第四章 戦闘

テスト直前にして、本格的な梅雨に入ったようだった。昨夜から降り出した雨は、翌日になり、正午近くになっても、止む気配は無かった。


 雨の日の授業は憂鬱さを孕んでいる。降り続ける雨により、生み出された重い湿気は、教室を満たし、澱のように、生徒達に纏わり付いていた。教室には、エアコンが備え付けられているものの、稼動しておらず、不快指数は依然、高いままだ。


 午前の授業が終わり、昼食の時間になった。ここ連日は、レイラと共に、食堂で昼食をとっていたが、今日はレイラは欠席をしていた。


 SNSで送られて来たレイラのメッセージによると、昨日の雨に濡れたせいで、風邪を引いたらしい。


 レイラのクラスでも、そのような連絡が伝えられたようだった。吸血鬼も風邪を引くのかと、ちょっとした話題になっている。


 直斗としても、昨日の『暴露』の件があり、あまりレイラと顔を合わせたくなかった。そのため、僥倖とも言えた。


 レイラが居ないので、直斗は裕也達、以前のメンバーで食堂に向かう。


 「何か久しぶりに直斗と飯を食うよな」


 裕也は食堂で、そう直斗に言った。それは直斗も同じ気持ちだった。


 裕也や俊一と食事をしている最中、時折、周りの生徒が、直斗へ視線を走らせて来る。数日間、毎日レイラとおしどり夫婦のように行動したせいで、直斗の顔もすっかり、全校生徒に知れ渡ってしまっていた。


 直斗は随分と慣れて来たため、さほど気に留めなくなったが、裕也や俊一は違っていた。二人は、見世物小屋に連れて来られた動物のような、戸惑ったな表情をしていた。当初の直斗と同じく、居心地の悪さを感じているのだろう。


 いつもレイラの件について、囃し立てる裕也と俊一に、同じ気持ちを味わわせることができたため、直斗の溜飲が少しだけ下りた。


 ちょっとだけ満足したまま、直斗は午後の授業を迎える。


 放課後になると。雨は上がり、晴れ間が見え始めていた。


 直斗は、裕也達と下校した。


 その際のことだ。 


 ある出来事があった。


 直斗は、校門まで来て、自宅でも使う参考書を教室に忘れたことに気が付いた。そして、裕也達には先へ帰るよう、声をかけた後、教室へと引き返した。


 直斗は、人がほとんど残っていない教室に入り、自身の机から、参考書を取り出した。そして、廊下へ出る。すると、少し先の窓際に、雨上がりの夕日に照らされた人影があった。その人影は、直斗を待ち受けていたようだった。


 「初めまして」


 透き通った声が聞こた。オレンジ色の光の中から、その人物が姿を現す。


 銀色のメンズショートの髪型に、端整な顔立ちを持つ男子生徒だ。身長は、直斗よりもやや低く、少女のような顔立ちと、白い肌を兼ね揃えている、中性的な少年だ。


 「ええと、確か転校生の……」


 「はい。先日転校して参りました、ルカ・ケイオス・ハイラートと申します。以後、お見知りおきを」


 ルカは、妙に丁寧な言葉使いで、挨拶を行う。そして、頭を下げた。夕日がルカの銀色の髪に当たり、サテンのように美しく煌く。


 「……」


 直斗は、ルカの挨拶には返事をしなかった。直斗は、怪訝そうに、猫に似たルカの目を見つめる。


 一体、何の用だろう? 直斗は疑問に思う。この転校生は、確か、一年生のはずだ。なぜ、ここにいるのか。こいつも、レイラと同じ吸血鬼だ。もしかすると、こいつも『血』が狙いなのか。


 直斗の表情から、ルカは警戒心を読み取ったようだ。説明を行う。


 「心配しないで下さい。ただ、あのレイラさんと付き合っている方を見掛けたので、少しお話をしたいと思い、後を追いかけただけです」


 「それだけのために? 怪しいぞ」


 直斗は、警戒心を解かなかった。わざわざ後をつけてまで追ってきたのだ。何かあるに違いなかった。


 「そう思われても仕方がありませんね。確かに、それだけの理由ではないです。一つ、あなたに伝えたいことがあって――」


 ルカがそこまで話した時だった。二人が居る廊下に、声が響いた。


 「あーもう、ルカ君、こんな所にいた!」


 声がした方向に、直斗は顔を向ける。そこに、一人の女子生徒が困り顔で立っていた。やや、幼げな顔立ちであるため、一年生だろうと直感でわかった。


 「もう、一人で勝手に行っちゃって、どうしたの」


 その女子生徒は、ルカの元へ歩み寄ると、馴れ馴れしく腕にしがみ付く。まるで、レイラが直斗へいつも行う動作のようだ。明らかな、強い好意を感じさせるアクションだ。


 すると、ばたばたと、複数の足音が聞こえ、たちまちルカは、数名の女子生徒に囲まれた。


 「やっと追いついた!」


 「私達を置いていかないで」


 「どうしたの? 心配したよ」


 急に廊下は、黄色い声に包まれた。ルカは、慣れているのか、ファンに囲まれた男性アイドルのように、爽やかな笑みを浮かべながら、女子生徒達を宥めていた。その笑みから、レイラと同様の、長い八重歯が覗いているのを、直斗は見逃さなかった。


