第4話

 どうしてこうも、自分はついていないのだろう。真澄は夕方、稜の家に着くなりそう思う。「鍵は開けておくから、勝手に入って昨日の続きをしてくれ」と指示を受けたものの、昨日は自室にいた稜が、ダイニングテーブルにいたのだ。

 正直、監視されているようでやりにくい。

 それでも、イヤホンで何かを聴いているらしい稜の邪魔をしないよう、エプロンを着けて掃除を始める。生ゴミに大量のバナナの皮があったので、それをまとめて捨てると、ふと、あることを思い出した。

 仕事内容に、買い物も含まれていたなと。

 そしてついでに、稜がスーパーでどのような扱いを受けているかも思い出した。ハッとして冷蔵庫や辺りを見回してみると、マイバッグに入った大量のバナナを見つける。


「わ、脇崎さんっ」


 慌てて声をかけた。もしかして、まともな食事を摂れていないのでは、と思ったからだ。

 すると稜はイヤホンを取って、驚いたような顔をこちらに向けた。まるで、いつの間にいたんだ、とでも言いたそうな顔だ。


「高岩さん? いつの間に……」


 やはり彼は気付いていなかったらしい。それよりも、と真澄は続ける。


「買い物行ってきますっ。バナナばかりじゃダメですよ!」


 そう言うと、稜は切れ長の目を見開き、それから苦笑した。諦めが入ったようなその表情に、なぜか真澄まで胸がシクリと痛む。

 すぐに掃除を切り上げ、出掛ける準備をした。まともな食事ができないしんどさは、真澄自身も経験がある。思考も体力も落ちていくから、良いことなんて何もない。


「俺も行きます。散歩したいんで」

「え、でも……」

「財布がいるでしょう? ちょっと遠いけど、違うスーパーに行きましょう」


 そう言われて、彼は待っているつもりがないことを悟る。わかりました、と返事をすると、彼は貴重品を取りに自室へ戻った。


(違うスーパーって言った……。やっぱりあのスーパーは行きたくないよな)


 それもそうだ、と真澄はバックパックを掛ける。すぐに降りてきた稜は、いつかと同じように真澄の右肩に手を置いた。


「気付いているかもしれませんが、俺は弱視で、完全に見えない訳じゃないんです」

「弱視……?」


 あまり馴染みのない単語に、真澄は振り返る。すると歩いて、と言われたので言う通りにした。


「すみません。介助は必要ないと突っぱねたのは俺なんですが、早々に食い物に困ってしまって……」


 だから契約内容に、稜の介助は入っていなかったのか、と納得する。それにしても、それを了承する父親もどうかと思ったが、深掘りすると面倒そうなので黙って話を聞くことにした。


「玄関の前で止まってください。……ありがとうございます」


 言う通りに動いただけなのに、意外にも礼を言われて面食らう。今までの彼の発言から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。

 真澄は靴を履くと、稜を待つ。玄関框に座って、やはりスムーズに靴を履いた稜は立ち上がると、立て掛けてあった白杖を持ち手を出して、「肩を貸してください」と言う。真澄は再び肩を貸すと、「ドアの外に出ましょう」と言われた。

 二人で外へ出て、稜は鍵の位置を手で確認しながら、鍵を閉める。やはりその動作に迷いはなく、それだけを見ても普通の人とそんなに変わらない。


「俺の介助は契約に入ってないので、今日を最後にしますね。ただ、当面の食事だけは……」

「それはダメです脇崎さん」


 やはり家事代行の契約を終了させようとする稜に、真澄は思わず強い口調で返した。カレーの具材を買っていたあたり、彼は食事を作ろうと試みたのだろう。けれどできないとわかって、調理が必要ないバナナを買い込んだのではないだろうか。


「食事だけはと言うのなら、食事が大切だと自覚してるじゃないですか。おざなりにすると、ろくなことにならないですよ」


 そう言うと、彼はなぜか笑った。そして歩くよう促されたので、言う通り歩き出す。稜は左手を真澄の肩に置いたまま、右手で白杖を操っている。


「高岩さん……気弱だと思っていたのに、案外頑固なところもあるんですね」


 門扉を出たら左です、と言う稜は、なぜだか楽しそうだ。真澄は少しムッとしたものの、仕事中だと思い出し、黙る。


「俺、完全に見えない訳じゃないから、晴眼者と同じように暮らせると思ってました。家族にかなり支えられていたって気付いて、反省しているところです」


 稜からまた、反省という殊勝な単語が出てきて、真澄は本当かな、と思う。思うだけで言わないけれど。


「僕から見たら、見えていないとは思えないほど、動きがスムーズでしたけど?」


 階段を上がって自室に行ったり、玄関で靴を履いたりする動作も違和感がなかった。真澄はそう言うと、斜め後ろにいる稜は苦笑する。


「家の中は、慣れてるからですね。生まれてからずっと住んでる家なら、よそ見してても少しは動けるでしょう?」

「なるほど……」


 それでも、普通の人と比べると、その苦労は計り知れない。彼が難なく動けるようになるまでに、家族も本人も、どれだけ気を揉んだだろう。

 でも、稜は笑うのだ。


「正直、あのスーパーには行きたくなかったので、高岩さんがいてくれて助かりました」

「……」


 ――偽善者。頭の中で声がした。

 真澄は静かに首を振る。これは仕事なのだから、偽善も何もない。決して自分は、良いことをしようとしている訳ではない。そう心の中で強く言い聞かせた。


「まぁ……あの店は、店長からしてアレですから……」


 自分も一時的にあの店の一員だったとはいえ、稜の話に乗って店を貶すのも、庇うのも違うと思った。深い話はしたくないので苦笑して曖昧に応えると、稜は意外なことを口にする。


