第13話

 次の日、真澄は単発の仕事を終えて事務所に寄ったあと、軽く事務処理をして再び外へ出る。次は稜の所だけれど、食料と日用品を買ってから行くつもりだ。


「あっつ……」


 外へ出た途端まとわりつく湿った空気に、真澄は小さく愚痴を零す。雨は降らなくなってきたものの、この気温と湿度はどうにかならないのかな、とどうしようもないことを考えて空を仰いだ。


 建物の隙間を埋め尽くす青い空は、ところどころ綿のような雲を浮かべて穏やかだ。そんな景色を見て、なぜか稜を思い出した。


「……うん。綺麗で広い」


 言うことはハッキリしているのに、どうして彼は何でも受け入れてくれると思えるのだろう、と思う。それはすぐにわかった。


「否定しないんだ……人のことを……」


 真澄はそういう人を、両親以外知らなかった。稜にはすぐに謝るなと言われたけれど、それがダメだとは言われていない。それに、自分を守るための【嫌だ】が使えるようになるまで、待ってくれている感じもする。

 ――日に日に、こんな風になりたい、という気持ちが大きくなっていくのがわかるのだ。


「いじめられてた僕からすれば、やっぱり憧れるよね……」


 稜は自分とは対極で、人の輪の中心にいるような人だ。だから友達も多いだろうし、恋愛だってしている。稜の方が、よっぽど年相応の生活をしていると思うのだ。そして、彼が片想い中だということを思い出す。

 ――いつか彼も想いが成就して、それが生涯の伴侶になったりするのだろうか。


「結婚式は、呼んでくれるのかな……ってか、気が早いか」


 けれど稜のことだから、きっと今の恋も上手くいくような気がする。その時も、友達でいてくれると良いな、なんて思いながら、真澄はスーパーに向かった。

 店に着くと、味噌カツの材料と、目に付いた安売りの食材をカゴに入れていく。三日分の食材をカゴに入れたところで、ソフトドリンクが切れていたことを思い出した。

 稜は炭酸飲料が好きだ。真澄が家に来る前からも切らさないようにストックがあって、それを真澄も倣って買っている。彼は時折子供っぽい言動や好みを見せることがあり、それが普段の堂々とした振る舞いからのギャップに見えて、面白い人だな、と自然と笑みが零れた。

 稜お気に入りの炭酸飲料をカゴに入れ、ふと隣のアルコール飲料が目に入る。そういえば、二十歳になれば飲めるんだよな、とその缶を一つ取った。


(稜は九月だって言ってたっけ)


 彼がお酒を飲みたがるかはわからないけれど、飲んでみてもいいかなと思う。稜の家に行ったら聞いてみよう、と缶を戻そうとした時だった。

 プルタブの横に、点字が書いてあることに気付いたのだ。


「……何て書いてあるんだろ?」


 いかんせん点字の基礎すら知らないので、何文字なのかもわからない。【開け口】とか【アルコール】とかかな、と予想し、これも稜に会ったら聞いてみようと思う。こんな所にも点字ってあるんだな、と缶を戻し、レジに向かった。

 思えば、視覚障がい者のための工夫は身近にあるにもかかわらず、意識して見たことがなかったな、と思う。シャンプーとコンディショナーを区別する容器や、信号機の青を知らせる音や音楽……スロープだって、階段が怖いと言った稜も使えるし、あれは何も車椅子を使う人や、足が悪い人だけが使うものじゃない、と気付く。


(こんなに工夫が溢れてると思うのに、やっぱり不便を感じることがある)


 それはやはり、支援が必要な人がいるということ。

 世の中は、五体満足で健康な人が使いやすい造りになっていて、そのためハンデがある人に不便が起きるのだと真澄は思う。


「やっぱり、介護……とまではいかなくても、今の延長線くらいで支援できないのかな」


 改めて自分の気持ちを口にすると、やっぱりできるだけ、自分に何ができるか調べてみようと思う。稜におんぶにだっこしてもらうだけじゃなく、自分で自分の考えや行動に責任を持ちたい。

