僕の彼女は

1

 小野寺粧子おのでらしょうこはクリーム色の毛布に身を投げた。毛布に飛び込んだ反動からほんのりと甘い柔軟剤の香りが向かってくる。心地よい。粧子はため息を吐いて恋人に電話をかけてみた。疲れた日に聞く彼の声はとことん身に沁みる。3コール目で彼が出た。


「もしもし?」と、少しエッジの効いた色気のある声が電話の先から聞こえてくる。粧子はそれが好きだった。


「もしもし。今忙しい?」


「ううん。ちょうど映画が終わったところだよ」


 バラード調のエンドロールが電波を伝って部屋の中で響いた。粧子はそれがなんの映画か思い出すように腕を組みながら電話を続けた。


「そう。ならよかった。1人で観てるの?」


「ああ。さっきまで悠也ゆうやがいたんだけど、用事を思い出したとか言って帰ったよ」


「そう。それは丁度よかった。もし、暇なら今からウチに来ない?」


「え?今から?」


「うん。取引先に高いワインをもらったの」


「それは楽しみだな。次のバスで行くから19:30頃に着くよ」


「待ってるわ」


「ああ。じゃあ、また」


 そう言って、彼は電話を切ってしまった。それから、粧子はせっせとお風呂を沸かして、冷蔵庫に残っていたチーズをカットしていった。髪の毛のひとつ落ちていない粧子の部屋は洒落しゃれていて、ほど良い暖房が温もりを与える。粧子は仕事と生活の両立を果たすOLの鏡だった。


2

「あ、ああ。助けて…」

 

 マンションを出ると、すぐ前を歩いていた小太りの男性に僕はすがりついた。雪が降る寒い夜だが、走ってきたためワキや背中に大粒おおつぶの汗をかいている。暑い。僕はヨレヨレのマフラーを外して、それを手に取った。


「どうしたんや?」と、小太りの男性はどこか落ち着いた様子だった。僕が事情を話そうとすると、後ろからグレーのコートを着た若い男性がコチラに向かって来ていた。


「ワイさん。これ、ココアです。そちらの方は誰ですか?」


「知らんやで。急に抱きつかれたんやで」


 小太りの男性は缶のココアを飲みながらそう応えた。すると、息を整えようとする僕に、顔の良い方の男性が「僕のコートを着るか」と尋ねてきた。しかし、僕はそれを丁寧に断った。


「とにかく、来てください。僕の彼女が死んでいるのです」と僕は狼狽ろうばいしながら言うと、彼らも顔色を変えて僕の後を着いて来てくれた。僕達はドアを開けて彼女の部屋へと入る。事件はすでに始まっているのだ。


3

 僕達はドアを開けて中に入った。玄関は綺麗に片付けられており、木製の小皿とシトラス系の芳香剤ほうこうざいが置いてあるだけで、くつの一つも置いてなかった。ここだけでは男性と女性のどちらの部屋か判断がつかない。そして、僕は自分の靴を脱いで、彼の後を着いて行った。廊下を抜けた先では、リビングから流れてくる暖房の温もりが冷えた体を徐々に癒していくようで心地よい。けれど、床に目を落とした瞬間、背筋が一気に冷えていくようだった。カーペットの上に横たわる女性の死体があったのだ。水面に浮かぶカエルの死骸しがいのように白いカーペットの上で血を流して倒れている。僕は彼女に手を合わせていると、ワイさんはガサガサと彼女のポケットをあさり始めた。


「ちょっと!何しているんですか!?」


 彼女の亡骸なきがらを荒されているのだ。怒りの感情がくのは当然だろう。僕は彼をなだめつつ、ワイさんが部屋の物色をしているついでで彼から事情を聞くことにした。


「警察に通報はしましたか?」


「はい。先ほどしたので、あと10分もしないうちに着くと思います」


「それでは、ゆっくりでいいので、死体を発見した時の状況を教えてください」


「はい。死体を発見したのは7時50分ごろです。彼女の部屋を訪ねても返事がなかったので、借りていた合鍵で部屋に入りました。すると、リビングで彼女が倒れていたのを見つけたので、急いでマンションの外に出ました」


