第22話
ハッと目を開けると、目尻から涙が零れた。やはり夢だったらしい、と思っていると、左手が誰かに握られている。
「大丈夫か?」
声がして、え? と思ってそちらを向くと、床に胡座をかいてこちらを見ている、稜がいた。手を握っていたのは稜だったらしい。
「え、なん……」
どうして彼がここにいるのか。それにどうして手を握っているのか。そう聞こうとしたけれど、声が掠れて上手く話せない。
「田口さんに無理言って、二人で様子を見に来た」
彼女はいま、必要そうなものを買い出しに行っているらしい。それにしても、どうやって家の中に入ったのだろう。そのまま聞くと、稜は手の甲で真澄の頭に触れ、そこから額を探して手を当てた。熱が高いな、と彼は小さく呟く。
「覚えてないのか。玄関の鍵を開けたものの、そのまま動けなくなった。田口さんが布団まで運んだよ」
真澄が熱を出したことは、田口から聞いたのだろう。けれど、まさか稜がこの家に来るとは思わなかった。初めて来る場所だし、来ても物の場所すらわからないのに。躓いて転ぶようなものは置いていないけれど、と握られた手を見てハッとする。いつから手を握ったままなのだろう、と手を引こうとすると、稜は離すどころか両手で握ってきた。大きな手で包み込まれる感触に、ドキリとする。
「……昨日はごめん」
そう呟いた彼に、一瞬何を謝られたのかわからなかった。それが、抱きつかれたことだと悟ると、手を引っ込めたくなる。けれどやっぱり稜はそれを許してくれない。
「しんどくなければ話してくれないか? どうしても納得できない」
この期に及んでまたその話か、と真澄は思う。けれど今の真澄は反論する気力がないし、拒否する頭もなかった。ぼうっとする頭で稜を見つめていると、彼は眉を下げる。
「さっきうなされてた。……俺にそばにいて欲しいって」
俺はここにいる。ずっといる、と言われて、真澄はまた視界が滲む。こうして目を向けてくれることが嬉しいなんて、久しく感じることもなかったなと思う。目が不自由な彼だけれど、真っ直ぐ真澄を見てくれる。そう思ったら胸がきゅう、と締めつけられた。
「……これ以上稜に依存したくないんだ。自分がされて嫌だったのに、同じことを稜にしそうで……」
「依存だなんて思ってないよ」
稜はそう言う。けれど真澄は首を振った。
「僕……重たいんだよ……。稜と咲和さんが指点字で会話してるのが嫌だった。そんな当たり前のことすら許せないんだよ?」
これのどこが重たくないの? ウザイでしょ、と真澄は目尻から涙を零す。
「……やっぱりそこだったか」
「コミュニケーション方法はいくらでもあるのに、どうして指点字で会話する必要があるんだ? とか、盲ろう者と話す時はそれが普通なんだから触るななんて言えない、とかそんなことを考えて……」
嫉妬や秋波を送ることはみっともなく、相手にとって迷惑な気持ちや行為だと、真澄は身をもって知っている。だからこそ話したくなかったし、せめてこの感情が収まるまで稜から離れたかった。
それなのに今、稜がここにいてくれて嬉しいと思っている。心配して来てくれたのに、真澄はそんな彼に際限なく甘えてしまいそうで怖かった。
「……そっか」
しかし、稜から返ってきたのはそれだけだ。どうして、と真澄は稜を見る。
彼の瞳は穏やかだった。真っ直ぐ真澄を見つめて、なんなら微笑んでさえいる。なぜそんな表情でいられるのか、不思議だった。
「どうして? 嫌でしょ、こんな感情向けられて。少なくとも僕は嫌だった」
頭が痛くなってきて、真澄は目を閉じた。すると急激に意識が落ちそうになり、何とか堪える。
「……そっか。真澄にとって好意は、相手の迷惑になるものだった? って、そっか……そうだよな」
一人で納得したらしい稜は、真澄の手を力強く握った。温かい手に酷く安心して、はあ、と息を吐くと同時に、また意識も落ちていきそうになる。
