第182話 阿武隈を越えて

 戦国時代における立身出世とは、大名に直臣として仕えて認められ、やがて侍大将や武将、そして城主へと取り立てられていくことであった。この出世コースの代表例が、織田信長に仕えた木下藤吉郎秀吉であろう。草履取りや馬小屋番などの小者から、足軽、足軽組頭と出世し、台所奉行や普請奉行を経て侍大将へと出世した。

 無論これには、本人の実力以上に運が求められる。木下藤吉郎は、織田信長という血縁や譜代といった過去の縁以上に、能力と実績だけを評価するという当時では考えられない発想を持った、得難い上司がいた。もし織田信長が存在しなかったら、後の豊臣秀吉は登場せず、尾張の寒村の百姓として、一生を終えていたかもしれない。


「新田家では、他の土地とは出世の意味が少し違う。どれ程手柄を立てようが、領地を与えられることはねぇ。まして一国一城の主になんざ、絶対に成れねぇ。詳しいことは俺も知らねぇが、そういう仕組みなんだ」


 新田家の足軽隊隊長であるがんまくは、他所から新田領に逃げてきた流民たちに大声で説明していた。もともと頭は悪くなく、人の面倒見も良かったため、一〇〇人の足軽隊を束ねる隊長という地位に就いていた。評定に出るような立場ではないが、すぐ上の足軽大将はもちろん、その上の侍大将の中にも、がんまくを知る者がいる。一介の雑兵から数年でこの立場になったのだ。立派な出世頭と言えるだろう。


「まず男たちには、賦役をやってもらう。ちゃんと飯も出るし、米と銭が渡される。賦役だけでも女房と子供を飢えさせない程度には暮らせるはずだ。ただし、賦役では大した暮らしはできねぇ。お袋にいいべべ着せてぇ。女房に髪飾りの一つも買ってやりてぇ。子供に腹いっぱいに飯を食わせてやりてぇ。そう思うんなら、賦役の合間で読み書きと算術を学べ。希望すれば教えてもらえる」


 流民に賦役をやらせるのには、大きく三つの理由がある。一つ目は、多くが着の身着のままで流れてきた貧民であるため、まずは口に糊する必要があるからだ。二つ目は、流民に交じって他家の間者が紛れ込んでいないかを探るためである。完全に判別することは難しいが、一年間の賦役が義務付けられるため、ある程度はふるいにかけることができる。そして最後は、がんまくが言った通り教育を施すためである。新田の民の多くが文字や算術を学んでいる。集落での催しや奉行からの報せなどは、看板に掲示されることが多い。文字が読めなくとも生きられないわけではないが、読めたほうが暮らしやすいのは確かであった。


「賦役では三日に一日は休みが貰える。その時に、これからの生き方を考えるといい。畑仕事だけじゃねぇ。焼物師、鍛師、番匠、紙や酒造りだって立派な仕事だ。働き口は幾らでもある。真面目に働けば、女房に楽をさせてやれるし、子供を遊ばせておくことだってできる。もちろん、俺みたいに新田家に雇われて足軽になることだってできる」


「あ、あの…… オイラぁ、もう四〇で、これから読み書きを習うなんて……」


 中年の男が遠慮がちに言う。人間五〇年の時代である。四〇ということは、現代年齢で考えれば六〇過ぎであろう。今から新しいことに挑戦するのは難しいと考えるのも、仕方のないことであった。

 だが、がんまくは笑った。生きている以上、何時だって「今から」だろう、と反論する。


「俺の隊には五〇手前の奴がいる。それでも頑張って読み書き覚えて、今では立派な手紙を書けるほどになってるぜ? 諦めるのは勝手だが、やりもしねぇで諦めるのは、そりゃ逃げだ。暮らしが苦しくて逃げてきたんだろ? ここでまた逃げてどうすんだよ?」


 実際問題、読み書きというのは現代人程には求められない。平仮名と幾つかの漢字だけでも十分なのだ。算術も足し算と引き算さえできれば、銭を使うことはできる。無理のない程度の努力を二、三年もすれば、一定の水準には達するのだ。

