第6話

 次の日は、朝から土砂降りだった。そのせいかはわからないけれど、大学に内藤は来ておらず、平和な一日を過ごすことができる。

 毎日こんな風に、誰かに絡まれることなく過ごせたら良いな、と思っていたけれど、そうはいかないのが世の常で。


「え……?」


 帰り際、真澄は目の前にいる、数人の男女を見て呆然とする。彼らは一様に嫌な笑みを浮かべていて、真澄は視線を逸らした。


「だからー。真澄のバイト先、買い物したらちょっとお値打ちにしてくれるんだろ? 人の話聞いてた?」

「え、だって、僕そこはもう、辞めたし……」


 内藤が暴れて強引に商品を持ち帰ってしまったことが、こちらの学生にも広まってしまったらしい。


「え、内藤はよくて俺らはダメなの? 何で?」


 図々しくも、彼らは内藤と同じ扱いをしろと言うらしい。友達でも何でもなく、ただの顔見知りなのに。


「いや、内藤くんだって、別に許した訳じゃ……」


 強引に迫る内藤に、ダメだと言いつつも押し負けてしまった真澄の落ち度だった。けれどそんなことは、目の前の彼らには関係ないらしい。


「じゃあいい。正規の値段で買うから真澄がちょっと出してよ」


 辞めたなら、さすがに割引きしろなんて言えないしねー、とその場にいた女の子は笑う。よく見たら、真澄が先日代返した時に、内藤といた女の子だった。


「で、でもっ、僕、今月内藤くんがお店に迷惑掛けた分の補償も払ってるし、カツカツだから……っ」

「あんたの言い分なんて聞いてねぇのー」


 ほら出しな、と手を出してくる彼らに真澄は怖くなって、早くこの場を収めるために財布を出してしまう。そこから万札を一枚出すと、彼らはあっさりと引いた。


「何だ、持ってんじゃん真澄。サンキュー」


 そう言いながら耳障りな笑い声を上げて、彼らは去って行く。

 真澄は財布を強く握りしめて、自分の情けなさに唇を噛んだ。

 ――何もしてないのに謝らないでください。

 稜の言葉が蘇る。

 わかっている。声を上げられないのは自分のせいだ。けれどここで騒いで、もっと面倒なことになるくらいなら、丸く収まる方法を取った方が良い。自分は稜みたいに強くはないから。


(……きっと、脇崎さんならハッキリ断るんだろうな)


 そう思うと、ますます自分が情けなくなった。


 大学を出て土砂降りの雨の中、バイトに行くために一度事務所に寄る。


「あ、待ってましたよ高岩さん実はですね……!」


 相変わらず一気に話そうとする田口は、真澄を見かけるなり、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「今日で脇崎様のお宅へ伺うのも三回目でしょう? 合鍵を渡してもいいと!」

「はあ……」


 家事代行サービスの中には、依頼者が担当者に合鍵を渡すプランもある。しかしそれには、担当者と依頼者の信頼関係が不可欠で、初めての依頼の場合、最低でも二、三回は通常プランで様子見することが条件だ。


「すごく信頼して頂いてるみたいでわたくしも嬉しいですこのまま本当にベテランさんの穴埋めが……!」

「あ、じ、時間なので要件だけで……」


 またいつものようにヒートアップして、止まらなくなる前に、と真澄は口を挟む。そうでしたね、と田口は合鍵を預かる際の注意事項や、流れを説明してくれた。どうやらこのプランになると、直行直帰が許されるらしい。

 とりあえず今日は普通に出勤して、帰りに鍵を預かれば良いとのことなので、真澄はすぐに事務所を出た。

 外はもはや傘など意味を成さない程の雨。それでも両手でしっかり傘を持って歩く。

 ――すごく信頼して頂いてるみたいで……。

 どうして自分なのだろう、と思う。けれど悪い気はしなくて、真澄は口の端を上げた。こんな気持ちになるのは初めてで、先程まで自己嫌悪に陥っていたのに単純だな、と思う。

 真澄は稜の家に着くと、案の定玄関の鍵が開いていた。不用心だなと思うので、一度インターホンを押す。すぐに玄関までやって来た稜は、数メートル先まで近付いても、真澄が誰なのかわからない様子だった。


「どちら様ですか? もしかして……」

「高岩です。この雨ですし、勝手にお邪魔したら聞こえないと思って」


 そう言うと、稜は驚いたような顔をしたあと、笑った。その綺麗な変化に、彼でもこんな風に笑えるのか、と何だかくすぐったく感じる。


「不用心だと思いますよ、鍵を開けておくのは……」

「ああ、高岩さんが来るころにしか開けてませんよ?」


 どうぞ、と言う稜は壁に手を滑らせながら奥へと戻っていく。真澄は少し考えたあと、玄関にバックパックを置いた。足元が絞れるほど濡れていて、そのまま上がるのは躊躇われたからだ。


「あれ? 高岩さん、どうしたんです?」

「ああすみません、雨で濡れてしまったので、靴下脱いでから、上がらせてもらっても良いですか?」


 中に入って来ない真澄を不思議に思ったのだろう、稜が戻って来た。真澄は濡れたところだけでも固く絞って、できるだけ床が濡れないようにしようと靴下を脱ぐと、「何やってんですか」と強い口調で言われる。