 そんなことを考えていると、あっという間に稜の家に着いた。真澄は預かっている鍵で玄関を開け、中に入る。


「こんにちはー。稜、来たよー」


 黙って入るのも気が引けて、声を掛けながらリビングに行くと、暑くてだるかった身体もシャキッとするほど、部屋は涼しかった。

 しかし稜からの返事はない。さらに奥へ進むと、ダイニングテーブルに突っ伏している稜の姿がある。


「稜?」


 そばに寄って覗き込んでみると、稜は穏やかな寝息を立てていた。彼は真澄が来る少し前に帰っているはずなので、ここで作業をする間もなく寝てしまったのかな、と思う。


「……毎日お疲れ様」


 真澄がいる間も勉強や仕事をしている稜。一生懸命なのは伝わるけれど、ちゃんと休めているのだろうか、と少し心配になった。

 真澄は一瞬躊躇ったあと、稜を起こすことにする。


「稜、こんな所で寝たら風邪ひくよ? ご飯できるまで部屋で寝たら?」


 軽く肩を揺さぶると、稜は顔を上げた。すぐに肩に置いた手を取られ、「おはよう」とあくび混じりに彼は呟く。寝ぼけ顔の稜が珍しくて笑うと、ぐい、と掴まれていた手を引かれた。


「ちょ、っと……?」

「真澄……」


 よろけた足を踏ん張ろうとしたら、次の瞬間には稜の腕の中にいた。中腰のまま彼に抱きつくような体勢になり、慌てて離れようとする。けれど後ろに回った稜の腕がそれを許してくれない。


「ちょっと、稜っ?」


 さすがにこの距離は近すぎる。けれど稜はそのまままた意識が沈もうとしているらしく、体重をかけてきた。


「稜っ、起きて稜っ!」

「ん……」


 真澄は抱きつかれたまま、彼の背中を叩いた。身動ぎした稜は、ハッとしたように固まる。


「……あー、わり。いま目が覚めた」


 そう言って稜は真澄をぐいっと引き離し、真澄は再びたたらを踏んだ。ふう、とため息をついて目を擦る彼に、真澄は苦笑して良いよ、と離れて買い物の荷物をカウンターに持っていく。


(それにしても、寝ぼけて人に抱きつくなんて、夢で好きな人とでも会っていたのかな?)


 そう思ったけれど、ここで寝るのは余計に体調を悪くしそうで心配だ。


「疲れてる? ご飯ができるまで部屋で休んできたら?」

「あー……うん、大丈夫。ちょっと寝てスッキリした」


 稜は伸びをしながら言う。その声音に嘘はなさそうだったので、真澄は買った食材をしまっていく。


「あ、そういえば」


 真澄は片付けながら、稜に聞きたいことがあったんだ、と話す。彼は椅子に座ったまま、身体ごとこちらに向いたので、ちゃんと話を聞いてくれるらしい、と嬉しさで笑った。


「そんな真面目な話じゃないよ。スーパーで気になってお酒を見たんだけど」


 真澄はスーパーで感じたことを話す。


「プルタブ横に書いてある点字は、何て読むのかなって」

「ああ、あれか。あれは【おさけ】だよ」

「へぇ」


 さすが稜、お酒は飲まなくても、点字はチェックしていたらしい。自分の予想は半分当たっていたかな、と真澄は思った。確かに、目が見える人のためにも【これはお酒です】と書いてあるな、と気付く。あらゆる人へ向けた、誤飲を防ぐための注意喚起なのだろう。


「稜はお酒、飲んでみたいと思う?」

「試しに飲んでみるくらいなら。興味はある」

「そっか。誕生日九月って言ってたよね。二十歳になったら飲んでみる?」


 真澄がそう提案すると、稜は嬉しそうに笑った。


「え、祝ってくれるの?」

「もちろん。その日は少しご飯も豪勢にしようか。当然、稜のお父さんに食費の上乗せの許可がいるだろうけど」


 真澄はそう言うと、彼は少しテンションが落ちたようだ。どうしてだろう、と思っていると、彼は「そうじゃなくて」と呟く。


「仕事としてじゃなく、友達として祝って欲しいんだけど?」

「……っ、ごめんっ」


 真澄は反射的に謝った。確かに今の言い方では、仕事の一環として捉えられても仕方がない。

 でも、稜は笑う。


「あ、謝った。けど、今のは見逃してやる」

「う、ごめんてば……」


 真澄はまた謝る。客以前に稜は友達だ、今の反応では怒っても仕方がないし、真澄が謝るのは当然だと思う。けれど稜は機嫌よく笑っていた。そんなに真剣に咎めている訳じゃないらしい。