元同級生といい、内藤といい、向けられた好意は真澄にとって危害が及ぶものだった。だから自分もそうなりたくないと、思っていたのに――……。
沼に沈むように意識が落ちていく。
「これ以上、すきに……なりたく……ない……」
好きになったら、きっと全部独り占めしたくなる。束縛して、自分だけを見てとせがみ、他人との接触を許さないだろう。――元同級生のように。
「……ありがとう」
けれど静かに話を聞いていた稜は、そう言って真澄の手を彼の唇に当てた。しかし真澄は、反応ができないほど深い眠りに落ちていく。
完全に意識が途切れる瞬間、温かい手が頭を撫でてくれた。
◇◇
次に目が覚めた時は、まだ怠さは残るものの意識はハッキリとしていた。
「……起きた?」
声がしてそちらを見ると、稜がそばに座っている。真澄は状況が飲み込めなくて狼狽えた。
「え、あの……」
「この説明二回目だけど。田口さんと様子見に来た。調子はどう?」
そうだった、と真澄は慌てる。仕事を休んで迷惑をかけた上に、家にまで来てもらうとは、と布団の上に座る。
「なん、何で……?」
真澄の戸惑いをよそに、稜の表情は穏やかだ。そういえば、さっきもこんな優しい顔をしていたなと思い出し、ついでに自分が恥ずかしいことを口にしたのも思い出した。
「り、稜っ、あの、……さっきの……っ」
「とりあえず、身体が回復するまで寝てな。体温計も田口さんが買って来てくれて、そこのビニール袋に入ってる」
あと、夕方か夜にもう一回来るって言ってたぞ、と言う稜は、ぎくしゃくする前と変わらない。平静な彼に対し、真澄はもっと慌てる。
「で、でもっ、風邪うつしたら悪いから……!」
「悪いけど、俺も田口さんも、真澄が回復するまでそばを離れないから」
俺は全然真澄の役に立てないけどな、と笑う稜。いてくれるだけで良い、と喉まで出かかって、真澄は唾を飲み込む。声の代わりに、ぐっ、と喉の奥で潰れたような音がした。
「真澄」
稜が手を伸ばして、手の甲で真澄の頬に触れる。それからそっと手のひらでそこを撫でられた。
「嫌なら【嫌だ】って言って?」
優しく甘い声。けれどどこか懇願のような感情をその声から感じて、真澄は俯く。
――ずるい。真澄が【嫌だ】と言えないのをわかっているくせに。熱だけのせいじゃなく顔が熱くなって、耳まで赤くなっているのを自覚する。
けれど真澄は首を振った。認めるのが怖い、元同級生のように相手を求めてしまいそうで怖い。この関係を壊したくない。だからそれならいっそ、なかったことにした方がマシだ。
けど、だけど……それでも稜は柔らかく手を広げて、いつでも来いと待っていてくれるだろう。稜はそういう人だ。自分は彼のそういうところに憧れたのではなかったか。
外見で人を判断せず――物理的にできないだけでなく――否定せずそばにいてくれる。それは真澄にとって、貴重な存在だと何度も思ったのに。
そんな稜を、どうして手放すことができる?
「……嫌だ……」
小さな声で呟くと、稜はふはっと噴き出す。
「全ッ然説得力ないな?」
頬を撫でていた手でそのままそこをつねられた。力は弱いけれど、真澄の胸を締めつけるには十分な強さだ。
「稜……っ」
締めつけられた胸から感情が溢れ出し、涙もついでに溢れる。もうこの想いは止められない。
「稜が好き……。だから重くなりたくない……稜の負担になりたくない……っ」
「ん……」
よく言えました、と稜は頭を撫でてくれる。
本音を話す時涙が出てしまうのは、そうまでして訴えないと聞いてもらえなかったからかな、と彼は苦笑した。思えば自分の気持ちを素直に言葉にしたのも久しぶりで、どこまで彼はわかっているのだろう、と不思議に思う。
「真澄、隣に来てくれるか?」
ここに、正座で、と示された場所に真澄は座ると、太ももの上に手を置くよう言われた。稜は真澄の両手を探って握り、指先を重ねる。この体勢は……指点字だ。そして稜は五文字、タップした。真澄がわかるように、ゆっくりと。
(……お、れ、も……。え? おれも、す、き……?)