「なるほど。なぜマンションの外に出たのですか?」


「部屋の鍵が閉まっていたので、犯人はまだ部屋にいるのではないかと思いました」


「ああ、なるほど。たしかに、この部屋から飛び降りるわけにもいきませんからね」


 僕はカーテンを開けてベランダに出ると、外の景色を見下ろした。7階にある彼女の部屋からは近所のコンビニや飲食店を簡単に見渡すことができる。


「あなたの判断は間違ってませんね。密室の殺人だと、犯人が残っている可能性は十分にありえますから」


「そうだったのですかね。僕には正解が分からないです」


 そう言って、彼はうつむいてしまった。彼も辛いのだろう。僕はふとワイさんの方に目をやると、ワイさんは部屋の隅々まで物色を続けていた。


「へえ、綺麗にしとるんやな。ベッドの下まで埃がないわ」


 ワイさんはそう言いながら立ち上がると、今度はクローゼットの方に向かって行った。


「ご近所との間でトラブルはありませんでしたか?」


「粧子は真面目だったので、誰かとトラブルを起こすようなことはしていません」


「そうですか。それだと、やはり犯人をしぼるのはかなり難しいですね」


 すると、ガチャっと鍵の開いた音のすぐ後に、ゴロッと何かが音を立てて落ちてくる音がした。ワイさんの方に目を向けると、クローゼットの中から潰された小物たちと一緒に男性が落ちて来ていた。首には何かで絞められたような跡がある。僕より少し年上の髭の整った背の低い男性。彼はダウンジャケットを羽織っており、黒髪のワンカールパーマがよく似合う。


「悠也...?」となげく彼はひざからくずれ落ちた。どうやら、知り合いらしい。彼はもう顔を上げることもできずに、ガムのように床に張り付いて小刻こきざみにふるえてしまった。クローゼットから現れた2人目の死体。この事件の結末を僕はまだ知らない。


4

「それにしても、この部屋はやけにキレイやな」と、2人目の死体を発見したのにも関わらず、ワイさんはやけに冷静だった。僕も動揺どうようを忘れるためにワイさんに返事をした。


「彼女さんがマメに掃除をする人だったのではないですか?」


「んー。それがやな。床に注目してほしいんや」


 僕はワイさんに言われるまま、床に顔を近づけてみた。髪の毛ひとつ落ちていない綺麗な床だった。


「社会人でバリバリ働く一人暮らしの女性の家に、髪の毛一本も落ちていないような掃除が毎日できるんかな」


「でも、本当に掃除が好きで毎日綺麗にしていれば、そのぐらいは可能なのでは?」


「それは今もか?」


 僕はワイさんの言っていることの意味が分からなかった。


「死体の周りにもも落ちてないんや」


 たしかにそうだった。僕は目を凝らして死体の周りを見ても、この部屋にはも落ちていないのだ。死体が床に倒れたとき、もしくは争ったときぐらい、髪の毛の一本でも落ちそうなものだが、そのすらないのだ。


「犯人が殺した後に部屋の掃除をしたんですか?」


「その可能性は大いにあり得る」


「なるほど」と言いながら僕は腕を組んだ。犯人は自分の証拠しょうこを何も残したくなかったということか。そうなると、強盗ごうとうの可能性もかなり高い。


「それで、ワイの簡単な確認では、この家からお金がなくなった形跡けいせきやドアをこじ開けて無理やり部屋に入った形跡は残ってなかったんや。つまり、犯人は彼女と面識があって、この家におとずれた人物になる」


「じゃあつまり、この家に入ることができる合鍵を持ちつつ、小野寺さんの彼氏でもある...」


 僕は再び目を床に落とした。先ほどまで小刻みに震えていた彼の体はピタリと動かなくなっている。僕は少しづつ、彼から距離を取った。


「彼氏さんが殺したんですか!?」


 動揺を隠せずに、僕は声を上げてしまった。彼はまだ動かない。


「それがやな。少し引っかかるんや。ワイが彼女の服を漁っても、この部屋の中を探しても彼女のスマホが見つからんのんやで」


 彼女のスマホが見つからない。ワイさんはそこに違和感を抱いているのか。僕はどちらかというと、彼の友人であるクローゼットから出て来た男性に違和感を覚えていた。彼はなぜ、クローゼットで死んでいたのだ。


