ぬいぐるみ

連喜

第1話

 俺は週末によく公園に出かける。都心に住んでいるから緑が恋しくなる。緑豊かな場所に行くのは、ストレス状態の改善に効果があるらしい。そこが特別緑豊かというわけではないが、街路樹並みのまばらな立ち木と芝生がある場所だった。


 遊歩道に沿っていくつかベンチが並んでいるのだが、それぞれに誰かが腰を下ろして軽食を食べたり、スマホを見たり、ぼんやりしたり、気ままに過ごしている。犬を連れている人も多い。


 俺は少し前から気付いていたのだが、その公園にはぬいぐるみを散歩させている高齢の女性がいた。高齢と言っても認知症になるにはまだ早い感じの世代だった。回りくどいが七十代半ばくらいだろうか。


 小さな子どものように、ぬいぐるみを台車に乗せて、紐で引きずって歩いていた。そして、ベンチに座る時は抱きかかえる。地面を引きずったりしたら、埃だらけになるんじゃないかと思うかもしれないが、俺が通っている公園はアスファルトで舗装されているから、心配無用だ。


 俺はその女性がいる時は、わざと女性の隣のベンチに座るようにしていた。冷やかしの気持ちが大半だった。


 さりげなく横を見ると、女性はずっと笑顔で犬にこそこそと話しかけている。言っては悪いけど、ちょっと不気味なのだが、俺の中の何かがその異様さに惹かれているのは間違いなかった。


 俺が女性をよく知っているのとは対照的に、俺は周囲の背景になっているに違いない。俺は目立たない普通の中年男で、彼女と目が合ったこともない。


 ***


 この週末も俺は散歩に出かけていた。天気のいい昼下がりだったと思うが、また、女性を見つけて隣のベンチに座った。たまに横をチラチラ見るのだが、女性はぬいぐるみにかまけていて俺には気づいていないようだ。特に何か喋っているわけでもなく、笑顔で犬に顔をこすりつけたりしている。


 知的障害があるのかというとそのようにも見えない。服装などがちゃんとしていて、髪形なども年齢相応だ。ばっちり化粧までしている。きれいな人かというと、すでに、そうした美醜の対象になる年齢ではない。俺より二十は年上に見える。


 俺は女性をじろじろ見るわけにもいかないし、スマホを見て株価をチェックしたり、ニュースを読んだりしていた。外にいてもやることは家と同じだ。画面に集中している時は、他の事を忘れている。


「よくお会いしますね」


 俺がはっとして顔を上げると、あの女性が犬を抱いて俺の目の前に立っていた。


「あ、はい…」

「犬がお好きなんですか?」

「はい」

「よろしければ抱いてみます?」上品な口調だった。

「は…はい」


 俺は両手を差し出した。その犬というのはイメージ的には、ワンワン吠えて鳴く幼児用のおもちゃみたいな感じだった。つまりは、とても小さいものだ。抱いた感触も軽くて固いんだろうと思っていた。

 この人とは寝る時も一緒なのだろうし、気持ち悪いのだが、俺は断ることを忘れていた。俺自身に後ろめたいところがあったせいもある。


 しかし、俺が犬を受け取った時に感じたのは、意外なものだった。生暖かくて、ぱっと見のフワフワした印象より、芯の部分はもっと細く感じた。犬種は茶色のトイプードルなのだが、リアル過ぎた。俺は固まっていた。


「なでなですると喜びますから、やってみたら?」  


 女性は俺が犬に慣れていないと勘違いしたのか、アドバイスをくれた。俺は言われた通りに額の部分を撫でた。本物の動物の毛皮のようで随分よくできていた。やがて、俺はそれが超高級なぬいぐるみなのだと気が付いた。そうだ。その辺は高級住宅街だし、住んでいる人がおもちゃ屋で三千円で売っているような物を持っている筈はない。


「すごく人懐っこいんですよ。それに、寂しがり屋」

「はあ」


 俺は落ち着かないので、犬の額を撫で続けた。

 やがて、もう一つ気付いたことがあった。


 犬の額に触った感触は、小さな頭蓋骨のようだった。不思議な凹凸があったのだ。そして歪だった。普通はそんな作り方はしない。


 俺は悲鳴を上げそうになった。それはぬいぐるみではなく、剥製だったのだ。

 この人は死んだ犬を剥製にしたんだ!