 「何もないなら、俺は行くから」


 取り巻きに囲まれ、ハーレム状態の男を見物するのは、あまり気持ちのいいものではない。それに、レイラの件もあり、吸血鬼とはもうこれ以上関わりたくなかった。


 直斗がその場から立ち去ろうとすると、ルカの取り巻きの一人が、初めて直斗に気が付いたように、驚いた表情をした。


 「あ、この人知ってる」


 その言葉に、ルカの取り巻きは、次々と直斗に目を向ける。


 「この人、レイラさんの彼氏じゃん」


 「ねーなんでルカ君はこの人と話をしているの?」


 皆、口々に、直斗についての会話を交わし始める。輪をかけて喧しくなったため、直斗は背を向けて歩き出した。


 その背中に向かって、ルカは語りかけた。


 「僕が伝えたいことは、一つだけです」


 廊下に、ルカの声が響き渡る。優れた骨格を持つ者からしか発せられない、クリスタルボイスだ。


 直斗は、歩みを止めず、背中で聞く格好を取った。


 「僕は味方です。お力添えが出来ると思います。だから、何かあったら僕を頼ってください、篠崎直人さん」


 ルカは、最後にフルネームで直斗の名前を呼んだ。そこには、本心で語っていると思わせる、強い気持ちが込められていた。


 直斗は、返事を返さなかった。階段に差し掛かり、チラリとルカの方を伺う。


 ルカは、取り巻きの女子が怪訝そうに見つめる中、まっすぐとした目を、直斗に向け続けていた。


 直斗は、目を逸らし、階段を駆け降りた。




 翌日もレイラは、学校を休んでいた。不思議なことに、直斗に向けた連絡すらなかった。ストーカ並みの頻度で送られて来るメッセージに、直斗は辟易していたのだが、パタリと止まると、返って違和感を覚えた。だからと言って、こちらから連絡を取るようなことはしなかったが。


 今朝方、再び降り出した雨のせいではなく、レイラの二日に渡る欠席が原因で、同級生達は憂いを帯びているようだ。


 二組からの情報で、レイラの風邪が長引いての欠席だと言うことは、周知されていたが、詳しい容態までは言及されていなかった。


 レイラを心配する一部の生徒達は、レイラの親衛隊に、そのことについて質問を行った。だが、親衛隊は次々に首を横に振った。親衛隊のメンバーも、レイラと連絡先を交換しているが、昨夜辺りから、いくらチャットやメールを送っても、返信が無いのだと言う。生存自体は、レイラ本人からの欠席を告げる連絡であったため、確認はされていた。しかし、それ以外が不明瞭だった。


 親衛隊への当てが外れたせいで、次は、本命の直斗へ、白羽の矢が立った。休み時間になると、ぞろぞろと、烏合のように、レイラを心配する連中が直斗の元へ集った。そこには、新たに親衛隊も加わっている。


 面を食らっている直斗に、レイラの安否に対する質問が投げかけられた。だが、連絡を取っていない以上、直斗に答えようがなかった。


 直斗は正直に、そのことについて話すと、一同は、揃って異常者を見るような目で直斗を見た。彼らは、直斗とレイラが恋人同士であると思っているようだ。そのため、レイラへの安否確認の連絡を取っていないということは、つまり、学校のアイドルであり、異世界人という、未曾有のステータスを誇っている美少女と付き合っているのにも関わらず、心配の欠片もしていない、鬼畜だと彼らの目には映ったようだ。


 親衛隊からも非難の言葉が浴びせられた。そして、その現象は、周囲の人間へも飛び火した。裕也などは、一昨日、レイラが篠崎家宅へ立ち寄ったことについて言及しており、レイラの欠席自体も、本当の風邪ではなく、その時何かしらの不貞があったせいではと、不躾な勘繰りを行っていた。


 直斗は、否定したが、肝心のレイラがいないため、証明しようがなかった。


 そのような一日を直斗は過ごした。


 翌日も、レイラは休んでいた。それが週末まで続いた。レイラが登校して来ないせいで、疑惑は晴れることなく、直斗は針のムシロに立たされた形になっていた。


 やがて、試験まで土日を抜き、残り二日となった。


 欠席を続けていたはずのレイラから、呼び出しがあった。


 金曜の夜のことだった。



 

 夕食後、入浴を済ませた直斗は、自室で勉強を行っていた。期末試験は来週の水曜に迫っている。土日を入れて、残り四日しかない。ここ最近、レイラの件があり、なかなかモチベーションが上がらなかった。ペースを上げ、その挽回を行わなければならない。


 集中して過去問を解いていた矢先、直斗のスマートフォンに着信があった。発信元を見てみると、レイラからだった。


 勢いを削がれたため、直斗は心の中で舌打ちをした。一瞬、無視しようかと思ったが、久しぶりのレイラからの連絡であり、他生徒達や親衛隊に含む所が生まれてしまった手前、ここで、対応しない行動は悪手だった。


 直斗は勉強を中断し、身を震わせ続けるスマートフォンを耳に当てた。


 「もしもし」


 直斗が応答すると、受話器から、レイラの安堵の声が聞こえた。


 『よかった。直斗、出てくれた! ごめんねこんな時間に』


 「何かあったの? それに体調は大丈夫?」


 直斗の気遣う言葉に、レイラは、アイドルから甘い言葉を囁かれたかのような、喜びの声を上げた。


 『ありがとう。もう大丈夫だよ。直斗が心配してくれて嬉しい!』


 「皆心配しているよ。来週は学校に来れる?」


 『うん。行けるよ。それで、ちょっと直斗にお願いがあるの』


 レイラは唐突に、本題を切り出した。直斗の心に、少しばかり、不安の根が差す。


 「何?」


 レイラの願いは単純なものだった。


 『今から会えない?』


 直斗は、自室の壁に掛けられた時計を見た。現在時刻は、十時半。高校生が外出するには、少し遅い時間だ。蛍子も咎めるだろう。


 「ごめん。もう遅い時間だから、外出できないよ」


 『お願い! 少しだけでいいの。見せたいものがあるから』


 レイラは食い下がった。


 「見せたいもの?」


 『うん。今から大田山公園の展望台前に来て! 必ずね! 待ってるから』


 レイラは、そう一方的にまくし立てると、通話を切った。


 またそろりと、直斗の心に不安の陰が掛かる。始めは、また『血』を懇願するのかと勘繰ったのだが、どうも違うようだ。


 何だろうか。見せたいものがあると言っていたが。


 直斗は、学習机から離れ、クローゼットを開けた。このままレイラを放置しておくわけにはいかない。来週から登校すると言っていたので、そこで余計なことを吹聴されては、ますます立場が悪くなる。


