“ソムリエ”
秋の終わり頃に差し掛かって、私の勤めている星付きレストランはにわかに賑わいの様相を見せはじめた。
「
今日も今日とて、私はワインの栓を開ける。
店のセラーでゆっくりと出番を待っていたワインたち。リストに名の連ねられた、いずれもとっておきの一本。各テーブルから声がかかり、満を持して華々しく登場する。
コルク栓を開け、ワインの状態確認を。わずか少量を小ぶりのグラスに注いで、香り、次いで味わいを、ソムリエたる私は判断する。
「素晴らしい状態です」
そう、にこり。口を閉じたまま品良く微笑んで、私はテーブルのお客様にそう告げた。
テーブルにつくお一人、主催の男性の奥方だろうか、女性のお客様がいたく感心された様子で言った。
「その少しだけでお分かりになるの? すごいのですねぇ、ソムリエさんって」
私は微笑みを浮かべたまま、開けたワインボトルを傾ける。適切に時を重ね熟成の進んだ、深みを纏ったガーネット色の美しい液体。テーブルを囲む人数分、このワインのポテンシャルを最大限に引き出してくれる大ぶりのグラスに注いでいく。
最後に私は、ワイングラスの細いステムにそっと指を添え、お客様の前に提供した。
「お客様に、最も良い状態でワインという素晴らしい飲み物をお楽しみいただきたいので。ただその一意でございます」
そうしてまた私は、口を閉じたままの品位ある微笑みを。
本当のことを言うと。私のこの舌には、判らぬのだ。今となっては、もう。
仕事を終え自宅に帰りつく。古い邸宅、その地下へと私はまっすぐに向かった。地下室を利用したワインセラー。そこに私はダイニングスペースを設けている。
今日はそこに、前もって呼んでいた
彼女は豊かな巻き毛を揺らして立ち上がり、私を迎えた。
「お帰りなさい、お仕事お疲れさま。……言われた通り、ここ最近は食事に気をつけていたわよ、わたし」
私はそう言う彼女の頬に顔を寄せ、軽くビズの挨拶をした。そうして一人内心うなずく。そうだな、確かに彼女の言った通りのようだ。
そうして私はワインの用意をする。我が自慢の(きっと店にも引けを取らないラインナップの)セラーに眠る年代物のワイン……。ではなく。十一月の第三木曜日である今日、仕事の帰りがけにそこいらの小売店で買ってきたワインを開ける。そのワインはコルク栓ですらない、
ボトルを傾けグラス一つだけに液体を注いで、恋人に渡す。
摘みたてのブドウの雰囲気をそのまま残したような、明るく澄んだルビー色をした美しい液体。グラスはそこまで大ぶりのものではない。これで充分と言えるからだ。
彼女はうなずくと一口。グラスをすぐさま傾けてワインを口に含み飲み込んだ。
「ええ、美味しいわ。とっても飲みやすい」
その後彼女がグラスに注がれた一杯分のワインを空けると。私は彼女の細い首、アルコールの回ってほんのり赤く染まったその首筋に、そっと指を沿わせて、鋭い牙で噛みついた。
鼻腔に広がる馥郁たる香り。甘いキャンディーのような雰囲気に伴う、ほんのわずか感じられるやわらかな渋みは、味わいに奥行きを与えて。
彼女自身の舌の感覚は、言ってしまえば凡庸だ。だが、彼女の血液は驚くほど鮮明にワインの味を反映する。
そう思うのは私だけかもしれない。
他に誰がそう判断するというのか。
ワインという液体に焦がれソムリエとなり、ある日吸血鬼と成り果てたその後も、未だワインという液体への執着を棄てきれぬこの私の他に、誰が。
……だから、そう思うのは私だけで良いのだ。私がそう思えば、それで良い。
こうすることで、せめて。
こうすることでしか、もう。
「例年以上に太陽の恵みを存分に受けた、ブドウの豊かな果実味が……」
ナフキンで口の端を押さえて、私は満足感に浸ってそうひとりごつ。
そして私はふと、そのナフキンに視線を落とした。
赤色は告げる。布にとれば、色の違いからすぐ"そう"と知れる。私が口にしたこれはワインでは決してないと、むざむざと告げるのだ。ルビー色やガーネット色と
新たに生まれるワイン。長き熟成につくワイン。それらワインの行く先を長らく見守っていきたいという、ソムリエとしての悲願。
それだけを抱えて、私は適切に時を重ねることもできぬままにこれからも、悠久の時を生きていく。
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