「ワイさん、クローゼットで亡くなった悠也さんが犯人の可能性はありませんか?たとえば、悠也さんと小野寺さんに恋愛関係があった。悠也さんも実は合鍵を預かっていて、自由にこの家を出入りできた。けれど、悠也さんは小野寺さんと自分は浮気の仲であることに嫌気が差してしまいました。そして、ついにその嫌気から彼女を殺して、自分もクローゼットで首を吊った。この可能性はありえませんか?」


「ありえんな。浮気の仲の男に合鍵は渡さんやろ。それに、この中からやとクローゼットの外側に鍵をかけれんやで」


 確かにそうかもしれない。僕は返す言葉が見つからずに、黙ってワイさんの話しを聞くことにした。


「ワイはアンタの話しが聞きたいんや。アンタは合鍵を使ってこの部屋の鍵を開けたって言ったが、あれ合鍵やなくて本物の鍵やないんか?玄関の木製の小皿。あれ、この家の鍵置きやろ。そもそも、彼女が家にいることを知っておきながら、彼氏が合鍵持って部屋に遊びに行くか?なあ、アンタは一体誰なんや?」


 僕は戦慄せんりつが走った。ヌルッと身体を起こした彼はガタガタの歯並びを見せてニマッと笑っていたのだ。黒いヒートテックにジャージ素材の黒いズボン。クネクネと動く姿は人の形をした別の生き物に見えた。


「フフッ。僕は小野寺粧子の彼氏です。フフフッ」


「アンタは彼氏じゃない。ストーカーやろ。それもタチの悪いタイプや。この家に長いこと住み着いとったんやないか?最初に抱きつかれたとき、アンタからシトラス系の香りがしたんや」


「え!?本当にそんなことできるのですか?」と僕は思わず大きな声を出してしまった。


「人の行動パターンを読めば、できんことはないやろ。例えば、彼女が家に帰った時はベランダに潜伏する。小野寺ネキは昼間は部屋の中を覗かれんようにカーテンを閉めとるからな。部屋の中からだとベランダは見えん。そして、小野寺ネキが風呂にでも入れば、ベッドの下に移動する。今日着た衣服を洗濯すれば、ベランダに出るかもしれんからな。そうやって家の中をグルグルとしておけば、運が良ければ数週間は持つやろう」


「え、じゃあもし見つかったら?」


「刺し殺す。だから、返り血がついた服を脱いで、ヒートテックで外に出た。君も寒そうだったから、コートを貸そうとしたやろ」


 たしかに、僕は彼に自分のコートを貸そうとした。それに、本当に彼が彼氏ならヒートテックで彼女の部屋まで行かないはずだ。じゃあ、本当にこの男は小野寺さんの家に潜伏していたのか?


「そして、クローゼットで死んでいたニキが本当の彼氏さんやろうな。家に来て彼女の死体を見つけてしまったばかりに殺されてしまった。アンタがワイらをこの家に呼んだのは、逃走中に見つかって都合が悪くなったからやな」


 ワイさんが話し終わると、彼は笑いながらマフラーを引き裂くような勢いで一気に伸ばし、今度は優しく繊維せんいを緩めた。その伸び縮みを数回繰り返すと、立ち上がってワイさんにおそいかかった。僕はすかさず男の膝関節ひざかんせつりを入れると、男はバタッと床に倒れた。しばらくは歩けないだろう。すると、男は地をうようにして小野寺さんの元まで向かった。そして、彼女の体を優しく抱きしめたのだ。


「アンタが彼女の携帯を奪ったんやな。見たくなかったんやろ。自分の知らない男と付き合う彼女のことを」


 男は黙ったまま、彼女のことを抱きしめていた。もうそこには何の温もりもないだろう。けれど、それでも彼は満足しているようにも見えた。僕にはそれが分からなかった。


「粧子は元カノなんです。お互い社会人になって疎遠になった。だから、フラれた。だから、悔しかった」

 

 言葉はまとまることがなく、自由に口からはみ出している。僕はどうにも彼の心情が理解できないまま、黙ってそれを眺めていた。すると、ワイさんの呼んだ警察がすぐにやって来て、彼と小野寺さんを引きがした。カサブタのように男の服から血が垂れて、床を赤く染める。僕はやはり、それをただ眺めているだけだった。

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