「真澄の誕生日は? 八月だっけ?」

「え、僕?」


 真澄は動きを止める。稜の誕生日を祝うことばかり考えていて、その前に自分の誕生日が来ることを失念していた。

 今度は真澄が質問する。


「……祝ってくれるの?」

「もちろん。親父に食費の上乗せお願いしてな」

「……」


 真澄は言葉が出なかった。自分に関するお祝いごとは、両親が亡くなってからはしていなかったから。


「どうして……そこまでしてくれるの……?」


 だから、そう尋ねた声は本当に戸惑ったように聞こえたと思う。今までに誕生日を祝い合う友達なんていなかったし、真澄が稜に憧れはしても、稜が真澄に優しくするメリットはない。そう思うのに。

 すると、彼は軽く笑ったのだ。


「……ははっ、真澄はやっぱり本気で嬉しい時、戸惑うんだな」

「だって、僕は何も返せないから……」


 そう、今までずっと、見返りを求める人に接してきたから、何かを返さなきゃと思ってしまうのだ。それは優しさや思いやりという目に見えないものではなく、もっと物理的なもので。


「いやいや、いつも家事や介助をしてくれてるから、そのお礼に俺がやりたいの」

「え、だってこれは仕事だから……」


 真澄はさらに戸惑う。だってそうだ、そのために対価は稜の父親から受け取っている訳だし、それ以上でもそれ以下でもない。これ以上何かを返されたら、自分は一体、どんなサービスを稜にすればいいのか。


「わかった、こう言えばいいか? 料金を支払っているのは真澄の仕事上の行動に対してで、俺は真澄の気持ちに対して感謝をしたい」

「……いや」


 真澄は首を振った。そんな大したことをしていないし、その気持ちだって労働の一部だ。改めてお礼をされる程のことではないと思う。

 すると稜は苦笑した。


「真澄……本当にあんたって人は……」

「ご、ごめん……」


 真澄は謝ってハッとする。また謝ってしまったと思って口を噤むと、稜は立ち上がってカウンターまで来る。


「真澄、ちょっと来て」

「え……」

「良いから」


 なぜ、と思いながら真澄はカウンターのそばに行くと、稜の手が伸びてきた。カウンター越しに指先で首の当たりを探り当てられ、そのままその手は頭に上がる。そしてよしよし、と頭を撫でられた。


「思ったより根深かったな……。じゃあ、俺の誕生日と祝い合いっこしよう。それなら良いか?」


 頭を撫でながら、稜はそんなことを言ってくる。不思議なことに、以前頭を撫でられた時より抵抗する気はなく、真澄は大人しく撫でられていた。そして、なぜか親に褒められた時のような、胸の温かさを感じている。ここのところ、稜といるとよく出てくる身体の変化だ。


「……うん」

「よし、決まり。それでいつだ? 誕生日」


 カウンターに肘をついた稜は、目を細めて笑った。優しい視線はいつも通りだけれど、真澄にはある変化が起きていた。

 心臓が、心地よい速さで動いている。普通より速いのに、緊張した時とはまた違う、胸の苦しさ。

 どうして彼はここまで人に優しくできるのだろう。そう思うほど、無条件の優しさに真澄は触れてこなかった。そして両親以外からのそれに、真澄は喜んでいる。もう、誕生日を祝ってもらうなんてこと、ないと思っていたから。


「八日……」

「え、すぐじゃん。よかった、八月入る前に聞いて」


 稜は心底ホッとしたように言った。その日は泊まりでおいでよと言われ、真澄は頷く。


「……ありがとう」


 照れくさくて小さな声で言うと、稜は心底嬉しそうに笑った。

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