二、雨の中からやってくる

 これは、焼けた本の中でも、比較的きれいな形で残っていたものだ。とは言え、文章を読み取れるのは最後の十数ページのみ。冒頭から中盤にかけては全て失われてしまった。

 なお、タイトルは煤けてしまっていたが、わずかな文字片から推測した。本の背表紙だけは幼い頃から繰り返し見ていたので、私の記憶にも残っていたのである。




「雨の中からやってくる」


鳴が遠くから、じわじわと近づいている。

「じきに、ここにもまた雨が来る」

 山口が言う。額のバンダナにはわずかに血がにじんでいる。

 沈黙が下りる。狭い理科室に、かれこれ三時間こもっているのだ。その場にいる全員に疲労が色濃く見える。

 京谷が青い顔で「山口さん」と呼びかける。

「次の雨も、ここでやり過ごせるでしょうか?」

「何が来るかによる。『火を吐くイカ』や『白いムカデ』なら大丈夫だ、うっかり踏みつぶされたりしない限りはな。ただし、『産卵グモ』なら問題だ」

「そうか、そうですね」

 山口の脳裏をよぎるのは、昨夜の光景だ。床下から侵入され、無惨に食い散らかされた仲間たち。

 臆病に目を左右へ走らせながら、黄瀬が言う。

「それなら、早めに上階へ上がっておいた方がいいんじゃあないか」

 至極もっともだ。しかし、その案には重大な問題が二つあった。山口は、「だめだ」と首を振る。

「下手に二階、三階へ上がったところにイカが来てみろ。もし目が合えば、ここにいる三人とも一瞬のうちに燃やされて終わりだ。それに――」

 山口は京谷を指さす。黄瀬も、言う前から分かっていたはずだ。

 京谷の失われた左膝からは、閉め切らなかった蛇口のように血がこぼれ続けている。きつく縛ったはずの包帯は頼りなくたわんでいた。

「下手に動かすと、また大出血する。そうなれば、もう助けられない」

 京谷がゆっくりと首を振った。血が足りていないのだ、顔の青白さは刻々と増している。

「僕はもういいんです。これ以上、皆さんの足を引っ張りたくない」

 黄瀬が小刻みに頷くのを見て、山口は吐き気を覚えた。こいつはさっさと京谷を切り捨てたいのだ。

 山口は改めて首を振る。

「だめだ。誰かを見捨てるような真似はしない」

 その言葉に、黄瀬は何か言いたげな目線を向ける。山口が正面から彼を睨みつけると、途端におどおどとした表情に変わった。

「上階へ行きたいなら好きにするといい。俺はここに京谷と残るが、お前にまでそれを強制しようとは思わない」

「な、何言ってんだよぉ。俺も残るよぉ」

 山口は、ふんと鼻を鳴らす。結局、黄瀬は誰よりも我が身がかわいいにも関わらず、一人では何もできないのだ。

「朝に雲の流れを見ただけの当てずっぽうだが、次の雨さえやり過ごせば、そのまた次が来るまで少しだけ猶予がありそうだ。その間にこの学校を出て、車でも確保できれば助かる公算が大きい」

「本当か?」

 黄瀬が目を輝かせる。単純な奴だ。しかし、山口も決してやみくもにそんなことを言ったわけではなかった。世界が変貌して数か月、雲を読むことにもいい加減慣れてきた。

「だから、もうしばらくここで様子を見よう。次さえしのげば大丈夫だ」

 それは黄瀬をたしなめるための言葉であり、京谷を励ますための言葉でもあった。何より、山口が自分自身に言い聞かせる祈りだった。

 京谷が目を閉じたまま、「望月さん……」とうわ言のようにこぼした。

 山口と黄瀬は、同時に、教卓の上に置かれたショルダーバッグに目を向ける。

「望月のやつが、俺たちの最後の希望だった」

 悲観的なことを言うまいと思っていたが、それでも、山口はそう口にしていた。

 黄瀬が「こんなふうになっちまって」と首を振る。

 ショルダーバッグは、波打つように蠢いていた。その側面には、赤黒い染みが広がっている。

「こんな状態から、望月は復活できるんだろうか」

 黄瀬がつぶやく。

 これまで何度も交わされてきた疑問だ。

「できるにしても、時間が掛かるだろう。肉体のほとんどを失っているし、一時的とはいえ『白いムカデ』と結合させられていたんだ」

「俺はもう、あの中身を直視する勇気がないよぉ」

 黄瀬が泣き顔を作る。

 なんにせよ、やつらに対抗するためには望月の力が必要不可欠だった。

 次の雨が過ぎ去ったところで、自力で歩けない京谷を山口が、望月の入ったバッグを黄瀬が担いで車なりトラックなりを確保する。そうして、どこか安全な場所で――そんな場所があるのかどうかも分からないが――望月の回復を待つ。

