第139話 永禄四年の始まり
夜半、桜はふと目を開いた。ボウッとした頭で隣を見ると、自分を抱いた男が眠っている。その向こう側には、幸せそうな顔でもう一人の正室、深雪が寝ていた。
(私も先ほどまで、あのような顔をしていたのかしら……)
夫の顔を見ると、自分と同い年の普通の青年にしか見えない。もうすぐ齢一五になる。だが食べ物が違うためか、この数年で背は伸び、身体も女性らしくなった。その自分を夫は夢中になって貪った。満足して気持ちよく眠っている顔を見ていると、悪戯してやろうかと思う。
(こうして寝ている顔は、むしろ可愛らしいのに……)
時折浮かべる凄まじい悪相。だが家臣たちは、それが頼もしいという。以前、石川左衛門尉高信から聞いたことがある。自分の父である南部馬之助晴政も、ここぞという時に、野獣のような猛々しい笑みを浮かべていたと。家臣たちは畏れ、そして頼もしく思ったそうだ。
父のもと南部家は一つに纏まり、そして宇曽利の怪物と戦い、敗れた。だが旧南部家中の誰も、恨みを抱いていない。むしろ当然の如く従ったという。なぜなら誰もが内心で、嫡男のいない主君の後を継げるのは、宇曽利の怪物しかいないと思っていたからだ。
『いにしへの 兵ひとり問ひかけん 新たくなる世の 果ては何処か』
父が残した辞世の句を知った時に、桜はなぜか涙が零れた。父と夫は、単純に領地を争っていたのではない。もっと大きなもの。「次の時代」を賭けて激突したのだ。自分の手で新たな世を創り上げるなど、ほとんど狂人の戯言に思える。だが父と目の前の男は確かに、次の時代を見据えていた。
これから一体、どれだけの命を奪い、どれだけの憎悪を背負うのだろうか。父が最後まで争った男の征く道。その果てを見届けたい。だから自分は、この男の妻になることを承知したのだ。
「……天下を獲って下さいまし。さもなければ私が、貴方様を殺します」
夫である又二郎の隣に寄り添い、桜は目を閉じた。
「父上、本日はお願いの儀があります」
「どうしたのだ? 畏まって」
田名部吉右衛門政嘉は、書類から顔を上げた。田名部家長男の田名部彦左衛門政孝は齢二一になるが、既に一人前の文官となっている。幼い頃から算術と読み書きを手ほどきし、更には金崎屋に預けて三年間、商いまで経験させた。船の上で過ごしたためか日焼けし、自分にはない逞しさまで持っている。
その長男から、改まっての申し出である。一体、何事かと思った。
「金崎屋殿の船に戻していただきたいのです。某、九州に行ってみとうございます」
「九州だと? 一体、なぜ?」
九州という言葉自体は、鎌倉時代から存在する。室町幕府には「九州探題」という役職まである。日ノ本の西、豊前や豊後といった国々があることは、吉右衛門も知っていた。だがなぜ、この頼もしい後継ぎが九州行きを望むのか。
「理由は三つあります。一つは、殿の天下統一において最後の決戦は九州で行われるでしょう。つまり九州は、新田領においてもっとも開発が遅れることになります。そのため、今のうちに見ておきたいというのが一つ目の理由です」
「些か、気が早いと思うがな。京の都を押さえた後でも良いのではないか? で、二つ目は?」
最初の一つ目は、ただの言い訳にしか聞こえなかった。だが自分なりに、新田が目指す天下統一の姿を思い描いていることは、悪いことではない。取り敢えずは聞こうと、吉右衛門は話を促した。
「二つ目は、博多との商いが出来ないかと考えたからです。金崎屋殿は敦賀までは交易路がありますが、その先はありませぬ。博多にも有力な商人がいると聞きます。彼らを陸奥まで引っ張ってこれないかと考えています」
「ふむ…… 悪くはないな」
金崎屋善衛門は優れた商人であり、信用もできる。だが商いとは競い合いなのだ。今は良いが、新田が関東、東海、畿内まで領したとき、御用商人が金崎屋だけと言うのは危険である。幾つもの商人を使い分け、互いに切磋琢磨しながら日ノ本全体の商いを栄えさせる。そのためにも、今の内から信のおける商人を探しておくというのは、悪い考えではなかった。
「最後の三つ目ですが、九州には南蛮商人というものがいるそうです」
話を聞きながら吉右衛門は、主君に相談しなければと心に決めた。
「ハッハッハッ! それは良い! いい後継ぎを持ったな、吉右衛門。許す。銭衛門の船に乗って、九州まで行ってこい!」
