四、灯台が照らす村

 これまで、結末部分が残っているもの(「雨の中からやってくる」)と冒頭部分が残っているもの(「幼体」)をアップしてきた。どちらも、焼け残ったページは比較的きれいで、判読可能な文章量も多かった。

 ここからは、おおよそ冒頭部分も結末部分も欠落したものになる。量そのものも、大して多くはない。そして、だからこそ、物語の歪さが増しているようにも思えるのである。




「灯台が照らす村」


ったいない。手の付けられていない夕食は冷めきっていた。

 突然、部屋の中を眩い光が満たした。祥子は悲鳴を上げて後ずさる。

 ――灯台が光ったら、山の方を見てはならない。

 村長の言葉が蘇る。越してきた祥子たちに会うなり、にらみつけるようにして発した言葉。

 もちろん、部屋の窓は障子で目隠しされている。だから、山の方をうっかり見てしまった、などということにはならないはずだ。しかし、並んだ障子紙が一面にオレンジ色に染まっている光景は、どこか危ういものに思えた。

「大げさだな。灯台が光っただけじゃないか」

 光彦が鼻を鳴らす。もはや愛情のかけらも残っていない夫の、尊大でぞんざいな態度にはもう慣れているはずだった。それでもやはり、彼女の胸の辺りはキリリと痛んだ。

 こんな怪しげな村など来たくなかった。こんなところに越さなければならなかったのは、全て夫に原因がある。それなのに、あの人は村長の忠告にも耳を貸さず、他の人間と円滑な近所付き合いをしようという素振りすら見せず、ひたすら感情を逆なでするような真似ばかりしている。あまつさえ、灯台の点灯に驚いてしまった祥子を「大げさだ」となじる。あたかも、彼女が彼の気を引こうとしてそんな行動に及んでいる、とでも決めつけるように。

 ふざけるな、と言い返したかった。しかし祥子にはそれだけの勇気も、覚悟もなかった。また青痣を付けられたらどうする? 越してきたばかりで、外を出歩けなくなりでもしたら? 妙な噂でも立てば、この狭い村では瞬く間に広がっていくだろう。

 灯台はゆっくりと回転しながら、周囲を照らしているようだ。ライトの光が、部屋の端から端へと移動し、どこかへ消えていく。そしてまた現れる。

「村長さんの話、覚えてる?」

 恐る恐る尋ねる。

「山を見るなって話だろう? よくある迷信だ。つくづく頭の悪い村だよ。まさかあんな話を真に受けてるんじゃないだろうな?」

「真に受けているわけではないのだけれど、少し驚いてしまって」

「馬鹿らしい。あーあ、お前はそんなふうに愚鈍だからダメなんだよ」

 愚鈍。

 あからさまな暴言を投げつけて、光彦は風呂場の方へ向かった。祥子は唇を嚙みしめて、俯くしかない。視界を灯台の明かりが行ったり来たりしている。目尻が熱いが、自分が泣きそうなのかどうかもよく分からない。

 食べられていない夕食が――慣れない魚屋と八百屋で調達した、少しばかり豪華な食事が――少しずつ乾いていく。

 魚の命が、あの人のせいで丸ごと無駄になってしまう。手塩にかけて育てられたであろう野菜が、あの人のせいで一口も食べられることなく捨てられる。

 全てあの人のせいだ。

 頭の中で、そんな言葉の奔流が湧き起こる。よくない、落ち着け、そう自分に言い聞かせながら、顔を上げて深呼吸をする。三秒吸って、二秒止めて、五秒吐く。カウンセラーに教わったとおりに。

 そのとき、自分の呼吸音に紛れて何かが聞こえた気がした。

 砂利道を歩くような音。ざり、ざり、ざり。

 光彦が風呂場で何かしているのだろうか。しかし、風呂場の方からは、光彦の小さな鼻歌と水の跳ねる音しか聞こえない。

 屋根裏や床下に、何か小動物が潜んでいるのだろうか。もしかしたら、家の柱を齧ってでもいるのかもしれない。

 ざり、ざり、ざり。

 今度はもっと近くで聞こえた。窓のすぐ外だ。断じて屋根裏でも、床下でもない。誰かが窓一枚を隔てた向こうを歩いている。

 灯台の明かりが再び通り過ぎた。窓の外にいる何かの影が、くっきりと浮かび上がる。

 祥子は息を呑んだ。

 それは、見たこともない輪郭をしていた。何と言えばいいのか分からない。

 人間よりも、一回り大きかった。胴体と思しき部分は、軟体動物のように滑らかすぎる曲線を描いている。そして、やたらと長い首の先に、くるくると丸まった頭部のようなものがくっついている。植物のわらびやこごみに似ていた。

 その影はすぐに消えてしまった。灯台の光が消え去ったのだ。ざり、ざり、という音も、少しずつ遠ざかっていく。

 ――山には「もりがみ」さんがおってな。

 村長の言葉が蘇る。

 ――たまぁに、山から下りてきて、わしらのことを見守ってくださる。

 あれが、「もりがみ」なのだろうか? 漢字で書くと「守り神」だろうか?

