第38話
「ご苦労様です」
見張り番を交替してもどった在昌を、妻のほのが安堵と気づかいの入り混じった顔つきで出迎えた。頃合を見計らったらしく白湯が用意されていた。
刻限はすでに夜明けが近く、かすかに薄れつつある闇が朝の気配を感じさせる。
だが、必ず訪れるはずの刻の移ろいから置き去りにされたような、そんな思いで在昌の胸中は満たされていた。寝間の中央、褥に腰を抜かしたような勢いで座り込んだ彼の顔を見てほのは眉をひそめる。
「いかがされました、お前さま」
妻がさしだす椀を億劫な気分で在昌は受け取った。たったそれだけの動作がうとましく感じるほどに疲れている。それも、肉体よりも精神が疲弊していた。
一口白湯を口にふくんで飲み込み、うむ、という不明瞭な言葉をほのに返す。
元はといえば豊後をおとずれることになったのも自分に責任があるのだ、それで弱気など口にしていいものなのかという躊躇いがあった。
「お前さま」やや強い語調のほのの声に、在昌はうつむきがちになっていた顔をあげる。
「憂鬱など溜め込んだところなんの益もありません。それに、鎮西の地までついて参ったわたくしに隠し事ですか」
非難がましく言葉をかさねられ、在昌は「ならば話してみるか」という気分にさせられた。どのみち、このまま黙っていられそうにない。実はな、と在昌は切支丹や仏門の者に対して抱いたいらだちや物悲しさなどをほのに打ち明ける。
それを妻は時折相づちを打ちながらも静かに聞いた。
やがて、こちらが話を終えると、
「人は弱いものですから」
と、ほのはぽつりともらす。彼女の瞳には同情と哀切が同居していた。
人は弱い、と在昌は疑問符交じりの声をあげる。
「人は弱いゆえ、神や仏の教えを踏みはずし、己で考えることを止めてたやすく余人の存念にしたがってしまう」
「ならば、神仏の教えに意味はないではないか」
在昌は吐き捨てるような口調で思わず独語する。怒りとも憎悪ともつかない荒んだ思いが心に去来した。
とたんほのが、さようなことはありませぬ、と反論した。
「生きる指針があってもなお、人は踏みはずすのです。なれば、指針が失われればどうなります」
あ、と在昌は当たり前のことに気づかされる。
遊び女の血を引く子、と実の父にさえ虐げられて育った彼にとって自分を支える確かなものなどなくとも歯を食い縛って生きることが当然だった。それゆえの盲点が生まれていたのだ。
「お前さまが誤らぬよう、わたくしがその身を支えます。そして、お前さまが誰ぞを支える。その誰ぞがまたいずかたの者を支える、そういう輪が広まれば多くの者が道を踏み誤らずに済むのではないのですか」
確かに、と在昌は自然とうなずいていた。さ迷い歩くうちに思ってもみなかった瞬間に鬱蒼とした森を抜け出す、そういった折に感じる急に視界が開けたときのような心地がする。
と、唐突に寝間の障子が開け放たれる。
「お母(たあ)さん」とあどけない声で心細げにいって小さな人影が足を踏み入れてきた。
次男の晴丸(はるまる)、四歳だ。意地っ張りな父、心の強い母のどちらにも似ず甘えん坊で泣き虫の男児だった。
「怖い夢でも見ましたか」
母の問いかけに、小さくうなずきながら歩み寄ってくる。だが、抱きついた相手はほのではなかった。
「っと、いかがした」飛びつくような挙動に虚を突かれた在昌は目を丸くする。
「大事がなくてようございました」
目に涙を浮かべながら、晴丸は在昌の顔を見上げた。父を凶事が襲う夢でも見たのだろう、と在昌はすぐに理解する。
「うむ、そちらのお陰だ」
在昌は満面の笑みを浮かべ、むしょうに最愛しくなって息子の頭を二度三度となでた。
そちら、と晴丸は小首をかしげいぶかしげに問い返す。
「父はな、こちのことを思ってくれるそちらが居るからこそ強くなれるのだ」
在昌の返答に、そうなのですかと晴丸は面映いような顔つきをした。
「夜通し、番に立った甲斐がありましたね」
ほのが在昌の前にまわりこんでいたずらっぽい顔で告げる。そして、「父上は疲れておられます。さ、お休みになってもらいましょう」とそっと晴丸を父から引きはなした。無事を確認したことで満足したのか、晴丸は早くも眠たげな顔になっている。育ち盛りだ、まだまだ寝足りないに決まっている。
そうだの。彼女の言葉に在昌は心からの思いを簡潔に返した。これまでの人生でもっとも力強くうなずく。総身から消え失せていたはずの活力が、四肢の、手足の指先にまで行き渡っていた。
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