第2話
真澄が大学を選んだ基準は、知り合いがいないこと、ただそれだけだった。早く叔母の家から出たかったし、自分を知っている人がいない土地に行けば、何かが変わる気がしたのだ。
けれど、世の中そんなに甘くなかった。最初は親切に声を掛けてきてくれた内藤が、徐々に本性を表してきたのは一年生の秋ごろだっただろうか。同じ専攻なので課題の代筆や、代返を頼まれることが増え、それが周りの学生にも伝わった。
「……というわけでさぁ、これからどーしても外せない用事ができたから、代返頼むな?」
女の子の肩を抱きながら、内藤はそう言う。その状態でどうしても外せない用事とは何だろう、と真澄は思うけれど、言うとややこしくなるので黙って苦笑した。
「内藤くん……あの、ちゃんと授業受けてる? 教授もそろそろ気付くんじゃあ……」
「あ? お前がしっかりやってくれりゃあいいんだよ」
さすがにそろそろまずいと思って、勇気を出して反論すると、語気を強めた内藤は「なー?」と女の子と笑っている。反射的にごめんと謝ると、内藤はイライラしたように真澄を見下ろす。
「なら最初から文句言わずにやれよ。せっかく綺麗で目立つ顔してんだから、教授に甘えたら許してくれるだろ」
許してもらうのは真澄ではなく内藤なのだが、彼いわく、内藤の言動まで責任を取るのが真澄の役割、らしい。なぜなら、真澄が孤立するのを防いでいるのは内藤だから、という理由だ。親切には親切で返せ、という内藤の持論らしい。
確かに、誰も知らない土地に来て、心機一転すれば上手くいくと思っていた自分も甘かった。けれどこれでは、高校生時代と変わらない。
日本人離れした容姿で目立つ真澄は、幼少のころからよくからかわれていた。家庭の事情もあって大人しかった真澄は、大きくなるにつれていじめの対象になっていく。
自分でも、原因はわからなかった。けれど真澄の『友達』はいつも、最初は優しいのに段々相手がイライラしていくのだ。そして最終的には離れていく。
「またあのスーパーで『買い物』してやるからさ。売り上げ貢献してやるよ、貧乏な真澄のためにな。俺は『友達』だから」
そう言って、高笑いして去っていく内藤。その手が女の子の腰から尻を撫でるところを見てしまい、真澄は視線を逸らす。
――友達だよね?
高校生の時に、言われた言葉がリフレインした。
「……はぁ」
真澄はため息をつく。
どうして、こんなにも生きづらいんだろう?
明るく、楽しい大学生生活は、自分には送れないのだろうか? そう思うけれど、何をどうしたら楽しくなるのか、真澄にはわからなかった。
真澄の母は、小学校低学年の時に事故で亡くし、父は中学に入学したころ病気で亡くした。外国人と結婚するなんて、という今どき古い価値観の親戚から、逃げるように結婚した両親。それでも親戚の間で、残された真澄を放っておけば世間体が、という話になり、真澄は叔母の家に世話になった。
そこでの扱いは、真澄が早く家を出たがったことから察せられるだろう。
家でも学校でも邪魔者扱いされ、やっと親しくなったかと思えば相手をイラつかせる。だから目立たず、愛想良く笑って大人しくしているのに、容姿のせいで絡まれてしまう……その繰り返しだ。
『意味もなく謝るのはやめた方がいいですよ』
バイト先で出会った、脇崎の言葉が蘇る。
そんなこと、わかっている。しかし、長年身を置いていた環境や状況で、染み付いた癖はなかなか直らない。
だから、それを直球で指摘してくる脇崎は、苦手だ。そもそも、ああいうタイプは声が大きくて、自分が正しいと思った意見を通そうとする。その裏で、声を上げられずにいる人のことなど、考えはしないのだ。
――でもそれは、仕方のないこと。自分がどれだけ頑張ったって、その声は誰も聞いてくれないのだから。
