マッチ売りのおじさん
1
「マッチいかがですかー?」
乾いた冬の空気がおでこの傷をヒリヒリと痛みつける。音符のバッチのついたカゴを手に、繁華街の隅でマッチを売っていた。今が何月かは分からないが、天気は曇り。雪が降っていないだけマシだ。俺は手に息を吹きかけて、少しでも温める。マッチなんて売れるわけがない。みんな知っている。
「マッチもらえるか?」
「え?」
清潔感のない小太りな男が地味なダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで俺に話しかけてきた。
「一箱何円や?」
「300円です」
「たかっ。まあ、ええか」
男は小銭を3枚渡すと、バスケットからマッチの箱を奪った。そして、そのまま「ちょっと、ええか?」と男がついて来るようにと言った。俺は黙って男に着いて行く。連れて行かれたのは繁華街のビル裏にある小さな空き地だった。俺が男に不信感を抱いていると、それを感じたのか、男は自身をワイと名乗った。
「タバコ吸うか?」
「あ、ああ。ありがとう」
俺はワイからタバコを受け取ると、先ほど売ったマッチで火をつけてもらった。タバコの温かい煙が冷えた体の芯を焦がしていく。寝不足とニコチンのせいでクラクラとする頭で空を見上げた。灰色の雲が俺のことを隠す。天国には俺のことを見たくない人間がいるのだろう。
「で、なんでワイさんは俺をここに連れて来たんですか?」
「仕事の都合や。ある女の子に頼まれてな」
「...そうですか」
いやな予感がした。俺はマッチの入ったバスケットを手にその場を去ろうとする。ワイはそんな俺をどうにか止めようとするわけでもなく、ただ一言だけ鋭利な何かを俺に訴えた。
「逃げるんか。あんたはまた」
お前に何がわかるのだ。俺は踏み止まってワイの方を振り向いた。ワイはマッチに火をつけて、俺に見せる。メラメラと強くも儚くもある小さな炎が灰となって消えていく。俺は目を瞑った。瞑ることしかできなかった。
2
「おい!また売れ残ってんじゃねえか!」
俺は怒りのまま、売れ残ったマッチとバスケットを娘のカノンに投げつけた。小さな賃貸に娘と二人暮らし。黄ばんだ床に項垂れながら、俺は酒を呑んでいた。今どき、マッチなんて誰も買わない。そんなことは俺が1番分かっている。俺は大の字になって床に寝転ぶと、床を這う延長コードに頭をぶつけた。それにまたイライラして、壁を殴る。頭はクラクラするが酔えた感覚はない。どうも冷静に俯瞰して、俺が俺を見ているようだった。情けなく溜まった脂肪と耳から生えた化粧筆のような耳毛はどうしようもないぐらいだらしなく、真っ赤な顔をして天井を眺めていた。
「ごめ、ごめんなさい。あしたはちゃんと売る、から。なぐらないで」
カノンは俺に怯えながら、声を震わせて言った。青い目の中に浮かぶ瞳孔が大きく開く。まるで、天敵を目の前にした小さなラットのようだった。俺は諦めて、寝たふりをした。その方がお互いのためだと思ったのだ。すると、カノンは引き出しに残されたコーンビーフの空き缶に水を入れて、マッチで底を温め始めた。缶詰に張り付いた食べ残しを使ったスープだ。マッチ製造の会社が倒産して、ずっと踏んだり蹴ったりだ。仕事人間な俺にも優しかった妻は大好きだったピアノの仕事を辞めてまで、パートを掛け持ちしてくれた。ただ、それが原因で過労死しちまったのだ。全部俺が悪い。悪いのは分かっていても、動く気にはなれなかった。とりあえず、眠たい。寝てしまおう。もう、起きたくないな。
次に目が覚めると、翌日の晩になっていた。外は暗かったため、数時間しか眠っていないのかと思ったが、カレンダーに記された赤い丸は次の日を指していた。おそらくカノンが書いたのだろう。俺は体を伸ばしてシャワーを浴びた。リビングに戻るもカノンはいない。妙だと思った。この時間はいつも帰っているはずだ。すると、ウチのインターホンが3度鳴った。誰かが連続で押したのだ。俺はドアを開けて外に出ると、頬を殴られた。痛みを持った鉄の味が酷く不味い。誰だ。俺は起き上がって相手の顔を見た。そこにいたのは大学時代の旧友だった。旧友はいきなり俺の胸ぐらを掴み、もう一度俺の頬を殴った。何のことか分からないまま、俺は押し返そうとした。しかし、最近はどうも体が弱ってしまっていて、上手く力が入らない。そのまま押し倒されて動けないでいた。
「おまえ!カノンちゃんになんてことしたんだ!この人殺し!」
「何の話だ!」
身に覚えのない言いがかりをつけられて、俺は反抗した。カノンがなんだと言うのだ。俺がなにをしたと言うのだ。俺はただ生活するために必死だっただけだろう。
「この鬼畜が!カノンちゃんは死んだんだぞ!何の話じゃねえよ!」
カノンが死んだ?俺は起き上がった。自分の体が信じられないぐらい重い。カノンが死んだ。言葉の意味は分かるが、悪い冗談としか思えない。昨日まで元気だったカノンが死ぬわけないだろう。
俺は急いで旧友と共に病院へ向かった。受付に行くと看護師に案内されてエレベーターに入る。上の階に行くのかと思ったが、案内されたのは地下室だった。エレベーターから降りると霊安室と書かれた札が目立つ部屋の前に立たされ、看護師がゆっくりと扉を開けた。ヒンヤリとした空気の中で素朴なベッドが置いてある。そこで誰かが寝ているようだ。いや、誰かではない。カノンだ。ゆっくりと歩き、その顔を覗き込んだ。こけた頬にカサカサの肌。枝毛の多い髪の毛はまるで