「ああ……でも、ああいう人はどこにでもいるので」


 ――だから助けて。真澄の脳裏にまた、いないはずのアイツの声がした。掴まれている右肩がムズムズして不快で、振り解きたい衝動に駆られる。


「慣れたくはないですけど、……世の中そんなもんかって思いますよ」

「え……?」


 脳裏に響く騒がしい声を無視していると、その声とは違う稜の声がした。


「所詮、弱者よりその他大勢の為に世界はつくられているって、いつも感じます」


 だからって、声を上げるのを止めることはしませんけどね。稜は確かにそう言った。

 真澄は不思議な感覚に陥る。今まで真澄の周りには、苦労しているから助けてもらって当然だ、弱いから守られて当然だ、と大声で言う人が多かったからだ。そんな人に、真澄はずっと振り回されてきた。保護者の責任を果たさない叔母や、自分の能力以上のことを求めたうえ、できないと偽善者となじる元同級生。その人たちとは、圧倒的に違うんだ、と気付かされた。

 口調はストレートであるけれども、それは裏がないとも取れる。そして、稜は社会的弱者であるからこそ、その他大勢と同じように過ごせるよう、声を上げ続けているのだ。

 ――本当に、強い……芯の強い人なのだ。


「まぁ、愚痴っぽくなるのであまり言いませんけど」


 歩道橋の交差点を渡って左です、と稜は言う。

 正直、稜が受けているのは差別だ。けれど臆することなく、それはおかしいと言える強さは、真澄にはないものだ。

 対して自分はどうだろう? 理不尽な扱いをされても声をあげず、自分のせいにされてもそれを受け入れてきた。日本人離れした容姿をからかわれ、叔母に邪魔者扱いされてきた過去のせいで、地の底まで落ちた自己肯定感がそうさせているのだ。

 自分が恥ずかしくてさらに落ち込みそうになる。同じくらいの歳なのに、こんなに芯が強い人は、初めて見た。

 ――苦手だけど、憧れる。相反する気持ちに、真澄はやはり戸惑った。どうしていいのかわからず黙って聞いていると、稜から声を掛けられる。


「声でリアクションしてくれないと、わからないですよ」

「……っ、すみませんっ」


 反射的に謝ると、稜は「違う違う」と苦笑した。


「責めてる訳じゃないんです。ただ、俺は見えないから、声で判断するしかなくて」

「……でも、完全に見えない訳じゃないんでしょう?」


 弱視と言っていたから、多少は見えるらしいけれど、それがどの程度なのか真澄にはわからない。それに、目が悪いのに眼鏡を掛けていない理由もわからなかった。眼鏡をすれば見えるだろうし、介助や白杖は必要ないのではないか。


「色がハッキリしたものは、何となく輪郭でわかる程度です。……高岩さんは全体的に淡い色ですね」


 真澄は外見に言及され黙る。話の流れと、稜が視覚障がい者ということから、他意はないとわかっているけれど、やっぱり思ったことをストレートに言う彼のことを、苦手だと思ってしまう。


「……高岩さん?」


 反応がない真澄を、窺うような声音で呼ぶ稜。真澄はスーパーらしき看板が見えてきたので、店名を聞いて目的地を確認した。


「……もしかして、淡い色って言ったのが気に障りました?」


 すみません、と言う稜はいつもの調子だ。だから本当に他意はなかったとわかる。彼は声色でしか判断できないと言いつつも、人の機微には敏いらしい。


「すみません、外見をどうこう言われるのは、あまり好きじゃなくて……」

「そっか。それは失礼しました」


 稜は素直に謝ってくれた。けれど、自分でも神経質だなと思う。言われたのは色だけで、それがおかしいとも、気持ち悪いとも言われていないのに。なにより、彼は真澄の顔が見えていないかもしれないのだ。

 二人は店に入ると、カートとカゴを用意する。前と同じように真澄がカートを引いて、その肩を稜が掴んだ。


「……あの、脇崎さんは、僕の顔、……どこまで見えてるんですか?」

「ん? 人がいるな、という程度ですよ。高岩さんの場合、髪の毛と顔の境目や、顔のパーツはわかりにくいです」


 なるほど、と真澄は思った。本当に彼は事実を言っただけで、真澄を傷付ける意図はないのだとわかる。そんな人に出会えたのは久しぶりだし、それが嬉しいと思ったのは初めてだ。


「……脇崎さん、何を買いますか?」


 目が見えないからこそ、ハッキリものを言う稜。時折それがキツく感じることもあるけれど、悪い人じゃない。真澄は彼にそんな印象を持ち、気持ちを改めて尋ねる。

 すると稜は少し間を置いて、カレーが食べたいと言った。


「甘口のですか?」

「そう。この間失敗したから」

「わかりました。僕が作りましょう」


 真澄はそう言うと、稜は「ありがとうございます」と笑った。

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