真澄は講堂に入ると、出席カードに自分と内藤の名前を書く。
(……大学だって、地元を離れる口実でしかなかったし)
だから別段、勉強に力を入れている訳でもなかった。何となく過ごして何となく社会人になれたら、完全に一人で生きていける。そう思っていた。だからもう少しの辛抱だ、とも。大学は、その後の就職をスムーズにするための通過点なのだ、と。
けれど、とくにやりたいことや興味があることもない真澄は、就職活動で躓くことは目に見えている。
(……そうだ、次のバイト先考えないと)
授業中にも関わらず、真澄はこっそりスマホを見る。板書はしているため、その合間に検索をしてみた。すると、隙間時間の一、二時間、未経験者歓迎の文字が目に入る。
(家事手伝い……。確かに、家事なら僕でも隙間時間でできそうだな)
その求人募集は、家事代行スタッフ派遣会社のものだった。しかも軽く研修があり、家事は長年一人でやってきたようなものだから、これなら、と思う。真澄はそのままその求人サイトに、メールフォームを使って応募をしてみた。
とくにやりたいことがないので、こだわらなければ仕事はいくらでもある。そんな気持ちで応募したのも、今のスーパーのバイトだった。今まで絡まれたり、先輩や上司をイラつかせたりして、どれも長続きしなかったバイトだったが、今度はどうだろう、と真澄はぼんやり考える。
(家にお邪魔して掃除したり、買い物したり? よく考えたら、相手は金銭的余裕がある人、になるのかな)
それだったら、依頼主家族との相性だけ考えればいい。接客中に横から絡まれることもないし、仕事さえしていれば、すぐに謝る癖も出ないだろう。
――でももし、とても気に入られてしまったら?
「……っ」
やめやめ、と真澄は首を振る。気に入られたとしても相手は大人だ。それなりの分別はつくだろうし、起こる前のことを心配しても、意味がない。そう思って真澄は板書する。
そして、授業が終わると同時に、教授に呼ばれた。
「きみ、内藤さんと仲良かったよね? 連絡先知ってる?」
――ドキリとした。危惧していたことが起きたか、と心臓が嫌な音を立てて速くなる。
「し……って、ますけど……」
「じゃあ今から電話してくれる? 私が話をするから」
そう言って、手を出してきた教授。スマホを出せということらしい。
真澄はおずおずとスマホを出すと、内藤に電話をかけた。そのまま教授に渡すと、すぐに内藤は出たらしいけれど、教授は眉を顰める。
「……昼間っから何してるんだ? これ以上高岩さんに代返、代筆させるなら、今後何をしても、きみの単位は認めないから」
「……っ」
やはりバレていたか、と真澄は息を飲む。けれど内藤は大人しくなるどころか騒いでいるらしく、怒鳴り声が真澄にも聞こえてきた。てめぇチクったな、とか、あとで覚えてろよ、とか聞こえて、真澄はさあっと血の気が引く。
そして教授には当然、内藤の脅しなんて効く訳もなく、そのまま通話を強制的に終わらせた。はい、といつもの調子でスマホを返され、真澄はどうしようと狼狽える。
「ちゃんと断らないと。ああいうのは、つけ上がるだけだよ?」
「す、すみません……」
どんなに嫌だと言っても断れなかったことを、電話一本で済まされて真澄は情けなくなった。しかも内藤のあの様子では、逆恨みしているのは確実だ。
「内藤さんの素行を知ってるから、今回きみは咎めないけど。きみもまた彼に協力するようだったら、対応を考えます」
「……っ」
それじゃ、と教授は荷物をまとめて講堂を出ていく。
すみません、と小さく呟いた声が、さらに情けなさに輪をかけた。内藤が暴走している原因の一端に、自分がいることはわかっている。
――友達だよね?
