュは、物心つく前から遊んで育った兄弟のような存在だった。兄弟と言っても、リュヤージュは伯爵家の嫡男で、シルは使用人の息子。シルがリュヤージュを泣かせるとひどく叱られたものだし、幼いながらに二人とも身分の差というものの片鱗は理解していた。

「ぼくがお兄ちゃんなんだから」

 数ヶ月しか歳が変わらないのに、シルはよくそうやってリュヤージュの先に立とうとした。

 お兄ちゃんなんだから、探検を先導するのはぼく。お兄ちゃんなんだから、大きい蜘蛛に立ち向かうのもぼく。

 幼い頃のシルは活発で、「ぼくはリュイのかっこいいお兄ちゃんになるんだ」という意気込みに溢れていた。「リュヤージュ様をお守りする」ことと「リュイのかっこいいお兄ちゃんになる」ことは、シルの中で結びついていたから。

 エスフィヴ伯爵は目を細めて二人を見守った。貴族として、嫡男リュヤージュの引っ込み思案な性格が不安の種だった。だが、元気のいいシルと遊んでいれば性格も変わるだろうと期待したのだ。ほら。今日も息子は新しいイタズラを覚えて帰ってくる。

 伯爵にとって、シルが嫡男リュヤージュの「お兄ちゃん」を自称することに問題はなかった。リュヤージュは未来の当主として教育を受け、その間シルは執事見習いとして礼儀作法から叩き込まれる。はっきり立場は区別されていた。


 そう。エスフィヴ様は、このような柔軟なお考えをお持ちの方だった。昨日亡くしたばかりの偉大な庇護者を思い出し、シルは目頭を押さえた。シルが一人前の執事として認められたとき、祝福の言葉に添えて、当時のお気持ちはこうであったと聞かされたのだ。エスフィヴ様のお茶目なウィンクが脳裏に蘇る。

 そのとき「大きくなったね」と手渡された書き置きとペンダント。自分にはもったいないからと、リュヤージュ様に押し付けるようにお渡ししてしまった。

 もう人生の希望などない自分に、あの華麗な宝飾品は眩しすぎた。少年の頃の夢が頭をよぎり、シルは唇を噛む。


「大きくなったら旅に出るんだ」

 垣根の窪みに二人で座って、シルは顔を輝かせてリュイに夢を語った。シルとリュイは、広大な庭の植栽の影にいくつもの「隠れ家」を持っていた。シルの言葉にリュイは目を丸くした。

「旅に!? でも、危ないよ……」

「危ないからかっこいいんだよ!」

「でも……何をしに行くの?」

「人探し。父さまと母さまに聞いたの。ぼくの『本当の』父さまと母さまは別のところにいるって。謎なんだって。魔女かもしれないんだってさ〜!」

 ちょっと脅かすつもりだったのに、リュイはますます目を丸くして身を縮めた。シルは急いで謝った。

「シルは、本当のお父様とお母様を探しに行くの?」

「その通り!」

「でも、手がかりはあるの?」

「エスフィヴ様が、手がかりをお持ちなんだって」

「お父様が!?」

「そう。きっと調べてくださるに違いないって。でもエスフィヴ様はお忙しいから、早く大きくなって自分で探しに行かないと」

「ぼくからお父様に、早く調べてくださいって申し上げるよ」

「違う違う! 自分で世界を旅して探すのがいいんだよ! このお屋敷の外、出たことある?」

「何度かあるけど……」

「いいなあ。ぼくはまだない。早く大人になりたいなー」

 シルの浮き立った口調につられて、リュイの頬も薔薇色に染まった。二人は「大人になったらやりたいこと」を語り合った。二人にとって「大人になる日」は遥か遠くにぼんやりと霞むまばゆい世界だった。そんな先の話では物足りなくて、「10歳になったらやりたいこと」を数え上げて、顔を見て笑い合った。少年二人の未来は、王国の短い夏の陽射しにきらきらと輝く若葉のようだった。


 ぐっと心臓を掴まれたような痛みがシルを襲った。あの日、自分は何も知らなかったのだ。「旅」という言葉の輝きが、シルの心の柔らかい部分をチクチクと刺す。19歳のシルは、「旅」どころか「屋敷の外」を思い描くことすら忌避する、影を抱えた青年に成長していた。

 思い出されるのは、シルが人の悪意を知ったあとのこと。

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