そこからは半分くらいが上の空だった。気がつけば葬儀が終わり、家は追い出され、路上に住むようになった。残ったのは大量のマッチの箱だけだ。これを売り捌くしか俺に残された道はない。あの日のカノンと同じように俺は毎日マッチを売っている。こんなにも寒いのに、俺はカノンにあんな薄着でマッチなんか売らせていたのだ。最低だな。死ねばいいのに。後悔。その二文字が毎晩のように俺を襲う。何度も地面や壁に頭突きをしたが忘れられない。忘れてしまいたい。死にたい。死んだ方がいい。俺は死んだ方がいい。でも、死ぬのは怖い。誰か助けてくれ。お願いします。誰でもいいんです。
3
「仕事から逃げたアンタを支えてくれたのは、娘のカノンちゃんだったんやろ。そのカノンちゃんの遺言ぐらい聞いてやれや」
カノンの遺言。この男はカノンから遺言を授かって、俺を探していたのだ。カノンの最後の言葉、カノンから俺に送った言葉。聞きたい。どんなものでもいい。罵声でも皮肉でも侮蔑でも構わない。最後の言葉を聞かせてほしい。
「お願いします。教えてください」
俺は膝をつき、降り積もった雪の上に傷まみれのひたいを当てた。凍りつくような冷たさが額に染み込んでいく。俺はもう逃げたくなかった。
「わかった。教えたる。でも、その前にワイはアンタから聞きたいことがあるんや。カノンちゃんの名付け親についてや」
「それがなんで関係あるんですか?」
「ワイは最初、ピアノ教室を開いていた奥さんがつけた名前やと思っとった。その方がカノンという音楽に関わる名前の辻褄が合う。でもな、どうも違う気がしてきたんや。カノンちゃんの本当の名付け親は、アンタやろ」
心臓の音が少しだけ強くなった。俺は顔を上げてワイの顔を見る。ワイは少し泣きそうな顔をして、しゃがんでいた。俺に視線を合わせるようにしている。
「なんでわかったんですか?」
「カノンちゃんの瞳は綺麗なマリンブルーだったんや。でも、あんたはガッツリ日本人顔。てことはカノンちゃんはハーフだったということが分かる。奥さんが海外の方だったんやろうな。アンタと奥さんは日本で生活をしながら、仕事をこなしていた。そこで授かった子どもの名前を決めるときに、外国人の奥さんが名前を決めるのは少し難しいんやないか?文化の違いはもちろん、最近の日本人の子どもの名前の種類や意味を全て把握することは大変やったはずや。だから、アンタが身を乗り出して名前を決めようとした。音楽関係の仕事に就く奥さんが愛着を持ち、尚且つ子どもたちの間で浮かないような、海外でも呼びやすい名前。アンタはそれを必死になって調べた。音楽とは無縁だったアンタが妻と娘のために勉強までしたんやないか?そして、最終的にイッチが決めた名前はカノン。特定のメロディーが複数の声部によって時間差をもって繰り返される作曲技法やな。カノンちゃんに色んな人と協力しあえる人生を送ってほしいという良いメッセージやないか」
水滴がこぼれていく。ポツポツと小雨のように降っていく水滴は地面の雪に小さな穴を開けた。俺は手の甲で涙を拭いて、ワイの顔を見る。カノンが生まれた時のことを思い出した。会社は相変わらず大変だったけど、娘が生まれたことでこの子を一生守れる男になろうと思ったこと。カノンがいつか反抗期がくると、俺のことを煙たがるのではないかと心配したこと。カノンがもし結婚するとなったら、その男との初対面を俺はどうやって話すのかということ。くだらない先の妄想もいずれに控えている未来だと思っていた。けれど、俺は俺のせいでカノンを失った。カノンはもういない。
「でも、俺のせいでカノンは、カノンは死んだんだ。死んだんだよ。俺のせいだ」
「カノンちゃんが最後に残した言葉はアンタに対するもんだったやで」
「だったら、それは...なんですか」
俺はワイの目を見た。カノンとは似ても似つかない酷い顔だ。けれど、ワイはまるでカノンが目の前で言っているかのような雰囲気を作った。一瞬だけ、カノンの顔が重なる。カノンが目の前にいるように感じる。
「カノンは生まれてきてよかったのかな?」
「それが...最後の...」
くそ、くそくそくそっ。よかったに決まってるだろ。カノンは生まれてきてよかったに決まってるだろ。俺はやっぱり死ね。死んでくれ。頼む。今すぐに。俺のことを信じてくれた妻も娘も誰もいない。俺が自ら手放したんだ。俺がバカだった。ごめん。ごめんよ。お願いだ。もう一度だけ現れてくれ。天国から俺を見下すようにして、俺に罵声をあげてくれ。もう、いっそのこと死ねと言ってくれ。なんだっていい。だから、神様お願いだ。最後にチャンスをくれ。神様。もう一度だけ妻と娘を会わせてくれ。たのむ。
髪をグシャグシャと引っ張り、頭を地面に叩きつける俺をワイは力ずくに止めた。右頬を手のひらで叩かれる。パチンッという摩擦音で俺の目が覚めた。
「お前のすることはそうじゃないやろ。逃げんなやボケ」
空を見上げる。分厚いに丸い穴が空いた。誰かが俺を見ているのだ。そんな気がした。カノン、お前なんだな。俺は膝に手をついて立ち上がった。上を見ると涙は垂れてこなかった。あのタバコの火はもう消えてしまっている。
「おれ、おれがこんなんだ、こんなんで、悪かった。ほんと、に、ごめん。お願いします、もういちど、だけでいいので、謝らせてください。ごめんなさい」
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