アリスの自転車は赤い
如月姫蝶
第1話 正義の味方
俺は、その朝、ついに真理に辿り着いた。
そもそも妹さえ存在しなければ、あの日、あの自転車が存在することもなかったではないかと——
俺は、正義の味方を自認している。強靭なる正義感ゆえに、学校でも職場でも迫害されることを繰り返してきたが、正義の執行を躊躇うわけにはゆかない。
俺は、その朝、自宅で為すべきことを為した。遅ればせながら、やつをキャンセルしたのである。
問題は、その先どうするかだった。俺は、自らの正義に関して説明責任を負っている。しかし、誰に話すかは慎重に選ばなければ。
両親は留守だ。しかしどのみち、やつら相手では話にならない。いきなり警察を呼びつけたところで、彼らもまた、事象の表面しか見ようとしないのではなかろうか。
俺はふと、近所の喫茶店のことを思い起こした。不登校児や貧困家庭の子供たちを支援する、ボランティア団体が運営しており、俺も昔、世話になったことがある。
自宅から出るのは久し振りだったが、記憶の中の中島先生は、優しく笑ってくれていた。
俺はしかし、ひどく困惑することになった。喫茶店まで無事に辿り着いたはいいが、その表にでかでかと「占い喫茶」などという看板があがっていたからだ。近ごろ急激に視力が低下している俺は、二度見どころか何度も見直したが、明らかに昔とは様相が異なる。
もしや、中島先生のボランティア団体は撤退してしまったのか?
それでも、もはや引くに引けない俺は、店の扉を押し開けたのだった。
店内は薄暗かった。
そして、真ん中のテーブル席に、いかにも胡散臭い占い師といった、紫の装束の人物が座っており、俺のほうを見たようだった。
「簡単に死なれちゃうよりさぁ、無様に生き恥晒してくれるほうが、末永く生暖かく見てられて、いいじゃん」
なんということだろう。出会って数秒後、占い師の口から、そんな言葉が出たのである。
俺は、稲妻に打たれたかのような衝撃とともに立ち尽くした。
声からして、紫のベールで顔の大半を覆い隠したそいつは、どうやら若い女らしい。中島先生とは似ても似つかないが、そんなことはもうどうでもよかった。
占い師が発したその言葉は、いつだったか、妹が言い放ったものにそっくりだったからだ。
「どうしてその言葉を知っている!?」
俺は、詰問せずにはいられなかった。
「私は、占い師の
俺は思わず振り向いたが、俺の目には、妹の姿なぞ見えなかった。声が聞こえることもなかった。
それにしても、俺は、出会ったばかりのこの占い師に、身元や状況を何一つ説明していないというのに! こいつは本物なのだと信じざるをえなかった。
「占ってほしいことがある」
俺は、マヤの正面の椅子に座り込んだ。
しかし、いざとなると言葉が出てこない。俺は間違いなく、正義の鉄鎚を下しただけだというのに! いや……間違いないという確証を、俺は欲しているのかもしれない……
「自転車……赤い……どなたか、女の子が亡くなった?」
俺が、震えながら黙りこくっている間に、占い師は、卓上の水晶玉に手をかざしつつ、断片的に言葉を紡いだ。
「そうだ! その通りだ!
俺の絶叫は、涙声だった。
俺の妹である
やつは、小学生のころから一貫していじめっ子であり、中学では、同級生を階段から突き落とした犯人なのではと疑われたこともある。
両親も、「バレるようなマネはするな。責任を問われたら金がかかる」と窘める程度で、正義とは程遠かった。
この界隈は、集合住宅よりも、古びた小さな一戸建てが多い。そうした家々の一つ一つに、すえた秘密や醜聞が詰まっている。そういう町なのだ。
学校の体質にしても腐っており、いじめの類いやそれ以上のことでも全力で隠蔽する。正義感により反旗を翻した俺のような人間こそが、返り討ちにされ、不登校やひきこもりに追い込まれてしまうのだ。
有璃子は、幼いころからアイドルになるのが夢だとかで、オーディションに応募しては、書類審査で落ちることを繰り返してきた。
二十五歳になってもまだ、夢は夢のままで、時折アイドルのオーディションに履歴書を送ることを就活と呼び、それ以外は何もしていないようなクズなのだ。
不合格が明らかとなるたびに、「ユリコなんて、ダッセー名前つけやがって! あーしのことはアリスと呼べや!」などと、全てを名前のせいにして荒れ狂うところまで、幼いころから一切の進歩が認められない。
これまで何度かアルバイトにチャレンジしてきた俺のほうが、よっぽどマシなはずである。
有璃子が中学二年生だったころ、その同級生で、近所に住む
うちだって、大した援助をするわけではない。アンパンや何か、手ごろなおやつを振る舞うだけである。
「おばあちゃんの臭いがしないところで食べると、すっごくおいしい……」
蛍子は、おやつを食べながら、泣き崩れるのが常だった。
そして、蛍子が礼を述べて帰宅するや——
「あいつ、ガキんころは、あーしよりもちょっとだけかわいかったかもしれねーけど、今となってはボロボロじゃん。あーしの勝ちだな!」
などと、有璃子が勝ち誇るのも常だった。
蛍子に応対するのは、有璃子の役目と決まっていた。俺はただ、ドアの隙間から様子を窺うだけだったが、蛍子のやつれ様には胸が痛んだ。
蛍子の両親は、休日も働き詰めで、認知症の祖母の世話を蛍子に丸投げしていた。そんな祖母は弄便まで行うらしく、蛍子の苦労は計り知れなかった。
蛍子の祖母は、何も昔からミゼラブルだったわけではない。元は、浴衣の着付けが得意な、朗らかな婆さんで、蛍子や、有璃子や、俺にまで着せてくれて、皆で夏祭りに繰り出したこともある。そのころ、蛍子は小学生になったばかりで、綿飴や金魚を、特にはばからずに買い求めていた。森村家の家計にも、当時はそれなりに余裕があったのだろう。
そして何より、綿飴をそっと齧って「うまくお口に入らない」などと笑っていた、そのころの蛍子は、時代劇のお姫様みたいに上品で可愛らしくて、俺はついつい見惚れてしまったのだった……
その日曜日も、蛍子は、束の間の息抜きのために、我が家を訪れた。
しかし、ジャムパンにかぶりついたところで、彼女の携帯が鳴り響いた。祖母に関する連絡を受けるためだけに持たされているような携帯である。
「え……おばあちゃんが!?」
蛍子の声が悲壮感に満ちていたから、俺はてっきり、婆さんが死んだのかと期待した。そうすれば、蛍子は晴れて自由の身じゃないか!