 直斗は、クローゼットから、黒のスキニーパンツと白のロングTシャツを取り出し、着替える。


 着替えている最中、直斗は、レイラと最後に会った日のことを考えていた。春香からの『暴露』の件である。冷静になって考えると、あの言葉を聞いたからと言って、何か判明するわけはない。アレーナ・ディ・ヴェローナでの決闘の際、使用した道具類は、ナイフ以外、全て処分したのだ。証拠などあるはずもない。だから、この呼び出しは、『ロビン・フッド』にまつわるものではないはずなのだ。


 直斗は着替えを済ませ、机の引き出しから、フォールディングナイフを取り出した。決闘の時と同じ物だ。


 このナイフは念のために持って行くつもりだ。警察からの職質に対し、著しくリスクを上げるが、仕方がない。


 直斗は、ナイフをポケットに収め、窓のクレセント錠を下ろした。決闘の日のようなイレギュラー時とは違い、今日は玄関からの外出は出来ないだろう。そのため、ここから出るしかない。


 直斗は、こういった時のために用意していた、予備の靴をベッドの下から取り出す。


 そして、窓を静かに開けた。


 


 夜の住宅街を直斗は、大田山公園に向かって歩く。まだそれほど遅い時間帯ではないが、閑静な場所なので、人通りは少ない。


 直斗は一旦、県道二十三号線へ出てから、大田山公園を目指した。人通りの少ない場所よりも、多い所の方が、警察とニアミスをした場合、職質を受ける危険が少ないからだ。


 県道二十三号線と交差する、国道十六号線の高架下を抜けると、大田山公園が見えてきた。


 大田山公園は、緑に覆われた、小高い山の中にあった。公園としては相当広く、郷土博物館『金のすず』や、江戸時代中期の建物、『旧安西家住宅』そして頂上には、レイラが待ち合わせに指定した展望台『きみさらずタワー』がある。標高も下から見上げる以上に高く、頂上の『きみさらずタワー』からは、アクアラインが拝めるほどの、隠れた夜景スポットとして知られていた。


 直斗は、東口から大田山公園へと入った。入り口近辺に駐車場があるが、車は数えるほどしか停まっていなかった。その上、それらのいくつかは、違法駐車のものだろう。昼間は憩いの場として市民に愛されているが、夜は覆い茂った木々と、少ない街灯のせいで、訪れる人数は、公園の規模に比べると、極めて少ない。


 逢引には、打って付けの場所と言えた。


 直斗はスマートフォンの明かりを頼りに、薄暗い階段を登る。そして、遊歩道へと出た後、道なりに『きみさらずタワー』を目指す。


 郷土博物館『金のすず』の横を通り抜けると、先端部がライトアップされた『きみさらずタワー』が見えた。


 『きみさらずタワー』は、展望台以外に、大田山公園のシンボルとしての特徴があった。展望部の中央を貫くように双塔がそびえており、現在ライトアップされている、その二つの塔の先端には、日本武尊と弟橘姫の銅像が向かい合わせに立っていた。これらは、『日本書紀』における『悲恋伝説』に因んでおり、日本武尊の東征の際、身をもって犠牲になった弟橘姫と、それを嘆き悲しんだ日本武尊を元にしている。


 直斗は、『きみさらずタワー』へと近づいた。周りに人気はなく、街灯が無い場所は、薄闇が広がっていた。


 『きみさらずタワー』の足元に、レイラの姿があった。レイラは、とっくに直斗の接近を感知しており、まだ距離がある内から、直斗を注視していた。


 直斗はレイラの元へ辿り着いた。遊歩道から差し込む街灯の光の中、レイラは申し訳なさそうに顔を伏せ、謝罪を行った。


 「わざわざ呼び出してごめんなさい」


 「いや、いいよ。それより見せたいものって何?」


 直斗は、すぐに本題を切り出した。そうしつつ、レイラを観察する。


 今レイラは私服だった。黒のロングジャンパースカートに、レースの入った白インナーを合わせた、ガーリーな服装だ。靴は黒のベルト付きウェッジパンプス。上品なお嬢様風の格好で、扶桑高校の制服着用時とは、随分と雰囲気が違うことに直斗は面食らう。


 そして、黒のショルダーバックを肩に掛けているのも気になった。


 「えっとね、それを見せたいんだけど、違う場所にしよう」


 「違う場所? ここじゃなくて?」


 直斗は自身の警戒心が、ざわざわと掻き立てられるのを感じた。一体、レイラは何のつもりだろう? 何を見せたいのか。


 「着いて来て」


 レイラは、きっぱりとした口調で言い放つと、歩き出した。


 「待って。どこへ行く?」


 直斗はレイラを呼び止めたが、レイラは聞こえていないかのように、歩みを止めなかった。おそらく、レイラは、直斗が自身に対し、抵抗し難いという事実があることを、理解しているようだ。そのことを今、直斗は実感した。それほど、レイラの歩みは、強かった。