 それ以外に、人類に道はないのだ。

 不意に、たたきつけるような雨音が響き始めた。

 黄瀬が絶望のため息を漏らす。

「ついに来たぁ……」

「しっ」

 壁に背中を押しつけて息を殺す。そして、カーテンの隙間に目を凝らした。

『白いムカデ』の巨大な多脚も、『産卵クモ』のぶよぶよした産卵管も見えなかった。代わりに、上空の方にちらりと、白い触手のようなものが見えた。

「しめたぞ。来たのはイカらしい。このままやり過ごそう」

 ほとんど声を出さずにそう囁く。京谷は目を閉じたまま頷いてみせた。黄瀬は相変わらず不審な挙動で、カーテンの外を見つめている。

 再び、沈黙。

 壁や窓を打つ雨音と、時折ショルダーバッグの中身が動くごそごそという音以外は何も聞こえない。

 山口は息をひそめてじっと耐えた。自分の鼓動が、鼓膜の奥でいやに大きく聞こえる。

「ねえねえ、山口さん?」

 突然、黄瀬が声を上げた。

 山口は、信じられないという思いでそちらに目を向ける。黄瀬はカーテンの向こうを見つめたままだ。

 イカに声を聞きつけられてはかなわない。制止しようと慌てて囁く。

「おい黄瀬、どういうつもり――」

「山口さんが最初に出会った化け物は何でしたっけ?」

 構わず、黄瀬は通常の声量で尋ねてくる。おかしい、と思った。

 あれだけ怯えていたのに、状況判断が急にできなくなるとは考えにくい。それに、最初に出会った化け物のことなど、旅を共にする中で幾度も話してきたはずなのだ。

 ――とうとう壊れたか?

 過剰なストレス、常につきまとう恐怖に耐えかねて、精神を保てなくなった仲間などいくらでも見てきた。裸で雪の中に飛び出し、帰ってこなかった者もいる。マジックショーをすると言って、自分の眼球をくり抜いてみせた者もいた。

「僕はあれですよ、『白いムカデ』。アルバイトの帰りに――って、これは前にも話しましたかね?」

「声を落としてくれないか、頼む」

「山口さんは『火を吐くイカ』でしたね。仕事先で襲われたんでしたっけ? それで、児童館に行っていたはずの奥さんと息子さんが見つからなくて、今でも探して――」

 黄瀬の口は止まらない。一息にまくし立てているせいか、妙にがらがらした声音だ。二人の人間と同時にしゃべっているような。

「おい」

 黄瀬の言葉を止めるため、加えて黄瀬の状態を確認するために、山口は彼の肩へ手を置いた。

 黄瀬は、ゆっくり振り向いた。

 山口は、一瞬、自分の目が迷っているのかと思った。しかし、そうではなかった。

 黄瀬の顔には、口が二つあった。

 口の隣、左頬に当たる位置に、二つ目の口がぽかりと開いている。唇はなかったが、厚ぼったい歯茎があり、そこに乱杭歯が並んでいるのも見て取れた。

「ヤマグチサン」

 それは、二重の声で言った。

「お前、もしかして毒液を浴びたのか?」

 山口の背中を、冷たい汗が流れ落ちる。おそらく、昨夜あるいは今朝の騒動の最中に、黄瀬は毒液を浴びていたのだろう。今回の雨で彼の偽細胞が活性化し、変異が始まったのだ。

 一刻の猶予もない。

 山口は京谷を無理矢理起こして背負った。京谷を支えていない方の手で、ショルダーバッグを掴む。

「おっおっオオッ」

 二つの口をもつ黄瀬は、大きくのけ反った。身体が歪みすぎたのか、着ていたシャツが裂ける。彼のみぞおちには、三つ目の巨大な口ができていた。昆虫のような口吻が備わっている。

 山口は理科室の扉を蹴り開け、廊下に飛び出した。

 外にいる『火を吐くイカ』には、今の音でこちらの存在に感づかれただろう。だが、それよりも黄瀬から離れるのが先決だ。今はまだ変異途中だから追ってこないが、ひとたび変異が完了してしまえば容易く山口たちを捕食するに違いない。

 階段を三段飛ばしで駆け上がる。心臓がはちきれそうだ。額の傷跡がじんじんと脈打っている。ショルダーバッグが壁や手すりにぶつかるたびにうめき声が上がる。望月には悪いが構っていられない。

 二階を過ぎ、三階にたどり着いた。これより上階は屋上だったはずだ。そちらへ向かうか、それとも三階の教室へ身を潜めるか、わずかに逡巡する。

「ヤマグチサァァァァ」

 すぐ後ろから声が聞こえた。まずい、と思ったときには足を掴まれていた。

 想像以上に黄瀬の変異には時間が掛からなかったようだ。見ると、コオロギのような化け物が触角を伸ばして山口の足を捉えている。コオロギの上部には黄瀬の上半身がぶらりとぶら下がっていて、相変わらずそれは二つの口でこちらの名前を呼び続けていた。