 祥子は軽く頭を振って、その馬鹿馬鹿しい思考を振り払う。あれは、何かを運んでいる人間だろう。たまたま、荷物と人間の輪郭が重なって、あのように見えただけだ。

 祥子の本能は、その理性的な考えを否定している。たとえ荷物を抱えていたとしても、人間のサイズではなかった。くるくると丸まった頭部が不気味に蠢いていた気がする――それは人間に再現できる類のものではない。

 唐突に、電話の音が鳴り響いた。祥子は身を震わせる。都会の大人しいベルに慣れた人間に、黒電話の甲高い呼び声は刺激が強い。

 早鐘のように打つ心臓を抱えながら、受話器を取る。

「はい、小早川ですが」

「あ、どうも、覚えていらっしゃいますか? 碇です。ほら、昼間、村役場で会った……」

 たどたどしい、けれど誠実そうな口調。村役場のあの好青年に他ならなかった。

 救われた気分になる。

「覚えています。何か御用ですか?」

「いや、用と言うほどでもないんですが――その、変なことを聞きますが、先ほど、変な物を見たり、音を聞いたりしませんでしたか?」

 どきり、とした。しかしそれは不快感からではなかった。この人は何か知っている。

 人は知らないものを恐れるものだ。それが何か分かれば、冷静に対処できるはずなのだ。碇は、少なくともその一助になるような情報をもっているに違いない。

「――はい」

「見ましたか? 音だけですか?」

「音だけです。あの、明かりに照らされて、影は見えてしまったんですけど」

 受話器の向こうから、深いため息が聞こえてきた。祥子は不安になる。何か、まずいことでもあっただろうか。

 しかし予想に反して、碇の反応は柔らかいものだった。

「よかったぁ。音と影だけなら大丈夫です。安心してください」

 先ほどのため息は、どうやら安堵によるものだったらしい。

 こちらを気遣ってくれるのは嬉しいし、悪い事態にはなっていなさそうだということも分かった。しかし、祥子はどうしても聞いておきたいことがあった。

「あの、あれは何なんですか?」

「……」

 碇は束の間口をつぐんだ。

「――僕の口からは」

「そこを何とか。怖いんです。あれは、頻繁に現れるものなんですか? なぜ見てはならないんですか? 灯台が光ったら山を見てはいけないという決まりに関係あるんですか? あれは『もりがみ』なんですか?」

「何だって?」

 祥子の「もりがみ」という言葉を聞いた碇は気色ばんだ。

「あれが『もりがみ』だと? 冗談を言っちゃあいけない。あれは悪いもんです。守り神なんかじゃない」

 そこまで言った後、我に返ったのか、

「すみません、小早川さんに言っても仕方ないことですね。声を張ってしまって申し訳ないです。『もりがみ』のことは誰から聞いたんですか?」

「村長さんから……」

 碇が、「村長? どうしてだ?」と小さく呟くのが聞こえた。

「他に、何か言っていましたか? 『もりがみ』について」

「いつもは山にいて、たまに山から下りてきて村の人たちを見守っていると」

 沈黙。

 碇は、今の話を何かに書き留めているようだ。ペンがせわしく走る音を、祥子の耳がつぶさに拾う。

「小早川さん、すみません。明日、もう一度役場までいらしていただけますか?」

「役場ですか? 構いませんが……」

「少し厄介な事態になっているかもしれません。僕の方で調べを進めてみます。明日の昼前にいらしていただければ、食事でも一緒に取りながら詳しいことをお話しできるかと」

 願ってもない相談だ。一も二もなく、祥子は了承した。時間と場所についてもう少し具体的な約束を交わし、電話が切れる。

 がらり、と風呂場の戸が開いた。

 半裸の光彦が顔を出す。

「誰と話してたんだ?」

 機嫌が悪い。それがすぐ分かる声音だった。

「役所の方よ」

「こんな夜にか? 何の用だ」

「引っ越しの手続きについて確認したいことがあるんですって」

「はあ? 手続きは今日済ませたろ。俺は明日、予定があるんだ」

「私が行ってくるからいいわよ。そんなに大変なことでもないみたい」

 すらすらと嘘をつく。光彦と毎日のようにやり合ううち、祥子自身したたかになっているのかもしれなかった。

 光彦の目が暗く光る。

「本当に役場からの電話か?」

「本当よ」

「嘘だ。男だろう? お前、裏切ったらただじゃおかないからな」

 苦々しい気分になる。光彦の、病的とも言っていい妄想だ。こうなると、一晩はずっと祥子のことをなじり続ける。

「どこの男だ、ぶっ殺してやる」

 そう声を荒げる光彦に、祥子は「やめて、お願い。夜なんだから」と懇願する。一度このスイッチが入ってしまうと、光彦は止まらない。彼女を困らせることが第一目的となり、彼女がオロオロして泣き始めるまで――そしてその様子を眺めて満足するまで――挑発的な態度を取り続けるのだ。

 だから祥子は、彼の望む態度を取る。長期的に見れば、彼の傍若無人を助長しているのだろう。しかし、重要なのは、今この場を切り抜けることだった。

 明日になれば、先ほど見た奇妙な物が何だったのか分かる。明日になれば、この村に抱く違和感の理由が分かる。明日になれば、碇と会うことができる。

 祥子は胸の内で、そんな希望にすがった。


 しかし、そんな僥倖はとうとう訪れなかった。翌朝すぐに、碇の遺体が発見されたからだ。


 役場の裏手は小さな神社になっていて、古びた鳥居が構えられている。

 碇は、その鳥居に

(以下、判読不能)

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