担当アイドルは、俺の傷心につけこもうとしている。

渡路

浮気の定義

 浮気をどこから浮気とするのかは、人によって変わってくると思う。

 例えば、二人きりで食事に行ったらダメだという人もいるだろうし、手を繋いだらアウトだという人もいるだろう。


 ラインやDMなんかでのやり取りだけでも許せない人はいるだろうし、サシ飲みくらいならどうってことないという人も、もちろんいるはずだ。

 強引に大別することはできるだろうが、まあ、概ね人によって細かく定義が変わる言葉であり、それぞれのラインというものが、誰にだって存在する概念だ。


 その中でも、俺は取り分け寛大(寛大という言葉が、果たして適切であるのかは、悩ましいところではあるが)な方であるという自負があった。

 基本的には誰と会うにしても、許可を求める必要なんて無いと思っているし、仮に異性がいる中に遊びに行きたいと言っても、まあ、結果的に許すと思う。


 スキンシップが激しいのは流石にどうかとは思うが、余程のことでもない限り、目くじらは立てない方だ。

 けれどもそれは、別に恋人に対する執着や、独占欲といったものがないという訳ではなく、極々シンプルに、信頼しているからこそ縛らないというスタンスである、ということをわかってほしい。


 友人や家族なんかもそうだが、結局のところ、対人関係というのは信頼によって成り立つものである。

 であるのならば、恋人という、夫婦ともまた違う、形はあっても明確なルールのない関係にこそ、信頼が最も必要だと思うからだ。


 だからこそ、ある程度のことは許容するつもりでいたし、実際、彼女に大切な話があると呼び出された日にも、特段不穏な疑いを持ってはいなかったし、仮にそういった類のものだとしても、笑って許すつもりでいた──のだが。


「ごめんね、あーくん。私、他の人と寝ちゃった。でも許してくれるよね? だってあーくんは、世界一優しい人だもん、ね!」






「流石にそれはライン超えに決まってんだろ! 馬鹿かおめーーはよぉーーー!」

「あー、はいはい、よしよし。気持ちは分かったから、そろそろお酒はやめようね~」

「い、いやだ……今の俺にはもう、お酒ちゃんしか信用できる相手はいないんだ……!」

あおくん、普段全然飲まないくせに、何言ってるの……」


 ほら、こっちにしよ? と、同僚の斑雪はだれれんかが、水の注がれたグラスを寄こしてくる。

 俺はしばらく睨みつけることで抵抗を試みたが、これ以上のアルコールは本当に許されなさそうだったので、仕方なくそれを一杯あおった。


「ま、流石に今回ばっかりは、キミが不憫というか、彼女ちゃんがモンスター過ぎるけど……。何年付き合ってたんだっけ?」

「……二年」

「見る目がなさすぎたねぇ」

「うるさいぞ」


 慰めの言葉の一つくらい、寄越してくれも良いじゃん……とは思うが、本当にその通りでしかないので、反論の余地は一欠けらもなかった。

 見る目はある方だと自負していたのだが……。


 残念ながら、特にそんなことはなかったらしい。

 信頼が云々などと語る俺は、さぞ滑稽に映ったことだろう。やばいな、普通に泣けてきた。


「ニンゲン、ヤハリ、シンヨウニ、アタイシナイ……」

「地球人に裏切られた悲しい異星人みたいになってる……」


 みたいというか、ほとんどそんな感じだった。

 フラれたというか、裏切られたショックで茫然自失となり、三日ほど眠れず、事務所で楽な死に方を検索していた(同棲していたので、家にいるのは苦痛だった)ところを、斑雪はだれに見つかり、半ば強引に自宅に連れ込まれた形になるので、今の俺は、見た目も結構どうしようもない感じだった。