 直斗は仕方なく、レイラの後を付いて行く。心の中で、警戒心が、さらに鎌首をもたげ始めていた。


 レイラが目指した先は、『きみさらずタワー』から百メートルほど歩いた所にある『旧安西家住宅』だった。江戸時代中期の建物であり、指定文化財にもなっている、寄棟・平入の茅葺き住宅だ。昼は一般開放されているが、夜は閉館していた。しかし、閉鎖されているわけではないので、いつでも敷地に入ることが出来た。


 「こっちよ」


 レイラは、木造の小さな門を通り、敷地内へと足を踏み入れる。直斗もそれに続いた。


 低めの生垣の間を縫うように進み、『旧安西家住宅』へと近づく。


 やがて、レイラは『旧安西家住宅』の裏手へ辿り着き、歩みを止めた。直斗は、他の誰かが待ち伏せしているのではないかと疑ったが、杞憂に終わった。


 家の裏手には、小さな土手があり、建物との間にあるこのエリアは、周囲から死角となる。夜の闇も合わせ、妙な圧迫感が生み出されていた。


 そのような場所まで、直斗を誘導してきたレイラは、直斗の方へと向き直った。

 レイラは優しく微笑む。薄暗いものの、月明かりが照らしているため、表情は見て取れた。

 「ごめんね。こんな所まで連れてきちゃって」


 レイラは直斗を真っ直ぐ見据えながら、そう言った。


 「なあ、何のつもりだ? 見せたいものってなんだよ」


 勿体ぶったレイラの行動に、直斗は苛立った。自然に口調が荒くなる。


 レイラは何も答えず、肩に掛けていたショルダーバッグを地面に下ろし、その場にしゃがみ込む。そして、ファスナーを開け、中に手を入れた。


 「学校を欠席したこの数日間、あることを調べていたの。それで、これを見つけたんだ」


 レイラは、直斗の顔を見ず、ショルダーバッグに目を落としたまま、そう告げた。


 そして、中の物を引っ張り出す。


 出てきたのは、布だった。結構、大きい。


 そして、レイラはその布を広げた。


 それを見た瞬間、直斗の心臓が跳ね上がった。布が何であるかを理解したからだ。

 血と、煤に汚れた、緑色のマントコートだ。あの時と全く同じ物だ。


 しかし、なぜレイラがそれを持っているのか? 確実に、処分したはずだ。


 絶句している直斗に、レイラは鋭い視線を向けた。


 「直斗、あなた『ロビン・フッド』ね」


 レイラは、ずばり、核心を突いた質問を直斗へぶつけた。


 直斗の頭が真っ白になる。だが、必死に頭を働かせ、踏み止まった。ここで、混乱した様子を見せては、以前の二の舞になってしまう。


 直斗は、務めて、平静を装い、レイラの質問に答えた。


 「何を言っている? 俺が『ロビン・フッド』だなんて、そんなわけないだろ」


 「ううん。もう完全にバレてるんだよ。直斗」


 レイラは、地面に置いたショルダーバックから、さらに、他の物を取り出す。


 ケーブル編みニットのインナーや、黒のチノパン、サングラスなど、決闘の際、直斗が身に付けていたものが、続々と出てくる。それらに付着している汚れや傷も、見覚えがあるものだ。


 「懐かしいでしょ? アレーナ・ディ・ヴェローナでの戦いの時『ロビン・フッド』つまりあなたが着ていた物だよ」


 レイラは、妖艶に笑う。獲物を前にした肉食獣のようだ。


 直斗は、レイラのその態度に怯むことなく、落ち着いて返答した。


 「だから、何のこと? どこで手に入れたか知らないけど、言い掛かりはよせよ。それに、本物なのか? それ」


 直斗は、あくまで、シラを切り通すつもりだった。


 「ふうん。そう来るのね。てっきり、前みたいにボロを出すかと思ったけど」


 レイラは、再び、ショルダーバッグに手を入れ、何かを取り出した。


 直斗は、また、当時の物的証拠が出てくるのかと思った。しかし、違った。


 取り出されたのは、握り拳ほどの大きさの球体だった。モリオンのような、黒い水晶体だ。


 「よく観て」


 レイラは立ち上がり、手に持った黒水晶を目線の高さまで掲げる。黒水晶は光り輝き、投光機のように、光を発した。それが、『旧安西家住宅』の壁を照らす。


 照らされた壁に現れたのは、映像だった。


 黒水晶は、映写機だったようだ。


 その映写機として機能している、黒水晶の映像は、直斗を青ざめさせるのに、充分な効果をもっていた。


 映像は、アパレル風の内装をした、どこかの店内を映し出していた。テレビ撮影のように、人の目線の位置からの映像だった。


 それを見て、直斗ははっとした。風景に見覚えがあった。確か、ここは上野にある、服屋だったはず。例の緑色のマントコートを買った店だ。


 そこに、直斗の姿があった。まさに、そのマントコートをレジで購入しているシーンだった。一年前の、あの時のものだ。


 映像が切り替わった。


 次は靴屋だった。次も、人が撮影でもしているかのように、目線の高さからの景色だった。そこに、またもや直斗の姿がはっきりと捉えられていた。光の中の直斗は、黒のロングブーツを小脇に抱えている。


 その後の映像も全て、同じようなものだった。直斗が、『ロビン・フッド』へ成るために、各々の店舗で必要な物品を購入している光景である。


 映像が終わり、再び闇が訪れた。黒水晶の光により、目が明順応したせいで、先程よりも、闇が濃く感じる。


 その闇の中、直斗は青ざめていた。今見た映像は、どれもが、己の記憶にあるものばかりだった。


 なぜ、このような映像が存在しているのだろうか。見た所、防犯カメラの映像ではなく、スマートフォンやハンディカムなどで、直接人が撮影したような撮り方だ。確実に直斗を被写体として狙ったものだった。