 山口は舌打ちする。相性も最悪だ。昆虫系に変異した者は上下の移動に強い。今の黄瀬であれば一跳びで上下階を行き来できるはずだ。

「てめえ、離せ」

「ヤマグチサァン」

 足を無茶苦茶に振り回すが、触角はさらに強く締め上げてくる。やつらの偽細胞が極めて頑強なのは嫌というほど知っている。火炎放射器でも使わない限り、物理的に切断することは不可能だ。

 ここにナタでもあれば、自分の足を切り落とせるのに――そんなどうしようもない考えが、山口の脳裏を去来した。

 ふと、窓の外からこちらを覗き込むモノがある。

 真っ黒な眼孔。触れたら死ぬまで離れられないと言われる白い粘液。大小長短さまざまな触手が歪に絡み合った胴体。

 ――イカに見つかった。

 それ以上、何かを思考する隙はなかった。目の前にある窓ガラスが割れ、周辺の壁もろとも、辺りが炎に包まれた。ガラス片が山口の左目に突き刺さった。

 山口は腹の底から叫んだ。それは左目の痛みが理由ではなかった。彼の左足もまた炎に包まれているのだ。熱さとは全く次元の異なる激痛がそこを襲っている。硫酸でもかけられたような、焼け付く痛み。彼は自分の肉が急速に溶けていくのを感じた。

 炎の向こうでは、黄瀬がもんどりうっている。人間の二つの口が、まだらな悲鳴を上げている。そこに、昆虫じみた叫び声も加わった。黄瀬の腹部――コオロギの頭部にある口もまた、甲高い絶叫を放っているのだ。

 黄瀬は体表のあらゆる箇所から触角を伸ばし、やみくもに振り回している。人間の腸にも見えるそれらが、山口の鼻先をかすめた。黄瀬は炎を退けようとしているのだろうが、かえって炎を全身にまとう結果になっている。

 山口は、自分がショルダーバッグを取り落としていることに気付いた。慌てて見回すと、それは廊下の中央に――すでに炎の燃え広がった中に転がっている。ショルダーバッグの中身はじたばたともがいているようだ。そして微かに、赤子のような声が聞こえてくる。

 いずれにしても、もう拾い上げることは不可能だ。それに、こんな惨劇のど真ん中でいつまでもまごついているわけにもいかない。いつイカが次なる炎を放ってもおかしくないのだ。

 山口は左足を引きずりながら、廊下を引き返す。背中の京谷が重い。全体重を山口に預けているのだ。もしかしたら、意識を失っているのかもしれない。左足首が悲鳴を上げている。ちらりと見下げると、肉が溶け、骨の一部が剥き出しになっているのが見えた。

 歯を食いしばって階段を上る。階下に逃げられれば楽だが、じきに黄瀬の死骸から昆虫体の幼生が無数に産み出されるだろう。そうなれば、階下は一瞬にしてやつらの巣と化す。

 屋上に続く扉の鍵は開いていた。山口は扉の前でじっと息を潜める。今屋上に出ても、イカと鉢合わせするだけだ。雨音に耳を澄ませる。

 さっきの大騒ぎで意識から外れていたが、降り始めと比べ、雨音は確実に弱まっていた。

 何か巨大なものが、どこかへ移動する音が聞こえる。それは、地鳴りにも似た鈍い振動だった。

 雨が止むのだ。

 山口は扉の外へ躍り出る。薄暗い雲の隙間から、はっきりと太陽が見えた。

 背中の京谷をゆっくりと降ろし、その横に自分も転がる。枯葉の折れるような音がした。見ると、左足首から先がもげている。イカの炎によって腐食した骨が、いよいよ耐え切れなかったのだ。

「雨が止んだ。京谷、雨が止んだんだ」

 京谷は返事をしない。瞼が薄く開いていて、くすんだ瞳が果てない曇り空を見上げている。

「ああ、雨が止んだ」

 誰にともなく山口は言う。周囲には、イカの姿も先ほどまでの喧噪もない。悲しくなるほどに、雨上がりの静けさが漂っていた。

 山口は膝立ちで移動し、扉の取手に手近にあった竹箒を挿し込む。気休めだが閂代わりだ。

 そのまま、辺りを見回す。

 オフィスビル。鉄塔。雑木林と山。住宅街。人の住処が、灰色に染まって広がっている。

 そして、そんな景色の中に雨柱が六本立っている。あまりにも巨大な、そして局地的な雨雲と豪雨。

 それは、神殿の柱を想起させた。あるいは、天まで届くバベルの塔であろうか。だとしたら、人間は神の怒りに――いや、この場合は邪神の怒りとでも言うべきだろうか――触れたのかもしれない。

 ある雨柱の向こうには、霧を透かすようにして、巨大な多脚体の姿が見える。それは長すぎる脚をてんでばらばらに動かしながら、どこかへ移動しようとしていた。

 ある雨柱の向こうには、ビルを吞み込みながら、産卵管をびくびくと震わせる何かが見える。大きなものが産み出されようとしていた。しかし、それがどういったものなのかは分からない。

 山口は雨柱を飽くことなく見つめながら、屋上の端に腰掛ける。

 雨上がりの日差しが、屋上を包み込もうとしていた。

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