また脳内にリフレインして、真澄は血の気が引いた。そして頭を振って、アイツと内藤は違う、と考えを振り切る。
真澄が高校生のころ、真澄と同じくいじめの対象になっていた男子生徒がいた。ある日、怪我をしていた彼を手当てしてから、真澄の生活は悪化する。
背が低く、体格も小さい子だったため、彼はそれから真澄の所へ逃げてくるようになった。辛い、もう嫌だと泣く彼の話を親身になって聞いているうちに、彼の悩みや恋愛相談も受けるようになっていく。
この時から、彼の心の距離のとり方はおかしいと感じ始めた。やけに距離を縮めようとするし、真澄がいるなら誰もいらない、とまで言うようになる。そんな彼が口癖のように言っていたのが「友達だよね?」だ。
しかし、実際真澄が感じていたのは友達以上の感情――自惚れでなければ恋愛感情の先の、執着だ。
弾かれた者同士、人けのないところで傷を舐め合う関係。けれど、何度も友達だよねと念を押されて、真澄は怖くなってきた。言葉では友達だと言いつつ、目や仕草に媚びるようなものがあり、けれどハッキリと口にはされず、真澄はどうしたらいいのかわからなかった。
そして気弱な真澄は、正しい友達のあり方を彼に示せなかった。そのままズルズルと関係を続け、ある日、彼が暴行を受けそうになっていたところに遭遇する。
『真澄! たすけて!』
案の定、彼は真澄の後ろに隠れた。けれどあっという間に数人に囲まれて、足が竦んだ真澄は動けず、固まってしまう。
どうして助けてくれないの? 僕たち友達だよね? 僕のこと嫌いになったの?
矢継ぎ早に放たれる言葉が、真澄の心に重くのしかかった。違う、そうじゃないけど喧嘩なんて、と狼狽えると、彼はこう言ったのだ。
――助ける気ないなら優しくするなよ、偽善者。
そう言って、彼は真澄を喧嘩相手に向かって突き飛ばし、走り去っていった。
執着が、憎悪にひっくり返った瞬間だった。
そして、彼はそれ以降真澄の前に姿を現さなくなる。
その後、全校集会が開かれ、いじめに対する調査が徹底的に行われた。それで真澄は、一応平和に過ごすことができるようになったけれど、学校ではこんな噂が囁かれる。
どうやらいじめ調査が始まったのは、自殺者が出たかららしい、と。
真偽はわからないしそれが彼なのかは、未だにわかっていない。けれど真澄は、それ以上考えたくなかった。
「……っ」
不意にポケットに入れたスマホが震えて、真澄は肩を震わせる。スマホを取り出すと、内藤からの着信だった。
「もしも……」
『てめぇ真澄! チクったな!』
開口一番の怒声に、真澄は竦み上がる。反射的にごめんと謝ると、謝れば済むと思ってんなよ! と返ってくる。
『どうせお前が教授に、内藤くんをどうにかしてくださいって媚びたんだろうが!』
つい先程は、媚びて隠蔽工作をしろと言っていたのは内藤じゃなかったか、と思うけれど、真澄に反論する気力はない。どうにかしろと騒ぐ内藤の声が、高校生のアイツの声と重なった。助けて、友達なら何とかしてくれるよね、と。
――すぐに謝る癖やめた方がいいですよ。
不意に、脇崎の言葉が蘇った。でも、と真澄は首を振る。
そんなことはわかっている。すぐに謝るのも、強く出られたら断れないのも、自分がノーと言えないからだと。だって自分は、邪魔者で取り柄がなくて、見た目しか長所がないから。頼りにしてくれる人がいれば、どんなことでも役に立ちたいと思っているから。
――でもそれは、本当にその人の役に立ってる?
そう思って、ばくん、と心臓が跳ねる。
言わなきゃ。いま言わないと、さらに嫌なことに付き合わされる。
心臓が大きく動いて痛い。胸に手を当て、シャツをギュッと握る。
――言わなきゃ。いま、言わなければ。
「ぼ、僕だって単位かかってるんだ。これ以上、内藤くんに協力したら、僕も、どうなるか、わからないって……!」
息が上がって苦しい。それでも震える声でそう言い切ると、内藤は黙った。
そして聞こえたのは小さな舌打ちだ。
『……わかった。ほとぼりが冷めるまでは大人しくする』
けど、もう二度とヘマするんじゃねぇぞ、と言われる。真澄はさらに断ろうとしたけれど、一方的に通話は切られてしまった。
「は……っ」
――言えた。
ヘナヘナと、その場に座り込む。今更ながら手足が震えてきて、目頭が熱くなった。内藤があっさり引いてくれた安堵と、自分もやればできるんだという達成感で、緊張の糸が切れてしまったらしい。
よかった、と長い息を吐くと、再びスマホが震える。
真澄がスマホ画面を見ると、そこには家事代行スタッフ派遣会社からの【ご応募ありがとうございます】というメールが届いていた。
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