 だが、それはまず、ありえない話だ。


 一年以上前の出来事なので、細部までは覚えていない。しかし、間違いなく、あの時、撮影を行っていた人間はいなかった。当然だ。自身にカメラが向けられていたら、嫌でも気付く。第一、あの時点では、直斗を撮影する動機がない。


 そのため、このような映像が存在している事自体、不自然なのだ。


 しかし、これは『事実』だった。間違いなく。あの時を映し出している『客観的証拠』に他ならない。


 目が暗闇に慣れてきたため、レイラの表情がわかるようになった。レイラは、鋭い目を直斗へ向けていた。その目は、闇夜のせいで、猫科の動物のように、黒目が大きくなっており、淫奔な雰囲気を漂わせていた。


 「直斗、これで観念した?」


 レイラはやんわりと、諭すように言った。確実にクリティカルを与えたと確信している様子だ。


 「いや、知らないな。何かの間違いだよ」


 あくまでも、惚け切る算段だが、語尾が震えてしまった。映像は、ピンポイントで直斗の心を抉っていた。


 「これだけの証拠を見せても、認めないんだ」


 レイラは、余裕を込めた笑みを浮かべた。


 そして、言う。


 「この映像を、こちらの世界と、向こうの世界のテレビ局へリークするね。後、ネットへも流すよ。これで二つの世界が探し求めていた『ロビン。フッド』の正体が、白日の下に晒されるね」


 レイラは、直斗が一番恐れていることを提案した。


 「誰も信じないよ」


 「そう? でも、とりあえず動こうとする一部の人達はいるんじゃない?」


 レイラはにべもなく答える。


 「……」


 レイラの言う通りだった。この映像が発信されれば、一部の連中は動くはず。これまでも類似の情報により、動いた連中のせいで、引き起こされたトラブルがいくつもある。彼らはその時と同様に、容易く、直斗の居場所を突き止めるだろう。そうなれば、直斗の生活に支障をきたすのは、火を見るより明らかだ。直斗のみならず、家族にも飛び火するだろう。


 ましてや、直斗は『ロビン・フッド』なのだ。ど真ん中のストライクであるため、発覚は必至だった。もし直斗の正体が発覚されれば、直斗と家族の人生は破滅に追い込まれるだろう。少なくとも、もう今までの生活は送ることはできないはずだ。


 それだけは避けたかった。この映像が世界に発信されるのは、なんとしても阻止しなければならない。


 「わかった。認める。俺が『ロビン・フッド』だよ」


 直斗は諦め、真実を告げた。もう隠し通すのは逆効果だった。これから先の対処を考えなければならない。


 「やっと観念したね。嬉しい」


 レイラは、叱っている子供から、謝罪の言葉をようやく口にさせた教師のように、満足気な顔をした。


 「レイラ、いくつか教えてくれ。そのマントなどの当時の物や、映像は一体何なんだ?」


 直斗は疑問に感じていたことを問い質す。これについては、実情を完全に把握しておかなければならない。アキレス腱そのものだからだ。


 「ああ。これはね」


 レイラはそう言いながら、地面に落ちてある緑のマントコートを拾い上げた。


 「同じ店で買って、再現したフェイクだよ。直斗を動揺させるために用意しただけ」


 「映像の方は?」


 「向こうから持ち込んだ道具を使ったの。特定の人物の足跡を辿れる機能があるよ」


 直斗からの言質を取った余裕のお陰か、レイラは隠さず説明を行う。


 マントコート類については、やはりブラフだったようだ。それは理解できた。だが、もう一方の、足跡を辿れる道具とは一体、どんな代物だろうか。とてもやっかいな特性を持っているようだ。


 「その道具って、さっき見せてくれた黒い水晶のこと?」


 レイラは首を振った。


 「あれはただ映像を見せる道具だよ。足跡を辿れるのはこっち」


 レイラは、ジャンパースカートのポケットから、手の平サイズの、蜂の巣に似た物体を取り出した。ハニカム構造の孔に当たるその部分には、イクラほどのサイズの目玉がびっしりと、埋め尽くすようにはめ込まれていた。悪夢にでも出てきそうなほどの、おぞましい様相だった。


 直斗が眉根を寄せたのを見て、レイラは満足そうに頷いた。


 「おぞましいでしょ? これはね、吸血鬼専用の道具なんだよ。正確には、道具じゃなくて、生物なんだけど」


 レイラは、手の平に乗せている、その生物を優しく撫でた。感情があるのか、その生物は、身を震わせた。全体を覆っている目玉が、カメレオンの眼球のように、各々、別方向へ動く。


 「この子の使い方はね、下の方にある口から、足跡を辿りたい対象の細胞を食べさせるの。その後、その対象者の残留生体反応を元に、かつて、その空間に居たかどうかが測定されるんだ。そして、該当する場合、この子はそれを『撮影』して、映像として保存するの。後は映写機となる道具へ移すだけ」