しかし実際には、それは、近くのスーパーからの電話だった。婆さんは、孫のいぬ間にフラフラと外出して、スーパーマーケットの鮮魚売り場にて、きれいさっぱりとオムツを脱ぎ捨てて騒ぎになったのだという。
「すみません! 今すぐそっちに行きます!」
確かに、スーパーにしてみれば、一秒でも早く婆さんを連れ帰ってほしいところだろう。
すぐ外側に立っていた俺を殴るかのような勢いで、蛍子は、部屋の扉を開けたのだった。
「えっと……有璃子、蛍子ちゃんに自転車を貸してあげたらどうだ?」
蛍子のことを覗き見していたのを誤魔化したくて、俺は咄嗟にそう言った。
「うっせー! あーしのことは、アリスと呼べっつってるだろーが!」
クズな妹には声で殴られた。
「わかったよアリス……蛍子ちゃんに自転車を貸してあげても、今日中に返してもらえばいいんじゃないのか?」
明日の朝、登校するまでは、自転車がなくても大丈夫なはずである。
有璃子は、鼻を鳴らして、ニタリと笑った。
「どうもありがとう!」
蛍子に礼を言ってもらえて、俺は、世界を救った勇者のごとく有頂天となった。
その夜、俺は、ジャムパンの断面の干からびた暗紅色を、茫然と見つめることになった。
蛍子は、有璃子の自転車を借りた。
俺は、蛍子が食べ残したジャムパンを、こっそり自分の部屋へと持ち帰った。そして、まずはパンに付着した唾液を、すんすんと嗅いでいたのだが、パトカーと救急車のサイレンが、耳をつんざいたのである。
この町には不似合いな、ピカピカのスポーツカーが、自転車に乗った女の子を轢き逃げした——
その被害者が蛍子で、現場で死亡が確認されたという情報くらいは、すぐに俺の耳にも入ってきた。
事故の目撃者は、自転車のブレーキが利かないようだったと証言した。しかし、ブレーキが故障していたのかとか、それこそ細工されていたのかなんてことは、自転車も被害者も大破してしまったため、警察の鑑定でも不明だったという……
事故の話は、やがて、賠償の金額を噂するものへと変わっていった。
スポーツカーを運転していた若い男の父親は、実は都会の大金持ちで、金の力で森村家を納得させたのだ。
蛍子の祖母は施設に入所し、自宅は小綺麗にリフォームされた。
死んだ蛍子は、稀に見る孝行娘だと、町中の評判になったのである。
「てめえのお節介が、蛍子を殺したんだよ」
有璃子は、ことあるごとに、そんな言い草で俺をいたぶるようになった。やつも俺も事故の責任など問われなかったし、森村家からも恨み言一つ言われなかったというのに……
「おまえが、ブレーキに細工したんじゃないのか?」
俺は言い返した。少なくとも幼いころ、妹は蛍子の愛らしさに嫉妬していたはずだ。
「けっ! 誰が自分の自転車に細工するかってんだ! あーしは、人殺しだけはまだやってねーし!」
そんな言い争いを、この十年余りのうちに、何度繰り返したことだろう。
俺は、悩み続けて、もはや耐え切れなくなって、その朝、ついに真理に辿り着いた。
そもそも妹さえ存在しなければ、あの日、あの自転車が存在することもなかったではないかと——
そして、遅ればせながら、正義により過ちを正したのである。
「無様に生き恥晒してくれるのは、見てて楽しいんだけどさぁ、蛍子には、もう飽き飽きしちゃったんだよね」
やがて、眼前の占い師が語り始めた。口調は有璃子そのものである。
「おまえ、やっぱり、自転車のブレーキに細工したんじゃないのか? たまたま俺が自転車を貸すように言っただけで、どのみちおまえは蛍子ちゃんのことを……」
「そだよ」
マヤの口を借りた有璃子は、あっさりと白状して、ケラケラと笑ったではないか。
「どうして、今の今まで嘘を吐いてたんだ!?」
俺は、両の拳をテーブルに打ちつけた。
「そりゃあもう、てめえがウジウジと拗らせて悩んでんのが面白かったからに決まってんだろ! あーしは、自転車に細工した。あの日は、てめえが言い出さなくても、なんか理由をつけて、蛍子に自転車を使わせるつもりでいたんだよ!」
そうか……そうだったのか……
俺の心身の中で、何かが解けていった。
あの日から十年余り、俺の心肺に絡みついていた鉄条網が、ついに棘を失い消えてゆく……
俺は「ひゃあっ!」と間抜けな悲鳴をあげた。いきなり後方から腕を捻じ上げられ、取り押さえられたからである。
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