 正気の沙汰ではない。


 俺はその女性が、亡くなった犬を生前と同様に世話をしているのだと気が付いた。俺はガタガタと震え出した。


「ちょっと、トイレに行きたいので預かっていただけませんか?」

「あ、はい…」


 俺はまたしても断れなかった。断ったら女の人はどうやってトイレに行けばいいのかわからないからだ。親切心からだろうか。または、犬の死体を膝に乗せられて判断力を失っていたのだろうか。


 俺は身動きが取れなかった。それはただのぬいぐるみではないのだ。思考も固まっていた。希望があるとすれば、女性が少しでも早く戻って来ることだけだった。


 しかし、その人は十五分くらい経っても戻って来なかった。道に迷っているのかもしれない。俺はパニックを起こしていた。


 俺はさらに待った。

 心臓がバクバクと高鳴り、膝ががくがくと震えた。


 いつまでも帰って来ない。

 俺はいい加減気持ちが悪くなって、犬を台車の上に乗せた。

 俺はまだ震えていた。


 そして、その頃には、もう女性が戻って来ないのではないかという気がし始めた。


「私も一人暮らしなの…お世話が難しくなってきたわ。甥っ子が老人ホームに入ったらっていうものだから。そしたら、犬が飼えなくなるでしょ」


 さっきそう話していた。俺はめまいがした。


 俺が女性に話しかけられたのは、恐らく2時頃だったのだが、段々周囲が暗くなって来た。俺はそれでも待っていたが、結局戻って来なかった。俺もトイレにも行きたいし、もうそれ以上は待てないと思った。


 俺は犬をどうするか迷ったが、最終的に犬をベンチに置き去りにした。


 家に連れて帰るのは嫌だった。交番に届けたら頭がおかしいと思われる。

 

 それに、女性が戻って来た時、犬がいなくなっているのが一番困るだろう。女性も判断力がいぶっているだろうし、交番に相談するという発想が湧かないかもしれないじゃないか!これでいいんだと、俺は自分を励ました。


 ***


 俺の自宅は、その公園から十分くらい歩いた場所にあった。俺はその場を離れてからも、犬を膝に乗せて撫でた感覚が忘れられなかった。毛のしっとりした感じが、ありありと掌に残っていた。俺は歩きながら、スーパーに寄ろうと考えていた。確か卵がなかったはずだ。俺は卵かけご飯が好物だった。


 俺は予定通りに、スーパーで卵や割引になっている生鮮食品を購入した。日常生活に戻ると、しばし今日起きた奇妙な出来事を忘れられる気がした。しかし、そんな風に思っている時点で、自分の意識がまだそちらに引っ張られているのだった。


 俺が住宅街の暗がりをスーパーの袋を持って歩いていると、あの犬が今も暗い公園でベンチの上で放置されている様子が浮かんで来た。ちょっと申し訳ない気がした。普通のぬいぐるみでも可哀そうなのに、あれは剥製なのだから、生前の意識を引き継いでいるはずだ。きっと心細く感じていることだろう。しかし、他人の所有物を持ち帰ることなどできないし、俺のところに来ることを犬が望んでいるとは限らない。


 俺の決断は正しかったと、繰り返し自分に言い聞かせた。


 ***


 俺の自宅は一戸建てだ。俺の家の付近はちょっと薄暗い。大の男でも暗がりが怖くなる。最近は日本全体の治安も悪くなっている。


 どのくらい暗いかと言うと、例えば、自宅の前でカギを探す時は、鈴でもついてないとカバンから出せないくらいだ。俺は自宅の鍵を開けた。蚊が入って来ないように、素早く入ってすぐにドアを閉める。


 見慣れた我が家に帰った時、俺はようやくほっとした。

 何とか安全な場所に戻って来られたのだ。


 俺はまず玄関から奥につながっている廊下に、買い物袋を置いた。コロナの後からは外で買った物は全部ウエットティッシュで拭かなくてはいけない。次は片足の靴を脱いで、靴下も一緒に脱ぐことにしている。廊下を雑菌だらけの靴下で歩かないためだ。


 俺が片足を上げるために、ちょっと後ろに足を踏み出した時だ。


 足元でバリっという音がした。うちの玄関に木製の物なんかない。おかしいな。何だろう。俺は慌てて足元を見た。


 すると、俺の足元には台車に乗った犬がちょこんと座っていた。台車が壊れて、犬が俺の足元まで滑り落ちていた。


 よかった!俺が踏んでしまったのは、台車の方だった。

 俺のせいで木枠の一部が破壊されてしまったようだ。


 犬は健気な目をして俺を見上げている。

 俺が情け心を出したから、犬が俺になついてしまったんだ。

 さっきは気が付かなかったが、ピンク色のかわいい舌も出している。


 これから面倒なことになるぞ。俺は思った。


 

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ぬいぐるみ 連喜 @toushikibu

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