澄んだ声、重なる指先
大竹あやめ@電子書籍化進行中
1 榛色と白
第1話
「……はぁ」
六月の平日。ここは、とあるスーパーのバックヤード。
真澄の手にあるのは給与明細書だ。覚悟はしていたものの、一人暮らしの大学生にとって、減給はきつい。
「あはは……仕方ない、よな……」
真澄は乾いた笑い声を上げて、その紙をバックパックに突っ込む。これは自分が起こした問題に対する処分なのだ、来月までどうやって乗り切ろうか、と制服のエプロンに腕を通した。
ロッカー扉の内側に付いた鏡で、身だしなみを確認する。そこには榛色の髪の毛と、同じ色をした瞳の、いかにも気弱そうな顔が映っていた。真澄はすぐに鏡から視線を逸らし、ロッカーを閉め鍵をかける。
真澄はアメリカ人の母と日本人の父のハーフだ。物心ついたころから容姿についてからかわれることが多く、真澄は自分の容姿が嫌いだった。はあ、とまた、ため息が漏れる。
「何だ、凝りもせず来たのか」
不意に話しかけられ振り返ると、五十代ほどの男性がこちらを睨んでいた。真澄のバイト先――このスーパーの店長だ。
「すみません。内藤くんがご迷惑を……」
「迷惑ついでに、お前も辞めてもらってよかったんだがな」
謝罪を言い終わる前に、店長はそう言って更衣室から出ていく。真澄は笑顔を貼り付けたまま、大きく脈打つ心臓を宥めるように胸に手を当て、ため息をついた。
真澄は昔からなぜか絡まれやすい。今回減給されたのも、大学で何かと絡んでくる内藤が、友達価格で売ってくれと暴れて、その間に彼の仲間が商品を『持って行って』しまったからだ。本来は警察に内藤たちを突き出すべきなのだが、早く丸く収めたいと思った真澄は、自ら弁償をすると申し出た。
すると店長は、渡りに船とばかりにそれを快諾する。お前はトラブルメーカーだから辞めてもいいんだぞと言われたけれど、せめて次のバイト先が見つかるまでは、いさせてくださいと頼み込んだのだ。
やっとのことで自立するチャンスを掴んだのに、何をするにもお金が必要で――しかも自分が思った以上に――生活はカツカツだ。
はっ、と短く息を吐いて気合いを入れると、店内に入るためスウィングドアに向かう。すると、パートの女性二人が、大きな声で話しながらバックヤードに入って来た。
「最近よく来るよねあの人!」
「ほんと! こっちだって仕事あるのに、あれはどこだこれはどこだって……自分で探してよって思う!」
どうやら面倒な客が来たので逃げて来たらしい。真澄も内藤のことがあったばかりなので、トラブルが起きませんように、と店内へ入った。
しかしそんなに広くない店内の上に、客もまだ少ない時間帯。パートの女性が噂をしていた人は、すぐにわかる。その人は辺りを見回しながら「すみません」と声をかけていた。
声をかけられた以上、店員として無視をする訳にもいかず、真澄はその人の元へ行く。
声をかけていた人は男性で、黒髪を短く切り、梅雨のジメジメも吹き飛ぶような、鮮やかな青色のシャツを着ていた。真澄を呼んでから棚を見ているのか、眉間に皺を寄せているが、その目は切れ長で鋭い。細いけれど節くれだった右手には、白い何かを持っていたけれど、真澄にはそれが何なのかわからなかった。カートのカゴにはじゃがいもと玉ねぎと人参、鶏肉、カレー粉が入っている。カレーでも作るのかな、と真澄は思った。
「何かお探しですか?」
「……カレールーはどこですか?」
「あ、はい。こちらに……」
丁度その陳列棚の所にいたので、真澄は数歩先へ案内した。一生懸命探しても、目の前にあったら気付かない、なんてことはあるあるなので、真澄は気にせずその場を去ろうとする。
「あ、ちょっと待ってください。甘口はどれです?」
引き止められた瞬間、真澄は「この人自分で探す気がないのかな」と思った。買い物に付き合わされるという噂は、間違いではないらしい。真澄は笑顔で答える。
「……こちらです」
真澄が手で指し示すと、男性はさらに目を細めてそこを見る。これですか? と聞くので、やけに念を押すな、と思いながらパッケージを一つ取った。
「これです」
取ったものを差し出すと、彼は指先を箱の上に滑らせてから受け取る。真澄はその行動に違和感を覚えたけれど、次の瞬間、その正体が判明した。
男はパッケージを、鼻が付くくらいまで近付けて物を確認したのだ。
(もしかして、目が見えない人?)