「そういうことは先に言ってください。タオル持ってくるから待ってて」


 でも、と言いかけた真澄を無視して、稜はまた奥へと引っ込んで行く。そして「俺の服でよければ着替えます?」という声が聞こえてきた。

 正直ありがたかった。けれど借りるのは申し訳なくて、どうしようか迷っていると、しっかり着替えも持ってきた稜は呆れ顔だ。


「ここで仕事している間に、浴室乾燥機で乾かせば良いでしょう。何遠慮してるんです?」

「え、だって……僕はここに仕事をしに来た訳ですし」


 逆に世話をされては仕事の意味がない。こちらはサービスを提供する側であって、気を遣われては困るのだ。


「ベタベタの足で上がって、掃除を増やす気ですか?」

「……」


 稜の正論に真澄は黙ると、彼はタオルと着替えを真澄に渡し、リビングに引っ込んで行った。これは着替えないと許してもらえそうにない。そう思って真澄は申し訳なく思いながら、タオルと着替えを使わせてもらうことにする。次から、雨の日は着替えを持って来よう、と稜のハーフパンツに足を通した。


「あの、脇崎さん? 浴室乾燥機、借りてもいいですか?」


 着替えてリビングを覗くと、稜は待っていたらしく、すぐに廊下へと出てくる。


「もちろん。玄関から真っ直ぐ、突き当りが風呂場です」


 真澄は礼を言って向かうと、稜が言う通り突き当たりに浴室があった。置いてあったハンガーを借りて浴室に掛けると、乾燥機のボタンを押そうとパネルを見る。

 するとそのパネルには、ボタンの上に点字が書いてあるシールが貼ってあった。操作ボタンは暖房、乾燥、涼風、換気と四種類あり、それぞれ違う色で縁どりされている。けれどわざわざこうしているということは、稜にはその差がわからないようだ。慣れた家でも、不便なことってあるんだな、と真澄は乾燥ボタンを押した。


「ありがとうございます。早速夕食の準備に取り掛かりますね」


 制服のエプロンを着け、リビングに戻るなり真澄はそう言う。稜はというと、ダイニングテーブルにノートパソコンと、何やら機械を置いて作業をしていた。その機械は両手を広げたくらいの大きさで、ぱっと見、七つのボタンらしきものが付いている。何だろう、と思いながらキッチンに入ると、稜はその機械のボタンに指を置いて、ガチャガチャと音を立て始めた。

 真澄はその音に驚いてじっと見ていると、途中でチン、とベルのような音がする。何だか懐かしいな、と思った原因を探ってみると、思い出したのは小さいころに見た、バラエティー番組だった。

 両親が生きていたころに一緒に見ていたそれは、世界面白映像の特番だ。コミカルに機械をカタカタと鳴らし、一緒に演奏しているオーケストラに合わせて一つの曲を演奏していたな、と。父はその大袈裟な動きの演者に大笑いしていて、これは何の機械? と尋ねた覚えがある。


(ああ、これはね、タイプライターって言うんだよ)


 パソコンが普及するもっと前、文字を印字する為の機械はこれが主流だったと父は教えてくれた。真澄は使ったことも、見たこともなかったけれど、文字を打つ時の小気味良い音は、今も鮮明に覚えている。

 しかし、稜が打っているのはもっと小さなもので、音もうるさい。彼はイヤホンをして何かを聴きながらそれを操作していたため、あとで聞いてみよう、と夕食を作り始めた。

 夕食は昨日買ったサラダの食材の余りで韓国風にし、鶏むね肉でよだれ鶏を作った。雨が酷いから、昨日のうちに買い物に行っておいて良かった、と思う。

 そして昨日作ったカレーが余っていれば、アレンジしようと思っていたけれど、綺麗さっぱりなくなっていた。甘口カレーが好きだというのは本当らしく、完食してくれたことは素直に嬉しい。

 しかし食事はできたものの、稜はまだ作業中だ。集中しているようで、手を先程の機械に置いたまま目を閉じている。


(まつ毛、真っ直ぐだな……)


 真澄は食事をカウンターに置くと、その場で稜を眺めてしまった。

 彼の目は切れ長だが、まつ毛はそこそこ長く真っ直ぐ生えていて、こんな所もシャープだなと変に感心する。彼は目がキツイ印象はあるものの、笑えばかわいいし、一見、視覚障がい者だとはわからないからモテそうだ。


(いや、モテと障害は関係ないか)


 そんなことを考えていると、稜は機械から何やら紙を取り出して、その紙を指でなぞっている。そこで真澄もピンときた。


(点字の、タイプライター?)


 初めて見る、と真澄は興味をそそられ、ダイニングテーブルの椅子に座る。思った通り、紙には小さな穴がついていて、それをテーブルに置いた稜は、真澄が椅子に座っていることに気付いたらしい。


「うわっ、高岩さん、いるならいるって言ってくださいよっ」


 心底驚いたらしい稜は、慌ててテーブルの上を片付け始めた。すみません、と謝った真澄は、立ち上がってカウンターに置いた料理を、テーブルに置いていく。


「あ、また謝った。高岩さん、その癖直しましょうよ」

「……っ」


 また反射的に謝りそうになり、真澄は口をグッと閉じた。しかし稜は気にしていないのか、今日のおかずは何ですか、と聞いてくる。


「あ、よだれ鶏と、……韓国風サラダ、です」


 真澄は、稜にタイプライターのことを聞こうと思ったタイミングを逃し、食事の準備を進める。ガッツリ肉って嬉しいなぁ、と本当に嬉しそうに呟く稜に、真澄は顔が綻ぶのがわかった。


「やっぱ僕らくらいの歳は、ガッツリ肉が良いですよね」


 そう言いながら、真澄は稜の食事の好みを知らない事に気付く。仕事をする上で知っておいた方が良いと思い、聞いてみた。


「食事のリクエストがあれば教えてください。できる限り応えますので」

「本当に? うわ嬉しいな」


 そう言って笑う稜は、何だか子供のようでかわいく見える。ハッキリものを言う性格は、何もネガティブな事柄に関してだけじゃない、と気付いた。

 そして、苦手だと思っていた彼に、かなり警戒心が解けている自分に驚く。

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