 映像が、第三者視点で、しかも目線の高さで撮られていたのはそのためだったのだ。レイラが、過去に遡って、撮影していたということだ。


 「俺の細胞はどうやって手に入れた?」


 「前に、直斗の部屋にお邪魔した時、髪の毛をこっそり持って帰ったんだ」


 レイラは、飄々と白状する。


 「俺が利用した店を撮影できたのは、しらみ潰しに探したからか?」


 「うん! 東京中を探し回ったよ。そのせいで、休みが必要だったんだ」


 レイラは嬉しそうに答えた。


 そして、直斗の頭に先からつま先までを嘗め回すように見る。


 「さてと、ここからが本題だね」


 レイラは、手の平に乗せた生物をポケットに収め、直斗へと近づく。薄闇の中、レイラの唇から、長い八重歯が覗いているのが見て取れる。


 そしてレイラは、命令口調で告げた。


 「直斗、私の家畜になりなさい」


 「家畜?」


 「そう。向こうの世界で何匹か飼っているの。直斗の血はとても美味しそうだから、一番可愛がってあげるね」


 以前、何かを飼っているというレイラの言葉を思い出しながら言う。


 「飼っているって動物じゃないのか」


 以前、何かを飼っていると言っていたレイラの言葉を思い出しながら言う。


 「私、一言も動物だと言ってないでしょ。皆良い子だよ。早く直斗も皆に紹介してあげたい」


 「冗談だろ?」


 「本気よ」


 レイラは、キスをするかのように、直斗の顔に、自分の顔を近づけた。


 「後で向こうの世界に連れて行くとして、今は、血を飲ませて貰うね」


 レイラはそう言い、直斗の首筋に向かって、唇を接近させる。レイラはひどく興奮しているらしく、息が荒かった。暖かい風が首筋に当たる。


 そこで直斗は、決心した。やるしかない。


 直斗は、体内の血を消費し、全身に力を漲らせる。そして、身を寄せているレイラの体に、右腕を突き入れた。


 単純なボディーブローだが、格闘技の経験がないので、適切に決まったのかはわからない。だが、力技で押せるはずだ。

 

 直斗はそう思った、


 しかし、甘かった。レイラの体に当たったはずの右手は、まるで冷水に突っ込んだかのように、痛みと共にひどい冷たさを感じた。


 「無駄よ」


 レイラの胴体部分は、氷に覆われていた。その氷は、一瞬にして発生したようだ。そして、そこに、直斗の右腕は捕われていた。


 抜け出そうと慌てて右腕を引くが、溶接されたように、ガッチリとはまり込み、隙間さえできない。


 レイラはなおも、直斗の血を飲もうと首筋に歯を立てようとしていた。


 直斗は、さらに血液を消費し、自身の力を増大させる。あまり血は使いたくないが、火急の危機だ。


 直斗は自由になっている左腕を振るい、氷の塊に拳を叩き込む。氷は容易く砕け散り、ガラスのように欠片が周囲に飛んだ。


 直斗はさらに、右足でレイラを蹴り上げた。だが、レイラは体を仰け反らせながらそれをかわし、後ろへ飛んだ。


 二人の間に、五メートル程の間合いができた。


 「戦う気ね」


 離れた位置からでも、レイラの目に、闘志の火が点いたことがわかった。


 直斗は、氷に飲み込まれていた右手を見る。やや、霜焼け気味に赤くなっているが、外傷と呼べるほどのものではなかった。


 直斗は、正面に居るレイラに視線を戻し、チノパンのポケットから、フォールディングナイフを取り出した。そして刃を引き出す。


 レイラの目がそれを捕らえ、怪訝な表情をする。レイラのその顔は、そんなナイフでどうするつもりだ、と語っていた。


 これは切創により、自身の血を外へ出すために使うものだが、レイラはそれを知らない。直斗の力の根源が、まさに、レイラが狙っている血液そのものにあるということを。


 直斗は、ナイフの刃で、右手の手の平を切り裂いた。血がたちまち流れ出す。


 直斗の一連の行動を見て、レイラは目を丸くした。だが、すぐに、流れ出た血へ興味を示したようだ。発情した犬のように、爛々とした表情になる。


 「わざわざ飲みやすいように血を出してくれたんだ。嬉しいわ。今すぐ飲んであげる」


 レイラは直斗へ向かって、飛び掛った。


 凄い早さだ。そのまま押し倒すつもりなのだろう。


 直斗は、右手を振った。付着している血が飛び散り、眼前へ迫っていたレイラの胸部へと当たる。


 くぐもった爆発音がして、レイラの体は背後へと吹き飛んだ。レイラが着ていた白インナーと、ジャンパースカートの破れた破片が辺りに舞った。


 そしてレイラは、『旧安西家住宅』を囲んでいる石垣へと激突した。薄闇の中、レイラの小さなうめき声が聞こる。


 今の爆発は、極力、周囲に影響が無いように抑えていた。音も同様に、大して周囲には響いていないはずだ。その反面、ダメージは低いが、意識を飛ばすくらいは出来ると思っていた。だが、予想に反して、レイラは頑丈だったようだ。元気に身悶えしている。