だったらパートさんが買い物に付き合わされる、と言っていたのも頷ける。彼は商品を探す気がない訳ではなく、目的のものが見えないだけなのだ。
「あ、うん、これこれ」
ありがとうございます、と彼はカレールーをカゴに入れた。真澄は彼の言動で、疑問に思ったことを口にする。
「あの、甘口のルーに、カレー粉を入れるんですか?」
しっかり確認するほど甘口を選ぶのに、わざわざスパイシーにするカレー粉がカゴに入っていることが、不自然だと思ったのだ。目が見えていないなら、間違えてカゴに入れてしまったのかもしれない、と真澄は聞いてみた。
すると彼は驚いたような顔をする。
「え、カレー粉が入ってます? コンソメじゃなくて?」
「はい。……これです」
真澄は小さな赤い缶をカゴから取り出した。ああ、と声を上げた彼は眉間に皺を寄せる。
「さっき女性店員さんに聞いたら、それをコンソメだと言って入れられたんです」
良かった、と言った彼の発言に真澄は驚いた。考えたくはないけれど、その女性店員は、彼が目が見えないことを知っていて、カレー粉を入れたのだろうか?
(……良かった、この人が困らなくて)
まだご入用のものはございますか、と尋ねると、彼はありがとうございます、と笑った。
「このスーパー近いから来てるんですけど、ほかの店員さんはみんな俺を邪魔者扱いするんですよね」
「それは……申し訳ありません……」
真澄自身が咎められた訳ではないけれど、店の店員としてあるまじき態度に、何てことを、と深々と頭を下げて謝罪をした。しかし男はそれほど深く考えていないらしく、介助をお願いできますか、と尋ねてくる。
「はい、もちろん。ほかには何をお求めですか?」
「あとはおやつと、飲み物と……」
聞いた商品名はいわゆるジャンクフードと呼ばれるものだった。学生の一人暮らしみたいな買い物だなと思って、真澄は彼を見上げる。
見た目は真澄と同じくらいか、年上だろうか。見た感じは眼鏡もしていないので、目が見えないとは思えない。背が高くてスラッとしている……と言うより、ひょろ長い印象だ。
「ああ……えっと、店員さん、名前は?」
「え、高岩ですけど……」
「声の感じからして歳も近いかもですね。……高岩さんがカートを持ってくれますか?」
言われるがまま、真澄は男が持っていたカートを押した。その真澄の手を辿って、彼は真澄の右肩に手を置く。どうやらこの状態で付いてくるようだ。
「俺は
ここにはまともな店員がいないみたいだし、と言う彼は、カレー粉を手で探り、カゴから取って真澄に渡した。どうやら戻せということらしい。しかし脇崎は、目が見えないと言う割には動きがスムーズだ。先程パッケージを思い切り近付けて見ていたあたり、完全に見えない訳じゃないのかもしれない。
「もちろんです。……最近よくここに来られるって聞きました」
「……ああ。やむを得ず一人暮らしをすることになって……」
「一人暮らし?」
それは大丈夫なのだろうか、と言いかけて、さすがに初対面なのに踏み込みすぎだろう、と口を噤む。さすがに連続でトラブルに巻き込まれたくない、と思って「何でもないです」と誤魔化した。
「父の転勤に母と妹も付いて行ったんです。俺はやりたいことがあるので残ったんですけど」
あ、ビターチョコください、と喋りながら言う脇崎。真澄はこれ以上深入りしたくなく、「そうですか」と愛想笑いをした。
「おい高岩」
すると後ろから声をかけられ、真澄は肩を震わせる。見ると店長がこちらを睨みながらやってくるところだった。真澄は反射的に笑顔を貼り付ける。