 流民たちはその後、酒田に新築された長屋へと案内される。酒田では最上川の治水や湊の整備など、身体を動かす仕事が多い。彼らの中からまた、新田の常備兵へと採用される者が出てくる。がんまくは流民を見送った後、報告をするために亀ヶ崎城近郊の練兵場へと向かった。




 永禄七年文月、およそ一年半におよぶ内政強化を終えた新田は、再び版図拡大に動き出そうとしていた。浪岡城に主だった文武官が集められ、今後の方針について共有する大評定が開かれた。


「越中、始めよ」


「ハッ、皆様も御承知の通り、御当家では一昨年の暮れから内政に舵を切り、力を蓄えて参りました。現在の総兵力はおよそ六万八〇〇〇、武器兵糧も十分にあり、出羽と佐渡の開発も進んでおります。今こそ、奥州統一に向けて走り始める好機にございます」


「うん。南庄内の様子は?」


「本庄繁長殿、南庄内をほぼ手中にしつつあります。上杉は佐渡を警戒してか動かず、北越後の揚北衆が中心となって本庄を抑えている状況でございます」


 南条広継と八柏道為が又二郎の問いに答える。一昨年前までは、上杉が新田にとって頭の痛い問題であった。だが佐渡島奪取という奇策により、春日山城には数千を置く必要が出た。上杉全体では、総兵力は三万近くになるだろう。だが、越中国や上野国にも兵を置く必要があるため、動員可能な実際の兵力は、せいぜい一万といったところである。


「酒田亀ヶ崎城に八〇〇〇、佐渡島に七〇〇〇、最上に隣接する盾岡城に一万を置きます。また領内の警備にも五〇〇〇は必要でしょう。よって今回は、総勢三万八〇〇〇の軍をもって伊達領へと侵攻します。予想される敵は伊達、最上、蘆名でございますが、最上は盾岡城にて小野寺殿が睨みを効かせており、動くに動けぬ状況。蘆名も田村、相馬への抑えも必要なため、動かせる兵はせいぜい五〇〇〇、伊達と合わせても、此方の半分以下でございます」


「よし。阿武隈川を一気に越え、まずは南下し、次に西進する。目指すは伊達の本拠である米沢城だ。孫四郎(※小野寺輝道のこと)、最上が動きそうになったら遠慮はいらぬ。天童、山形城を攻めよ」


「御意」


「相馬と田村に使者を出せ。いま降るならば、これまでのことは水に流し、新田の重臣として厚遇する。敵対するならば容赦はせぬとな」


 たとえ降さなくても、相馬と田村が動かなければそれで良いと考えていた。特に田村氏二四代当主の隆顕たかあきは、判断力に優れた武将である。指揮官不足の新田家にとっては、ぜひとも欲しい人材であった。


「殿、伊達と最上ですが、もし降ると申し出てきたら如何致しましょう?」


 武田甚三郎守信が確認する。降伏を認めるか、それとも滅ぼすか。これによって戦い方も変わってくるためだ。又二郎は数瞬考えて頷いた。


「所領を差し出し、新田に禄で仕えることを受け入れるのならば、降伏も認めよう。伊達も最上も、奥州では名の通った家柄だ。奥州探題と羽州探題が降るということは、幕府の権威が新田に屈するということだ。関東に出た時に大きな意味を持つだろう」


 中野宗時を通じて、伊達家中には降伏論も出回り始めている。この一年半で、伊達領から随分と人を引き抜いてきた。もはや伊達には、かつての力はもう残っていなかった。


「先鋒は九戸政実、実親。第二陣は柏山明吉、三田重明、第三陣は俺が入る。軍師は南条広継、武田守信、八柏道為の三名、沼田祐光は盾岡城にて孫四郎を支えよ。そして酒田には長門藤六、蠣崎宮内を置く。一昨年のようなことがないよう、南庄内から目を離すな。それと佐渡にも、上杉の動きを見張るよう指示を出す。万一にも上杉が佐渡を目指した場合は、酒田の軍を援軍として向かわせよ」


 永禄七年文月(旧暦七月)上旬、新田家は内政期を終えて拡大へと動き始めた。三万八〇〇〇の軍が千代城を進発したのは、それから一八日後のことであった。

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