 直斗はレイラに歩み寄って行った。


 「レイラ、降参してくれ。そして、話し合おう」


 レイラは、直斗の言葉が耳に入っていないようだった。口元の涎を拭い、直斗を睨み付ける。


 「その能力は何? 見たことがないわ」


 レイラは驚きを隠せないでいた。


 直斗はレイラの質問には答えず、レイラを見下ろしたままだった。


 レイラは、ふらつきながら立ち上がった。上半身の服がボロボロで、半ば、胸が露出している。


 レイラは、再度口を開いた。


 「アレーナ・ディ・ヴェローナでの戦いから『ロビン。フッド』の能力について色々と憶測があったわ。最終的には、魔法道具を使った人間の仕業だと結論に落ちついたけど」


 レイラは、血が滴っている直斗の右手に目を向けた。


 「そうじゃなかったみたい。あなた自身の能力だったということね。だけど、その能力は一体何? 魔法とも違う。『血』を使う能力だなんて……」


 レイラは目を細めた。そこには欲望が渦巻いていた。


 「でも、ますますあなたが欲しくなったわ。絶対に手に入れる」


 レイラは天を仰ぐように両手を広げた。そして、しゃがむと同時に、その両手を地面へ押し付けた。


 凄まじい振動が発生した。その直後、吹雪のような冷気が吹き付け、直斗の視界全てが一瞬にして、ホワイトアウトした。


 直斗の体は氷の塊に飲み込まれ、高く押し上げられた。爆撃でもされているかのような、激しい破壊音が、周囲から聞こえる。


 氷に飲み込まれたまま、直斗は上方へと押し上げられていた。氷は、まるで成長する樹木のように、上へ上へと伸びて行っているのだ。


 『旧安西家住宅』よりも遥かに高い位置まで伸び、やがて、その成長が止まった。

 徐々に、直斗の視界を遮っている白い冷気も薄れ始めた。


 確保出来るようになった視界から、周囲を見渡した直斗は驚いた。


 下方一面、氷に覆われていた。今まで側にあった『旧安西家住宅』が影も形もなくなっている。それだけではなく、庭園や石垣、土手、周囲の木々はおろか、『旧安西家住宅』を中心とした、大田山公園の一角が、突如出現した氷の塊により、破壊され、そこだけが南極の一部になったかのように、氷漬けになっていた。


 かなりの広範囲に、氷の被害が及んでいた。もしかすると、他に巻き込まれた人間がいるかも知れない。それに、爆撃機から攻撃されたような、壊滅的な音が響いたのだ。間違いなく、近隣の住人達は今頃、大騒ぎのはずだ。


 人が来るのも時間の問題だ。悠長に構えていては、目撃される危険性がある。それはレイラも同様で、自身を窮地に陥れてしまう結果になるのだが、欲望が優先して、正常な判断ができていないのかもしれない。


 とにかく、ここからは迅速に対処しよう。


 直斗は力を込めて、自身の体を覆っている氷を内側から砕いた。そして、樹氷のようにそびえる氷の塊の頂点へと立つ。


 直斗は周囲を見渡した。薄闇に覆われ、見通しが悪い。しかし、月明かりのお陰で、かろうじて、周辺にあるものの輪郭程度は把握できた。


 今は、レイラの姿は見えなかった。辺りを埋め尽くしている氷のどこかに潜んでいるのだろう。こうして直斗が、飲み込まれた氷の中から、脱出した姿も、確認しているに違いない。


 直斗は、現在いる氷の塔から、降りるかどうか迷った。ここにいれば見通しはいいが、周囲から丸見えであるため、狙い撃ちされる危険があった。また、いずれ駆けつけて来る警察や、消防隊に姿を晒すことにもなる。その上、閑散としているとはいえ、公園内にも、まだ人がいるはずなのだ。この異変で近寄ってくるのなら、それもまた目撃のリスクを上げてしまう。


 ここは、下へ降りた方が無難かもしれない。


 そう判断し、直斗はその場から飛び降りた。そして、氷の大地へ着地する。冷凍庫の中に入ったような、ひんやりとした冷気が直斗の全身を包む。


 直斗は、半袖で剥き出しになっている自身の腕をさすった。すでに全身に鳥肌が立っている。吐く息も白かった。


 初夏なのに、凍えるような寒さの中、直斗は周囲に神経を尖らせた。辺りは、いくつもの氷の塊が障害物として取り囲んでおり、複数の死角が生まれていた。


 そのどこかにレイラはいるはずだ。先ほどから、ヒリヒリとした、焼くような視線を肌が捉えていた。


 直斗は、周囲を警戒したまま、思案する。現在、氷に覆われたこの場所にいることは、危険かもしれない。ここは、氷の力を持つレイラの、ホームグラウンドだ。


 直斗は、氷を破壊し尽すという手を考えた。だが、その場合は、直斗の姿が剥き出しになるリスクがあった。そうなると、接近してきた人間の目に留まってしまう。氷は、周囲からのパーテーションとしての機能ももっているのだ。つまり、盾として使える。


 氷は破壊しない方がいいだろう。少なくとも今は。


 直斗は、右手を何度か握り締め、出血を促進させた。そして、新たに流れ出てきた血を氷の地面へと垂らす。量はコーヒーに入れるクリームほど。


 氷の上へ落ちた血は、粘土のように、たちまち形作られていく。


 形成されたのは、ゴールデンハムスターに酷似した生物だ、白とオレンジ模様の毛皮を持っている。全部で三匹造った。


 直斗はつま先で地面をタップし、三匹のハムスターもどき達に合図を送る。その三匹は、脱兎のごとく方々に駆け出し、たちまち姿を消した。


 あの三匹には、生物の探知機能を備えさせた。この氷の世界にいるレイラを、見つけ出すことができるだろう。


 直斗は、近くにある巨大な樹氷の影にしゃがみ込んだ。そして、じっと待つ。やがてハムスターもどき達が、レイラの居場所を発光によって、教えてくれるはずだ。そして、その後、一気に肉薄し、けりを付ける。