「堂々と仕事をサボるとはいい度胸だな」
「あはは……すみません。でもこれは接客で……」
真澄が反論すると、店長は「ああ?」と高圧的な声を上げた。
「接客だぁ? 見えてる癖にわざとらしく杖使う奴の相手なんか、する必要ないだろ」
さも自分は間違っていないとでも言うように、声を大きくした店長。真澄は反射的に乾いた笑い声を上げながら、すみません、と謝ってしまった。
「この前みたいに、こうしている間に商品をちょろまかすんじゃないだろうな?」
「いえ、そんなことは……」
「すみません」
真澄が謝ったことで、店長の矛先がこちらに向いたらしい。先日の内藤とのことを蒸し返してきた彼を、冷静な声で割り込んできたのは脇崎だ。
「まだ買いたいものがあったのですが、帰ります。レジまで案内してくれますか?」
店内では白杖を使っちゃダメらしいので、と彼は片手に持った白い棒を掲げた。三本に分かれたそれは、分解された白杖だったらしい。
「す、すみませんっ」
真澄はそう言って、再びカートを押した。店長は呆れたのか、ふん、と鼻を鳴らして去っていく。
「すみません……何か」
店長が離れたころに真澄は苦笑してそう呟くと、脇崎は「何かって何です?」と返してくる。感情がこもっていない声色に、真澄は戸惑った。
「あなたは俺に何かしましたか? そうじゃないなら、意味もなく謝るのはやめた方がいいですよ」
「……すみません……」
彼の言うことはもっともだが、真澄はまた謝ってしまう。脳裏で「偽善者」と声がして、カートを押す手に力が入った。
会計を終えて、脇崎のマイバッグに商品を入れていると、彼は「ありがとう」と言ってくれる。
「あー……近いからここに来るしかないんだけど、やっぱり高岩さんばっかりに頼れないかなぁ」
脇崎は短い髪の毛をかき回すように頭を搔いた。いつ店にいます? と聞かれたので大学の授業の合間や休日に、と答えると、やっぱり歳が近いですね、と彼は笑う。
「あ、でも……もうここのバイト、辞めなきゃいけなくて」
ただの客、しかも初対面の人にこんなことを言うなんて、と真澄は思った。黙っていれば脇崎ともこの店ともさよならできるのに、なぜかこの時はその事情まで話してしまう。
「こうして接客している間に、その……友達が、レジに商品を通すのを
暴れる内藤を止めている間に、内藤の仲間たちは商品を持って行ってしまったのだ。グループでの犯行だったため、店長から真澄も仲間だと決めつけられてしまった。
「その責任を取って辞めないと……」
「それ、本当に高岩さんの責任です?」
思ったより強い声で言われ、真澄は息を詰めた。どうしてか、彼は目が見えないはずなのに、真っ直ぐこちらを見ていて、心を射抜かれたように動けなくなる。
「だ、……って、その人たちは、僕の、……一応、友達ですし……」
「……そうですか」
突き放すような声音に、真澄は苦笑して視線を落とした。こういう、思ったことをストレートに言う人は、苦手だ。こちらがどんな思いでいるかも考えないくせに、と少し恨めしく思う。そして、そんな風に考えた時こそ、真澄は口の端を上げるのだ。
「どちらにせよ、この店は高岩さんには合わなさそうですね。……介助、ありがとうございました」
そう言って脇崎は手を差し出す。エコバッグをその手に掛けると、彼は白杖を組み立てて店を出ていった。
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