話を聞いた又二郎は、膝を叩いて大笑いした。そして内心で思った。人は経験がから学ぶ。若いうちに他国を見せ、広い視野で物事を考える力を養えば、天下統一後に大いに役立つ。今後も文官武官に「遊学」をさせようと。
「南蛮商人を連れて来るのは良い。だが宣教師は不要だ。日ノ本は、帝の権威のもとに統治される。天照大神こそ日ノ本の主神。異国の神など邪魔なだけだ。南蛮商人に会ったら伝えよ。新田が欲するのは、知識と技術と物品のみ。思想や宗教はいらぬとな」
現代においても、先進七か国においてキリスト教がそれほど浸透していないのは、日本だけである。日本人には世界有数の民族宗教「神道」があるからだ。一神論で、善と悪というゾロアスター教的二項対立で物事を考えるキリスト教は、日本人には馴染まない。なにより、又二郎は「白人」が嫌いであった。
(人類の歴史上、もっとも多くの国を侵略し、もっとも多くの生物を絶滅させ、もっとも多くの不幸を生み出したのが白人ではないか。それが二一世紀では何の責任も取らずに、自由だの人権だのとほざいている。それも、自分たち白人が認める範囲でという前提条件でな。だからあの「自称自由な国」では、二一世紀においても有色人種が入れないスポーツジムやゴルフクラブが、普通に存在していた)
「この日ノ本は、日ノ本の民のものだ。異国の者が入り込む余地などない。新田領での滞在は認める。商いも認めよう。だが布教は断じて認めん。それだけ押さえておけ」
いつの間にか怖い顔になっていた又二郎に、田名部彦左衛門は背中から汗を流して平伏した。
年が明け、永禄四年となる。冬の合間は、炭団や煉瓦造りが盛んに行われる。それ以外にも雪かきを兼ねた整地や新たな砦づくりなど、仕事は幾らでもある。賦役ではなく仕事である。きちんと給金が出るし、賄いもある。昼は仕事、夜は寺で勉学、そして頭も体も疲れたところで、美味い飯を食べて寝る。領民一人ひとりが、自分は確かに生きているという実感を持って暮らす。
「大崎や留守、黒川あたりからの人の流入が多くなっております。移動しやすい平地に住んでいたため、新田の話を聞いてすぐに動いたのでしょう」
「クックックッ…… 黙っていても他国から人が集まる。新田に敵対する者はどんどん弱り、やがて戦をせざるを得ない状況に追いつめられる。新田包囲網も、あと一年が限界だな」
大評定で祝ったため、新年会は高水寺城内の者だけで行う。新田領が広がったため、この真冬に人を集めることが難しくなったからだ。だがそれでも、新年会の話を聞いて旧葛西家領からは人が集まり、賑やかな宴となった。
「どれ、興も乗ってきたところだし、一曲唄うか」
「おぉっ! 殿の歌を聞くのは久々ですな!」
又二郎は田名部館の蔵に眠っていた「平家琵琶」を取り出した。現在の三味線の原型である。ベンベベベンッと弦を鳴らし、謳い始める。現在の津軽住民なら一度は聞いたことのある有名な曲を、替え歌にしたものだ。初めて聞く者は、最初は呆気にとられ、やがて笑い、囃し始めた。
「殿、祇園に山はありませぬぞ」
「いやいや、御所で
天下統一を冗談交じりに唄った替え歌だが、これが意外なほどにウケたため、興が乗った時には唄うようにしている。笑いは心の垣根を低くする。皆が一つの歌で笑う。これだけで仲間意識が芽生える。宴会芸というものが存在する理由だ。
「御前様、段蔵殿が……」
皆が盛り上がっている中、笑っていた桜がそっと耳打ちした。又二郎は厠に行くフリをしながら、加藤段蔵が待つ部屋へと向かった。
「殿、宴の中で申し訳ありませぬ」
「構わぬ。何があった?」
酒は入っているが、頭は冷たい。又二郎は永禄四年の出来事を思い出そうとしていた。だが思い出す前に、加藤段蔵から情報が告げられる。
「越後で動きがありました。長尾景虎殿、関東管領上杉兵部少輔様を擁して、北条討伐に兵をあげましてございます。その兵力、およそ一〇万」
「長尾が動いたか。佐竹右京太夫(※佐竹義昭のこと)も動いたな?」
「それが、佐竹は北条には向かわず、その場に留まっております。どうやら相馬や伊達と呼応する様子」
「……なんだと?」
それは、陸奥の国から始まった歴史の変化が、ついに又二郎の知識を越えた瞬間であった。
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