 短期決戦で決めたかった。


 直斗がそう考えた時だった。小地震ほどの、微かな振動が起こった。それと同時に、地割れのような音が辺りに響き渡る。


 直斗ははっとした。先ほど放したばかりのハムスターもどき達が、この瞬間、まとめて消滅していた。氷に飲まれたようだった。


 複数の小さい生き物をピンポイントで探知し、しかも一瞬にして仕留めたのだ。どうやらレイラは、この氷上全てのものを完全に把握できているようだ。


 おそらくだが、直斗が今いる位置すら、完全に探知しているかもしれない。


 直斗は立ち上がった。未だに視線は感じるが、出処がわからなかった。


 直斗の位置を完全に把握出来ているとして、どうしてレイラは、すぐに攻撃を加えてこないのだろうか。様子を伺うにしては、時間を掛け過ぎているような気がする。


 だが、すぐにその答えが判明した。


 剥き出しの肌をなでる空気が、切り裂くような冷たさを持ち始めたからだ。まつげにも霜がおり、瞬きする度に、引きつったような痛みが走った。


 周囲の温度が、急激に低下しているのだ。


 気温を極端に低くし、直斗の動きを封じる算段だろう。


 やがて、直斗が吐く白い息に、キラキラとした結晶のようなものが混ざり始めた。それは、人間が活動するには困難なほどの、低温下に突入したことを示していた。


 直斗は、再びフォールディングナイフをポケットから取り出し、刃を引き出した。


 

 気温が氷点下五十度以下になると、人の息が耳元で凍りつき、微かな音をたてる。

 それに神秘的なイメージが付き『星のささやき』と呼ばれるようになった。


 これは、地球上の、例えばシベリア等の極寒の地で見られる現象だが、それは異世界でも起こりうるものだった。


 名称こそは違うとはいえ、リウド国でも、同じように、ロマンチックな名で呼ばれている。


 その現象が、現在、レイラの耳元で起こっていた。吐いた息が、薄い布を擦り合わせたような音と共に凍りつき、鱗粉のように散っていく。


 レイラはそれを見て、自身の『氷の世界』の効果によって、周囲の環境が既に、人間がまともに行動できないほどのレベルまで低下したことを実感した。


 レイラは、移動を開始するために、自身の四方を囲んでいる氷の塊を消滅させた。氷は,無音で、チリのようになって消え去った。


 レイラは、辺りを警戒することなく、歩き出す。


 既に周囲一体の氷上には、直斗以外の生命体が存在していないことを感知していた。気温が低下する直前に、どこに隠し持っていたのか、魔獣のような生物が放たれた。その魔獣達は、姿を見ることもなく、あっけなく退けることに成功した。


 あれからは、もうストックがないのか、魔獣や精霊が放たれることはなかった。直斗は沈黙したままだ。位置すら移動していない。


 レイラは、直斗がいる場所へと近づいていく。


 氷から伝わってくる直斗の反応は、生体反応があるものの、動きは全くなかった。それは、直斗が、凄まじい寒さによる低体温症を引き起こし、意識を失っていることをレイラに確信させた。


 それらは全て、レイラの目論見通りだった。死なない程度に意識を失わせ、捕縛する。そして、拘束したまま『門』を通って、リウドにある自宅へ連れ帰り『飼育』するのだ。


 『門』を通る際は、協力者が必要だが、それには当てがあったため、問題はない。少々面倒な奴だが、体と引き換えならば、安い代償だ。


 レイラは、直斗を自宅に連れ帰った後のことを想像し、思わず歓喜に身震いをした。


 彼は垂涎のエサだった。体臭からそれを確信した。扶桑高校の、その他のゴミ共達とは違い、例えようもない絶世の美味をもたらしてくれるだろう。


 直斗の姿が見えた。糸の切れた人形のように、力無く、うつ伏せになって倒れている。


 レイラは直斗の真横に立ち、見下ろした。ピクリとも動かない。生きているのは間違いはないが、体温がひどく低下していることを氷の伝播により、把握できた。あまりにこの状態が続くと、命に関わるだろう。早めに捕縛した方がいい。


 レイラは、スカートを捲り上げ、左太ももに巻きつけてある鎖を解いた。


 これは拘束用の魔法道具だ。対象に巻き付き、身体の自由を奪う。かなりの高グレードのものを選んだので、その拘束力は極めて強力だ。異世界に存在する『マンジュラ・ダンマ』という、岩山すら単独で平らにできるほどの強靭な肉体を持つ、四足歩行獣がいるが、その生物さえ、抜け出すのは困難な代物なのだ。


 直斗、つまり『ロビン・フッド』は、人間では考えられないほどの力を秘めていることはわかった。しかし、その『ロビン・フッド』でさえ、この鎖からの脱出は不可能であるとレイラは考えていた。


 もしもそれが可能なら、人間や種族の域を超えた、ただの化け物になってしまう。そんな生物、存在しているわけがない。


 レイラは、鎖を操作するための呪文を唱えた。鎖は、獲物を襲う蛇のように、直斗へと飛び掛かり、瞬時に巻き付く。


 これでもう直斗は、レイラが許可しない限り、動けない。


 このまま、闇夜に紛れ、直斗をホストの家まで運ぶ。ホストの人間は、『懐柔』してあるので、ホストの協力の元、『門』まで直斗を連れて行く。そして、リウドにいる協力者に手伝って貰い、突破するのだ。


 可能のはずだ。


 レイラは、直斗を軽々と担ぎ上げた。そして歩き出す。


 十歩ほど歩いた時だった。ふと、レイラは眉根を寄せた。


 直斗の体温が上昇していた。それまで、低体温症のせいで、人形のように冷たかった直斗の体が、スイッチを入れたかのように、急速に熱を持ち始めたのだ。


 ありえなかった。まだ周囲の『氷の世界』は解除していない。体温が上がるはずがなかった。


 すでに直斗の体温は、平熱時まで高まっていた。


 レイラは、はっとして、担いだばかりの直斗を下ろそうとした。しかし、遅かった。


 金属が弾ける音が響いた。拘束していた強力な鎖が、いとも容易く千切れ飛んだのだ。


 直斗は意識を取り戻していた。なぜと思う間もなく、猛烈な衝撃がレイラを襲った。

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