 髭も剃ってないし、髪も整えていない。

 辛うじて、烏の水浴びに近いシャワーを浴びていた程度の清潔力である。


 不本意ながらも異星人というか、野山から降りてきた妖怪っぽくはあるかもしれなかった。

 ……冷静に考えて、良くもまあこんな俺を、自室に連れ込もうと思ったよな。


 いや、もちろん先に風呂に叩き込まれはしたのだが。

 それはそれとして、うら若き女性が、幾ら同僚とは言え、同世代の異性を家にあげるのはどうかと思わなくもなかった。


「ていうか、勘違いしてるよ。蒼くん」

「勘違い?」


 何だろう。付き合っていると思っていたのは俺だけで、実は特にそんなことはなかったんだよ。みたいな衝撃事実が暴露されてしまうのだろうか。

 仮にそうだとしたら、意識を保てる自信が無かった。


「見る目が無いって言ったのは、キミの方じゃなくって、彼女さんの方ね」

「……? いや、冷静に考えたら、今こうして、こんなにも情けないザマを晒してる俺を振ったのは、ある意味正解だと思うけど……?」

「自己肯定感がどん底まで落ち切ってる!? そんなことない、そんなことないからね!?」


 んもーっ! 落ち込みすぎて変な方向いってるよ!? と俺のほっぺを両手で挟んでくる斑雪はだれだった。

 お陰で斑雪と目がガッチリと合う。


 普段は特に意識してなかったが、こうして改まって向かい合うと、こいつの顔の良さが良く分かる。

 肩ほどまで伸びた白髪に、少し不健康的な白い肌。


 クォーターらしく目が青い、ラフな格好の彼女は、それこそ人によっては一撃で恋に落ちてしまいそうな美人さんだ。

 普通に目の保養だ。眼福眼福。


「キミは意外と、結構良い男だよ」

「何その七十五点みたいな褒め方は……素直に喜べないんだけど」

「蒼くんの場合、百点とか言ったら、それはそれで信用ならないとか言うじゃない……」

「ほう……」


 意外というか、流石の付き合いの長さ(と言っても、二年程度ではあるのだが)と言うべきか、俺のことが良く分かってそうな斑雪はだれだった。

 つまり、露骨に図星だったということである。俺は思わず口を噤んでから、諦めたように息を吐いた。


「ま、赤点じゃなかっただけ良いとするか。さんきゅ、ちょっとは自信回復してきた……気がしないでもないよ」

「曖昧だなあ……」

「便利だからな、曖昧な言葉ってのは」


 流行のヒットソングもそう歌ってるし、そういうものなのだろう。

 実際、大人になってから、曖昧に言葉を濁すことが増えた。


 例えば仕事とか、納期とか締め切りとかな。何なら仕事をなあなあにして無くすことすら可能である。


『○○を△△にして□□にしたいんだよね。できるかな?』

『そうですねぇ、技術的には出来なくもないですが、ちょっと難しいかもですねぇ』

『難しいだけで出来るんだよね? じゃ、よろしく!』

『いや、あの、ちょっ……』


 みたいなね。あれ? 全然有耶無耶に出来てねぇじゃん。

 むしろ仕事増えちゃってますよこれぇ!


「急に無言で目をドロドロさせないでよ、通報したくなるでしょ」

「悪いな、つい社会への憎しみが表出してしまった」

「ついで表出しちゃって良いものなのかなあ、それは……」


 ジト目と共にため息を漏らす斑雪はだれだった。

 呆れたような、哀れむような暖かさを感じなくもない。


「でも蒼くんのそういうところ、わたし好きだよ」

「俺は嫌いだけどな、今更直せる気がしないから、渋々諦めてるだけで」

「ああ言えばこう言って勝手に落ち込むなあ……折角人が好きって言ってるんだから、素直に受け取れば良いのに」

「いや、斑雪はだれの場合、別にそういうんじゃ──」


 ──ないだろ。と、言おうとした。否、言ったのだ。

 言ったつもりだった。喉元から声は出ていて、けれどもちゃんとした音にならなかったのは、れっきとした理由があった。


 押し倒されたのだ。

 誰にと言えば、もちろん斑雪はだれにである。


 サラサラと揺れる白の長髪が、俺の頬を撫でた。


だって言ったら、どうする?」

「いやお前な、冗談だとしても、そういうことを──……?」


 言葉を作り切れなかったのは、手首を抑えられた両腕が、動かせなかったからだった。

 

 一瞬で察する。

 やばい、飲み過ぎた。


 どうにも思っていた以上に、身体には酔いが回っていたらしい。

 自覚すれば何とやら、急激に意識が混濁してきたのを感じる。


 あー、これ明日やばいやつだ。経験からそう割り出す俺を、斑雪はだれの熱っぽい視線が貫く。


「キミは本当に一途さんだから、半ば諦めてたんだけどね。ふふっ、まさかこんなチャンスが回ってくるなんて、わたしの運も捨てたものじゃないなあ」

「ひ、人の不幸を、自分の幸運みたいに言うのは良くないって、俺思うなあ」

「仕方ないでしょ、実際ラッキーなんだから……それに、キミにだって、悪くない話だと思うよ」


 あまり見覚えのない、艶やかさを含んだ笑みを浮かべ、斑雪はだれは囁くように言う。

 一方俺は抵抗を続けるものの、寝転がされているせいか、急激な眠気に這い寄られていた。


「キミはこれからわたしに身体を委ねて、気持ちよくなって、元カノさんのことを忘れられて、そして新しい彼女ができる。ね? 悪くないでしょ?」

「い、いやだー! 恋人になるにしても、もっと段階を踏みたい! 片想いからの両片想いの時間を過ごしたい! あと忘れさせるにはちょっと暴力的すぎるだろ!」

「24にもなってなに高校生みたいなこと言ってるのかなぁ! 女の子にここまで言わせたんだから、覚悟くらい決めた方が良いんじゃない!?」

「男の子にも準備する時間が必要なんだよ……!」

「つべこべ言わない!」

「ぎゃー! 助けてー!」


 思わず叫んでしまったことに、全体力を使い切ってしまったのか、どうしようもなく意識が落ち始める。

 マズい! このまま落ちたらマジで襲われる!


 全力で危機感を抱いたが、どうにも手遅れだったらしい。

 視界が霞んで、意識が閉じていく。


 その中で、ただ妖しく笑う斑雪はだれの姿だけが、目に焼き付いた。




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