無音の空間、重なった指先は確かにそう【言った】。思わず稜を見ると、彼は嬉しそうにこちらを見ている。
「伝わったか?」
「え、……え? 本当に?」
もしかしたら、真澄の訳が間違っているのかもしれない。そう戸惑っていると、稜は再び指をタップした。今度は訳付きで。
「お、れ、も、す、き。……真澄が好きだよ」
「……っ」
言葉の後半にはギュッと手を握られる。途端にまた溢れてきた涙を隠そうと俯くと、稜の手が真澄の背中を辿ってきて頭を引き寄せられた。親密な距離感にドキドキしたけれど、同時に彼の体温に酷く安心して、涙が止まらなくなる。すると稜は、慰めるように頭や背中を撫でてくれた。
「どうして? 僕、めんどくさいよ……?」
ポロポロと泣きながらそう聞くと、そうだな、と稜は笑う。
「どうしてって言われると困るけど。真澄の声は聞いてて心地良い。気持ちが優しくなる」
それに胃袋掴まれてるしな、と彼は茶化した。真澄は小さく笑いながらも、涙は止まらない。
そうだった。稜は自分の気持ちを真っ直ぐ伝えられる人で、そこも良いと思っていたはず。こんな風に自分のことを伝えられたら、と思っていたのに、自分は稜から逃げようとした。両想いには絶対になれないと思っていたから。
「……ん? まって。じゃあ稜の片想いの人って……」
「……そこまで説明しないとだめか?」
さすがに恥ずかしい、と言われ、真澄は慌ててごめん、と謝る。すると稜は声を出して笑った。
「もう……その謝る癖もかわいいと思っちまうから重症だよな」
「……」
真澄は思わず稜を見上げた。涙もびっくりしたのか止まって、顎から一滴、ポトリと落ちる。
「うーん……なんて言うか、小動物?」
「何それ」
前言撤回、と真澄は思った。稜は思ったことをストレートに言うけれど、こういうところは少し慎んで欲しい。
「触るな、って毛を逆立ててるくせに、懐くとめちゃくちゃ甘えてくるみたいな?」
「――もう!」
さらにからかう稜に、真澄は思わず声を上げて膝を叩いた。いてっ、と声を上げた稜はまだ笑っている。
「そのくせ甘えるの下手で、距離感掴めないから一人でグルグルしてる」
「もういいから!」
どうしてわかるんだ、と稜を止めると身体がふらついた。ああほら、急に動くから、と稜は自分の身体に真澄を引き寄せる。嗅ぎなれたはずの稜の服の匂いに、安心してはあ、とため息が漏れた。
「……しんどそうだな。熱また上がったか?」
「だとしたら稜のせいだよ……」
ごめん、と謝る稜の声は明るい。少し前の、稜と過ごす時間が楽しいと思っていたころに戻ったようで、真澄も笑う。
「……ほら、横になってな」
背中を軽く叩かれ、促されるまま再び布団に横になった。自分が寝ていても稜は暇なのでは、と見ると、また手の甲で頬に触れられ、額に手のひらが当てられる。文字通り手探りだけれど、心配してくれているのがわかって、真澄は稜の手を取った。そして自らその手を頬に当てる。少し冷たくて気持ち良い。そう思ったらすぐに眠たくなってきた。
「稜……来てくれてありがとう……」
霞む意識の中そう言うと、稜がくすりと笑う声が聞こえた気がした。
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