エンドロールが聞こえない。第二話

 最近、先生が「もうすぐ、中学生だなあ」とか「先生のこと忘れんなよー」とか、本当に最後に向かっているらしい話が増えて、六年間続いたことが終わりに近付いているのだと実感するようになってきた。梅雨が空け、突き抜ける青空と降ってくる陽の光が突き刺して痛い。ついに七月の最終週に小学生“最後の夏休み”がやってきた。

 朝、いつものように一眞兄ちゃんに起こされて、うだうだ言いながらタオルケットで頭を隠しても、結局、敷布団ごとはがされる。


「おはよう、眞昼」


 ぺたぺたと音を鳴らして歩く、軋む冷たい木の板。居間にいる家族に「おはよう……」と挨拶をすると、そこにいたじいちゃん、ばあちゃん、父さんの目が見開き驚かれるのだから「え、何?」と言って、きょとんとすると笑われた。顔を洗っておいでと言われ、洗面台の鏡で見た寝癖がすごいことになっていたのだ。


「じいちゃん、身体どう?」


 四角でピカピカに光る大きな眼鏡をかけ、新聞を読むじいちゃんが「まあ、ぼちぼちだ。それなりの歳を食うたから仕方がない」と笑う。ここ二年ほど、じいちゃんの元気がない。隣に座る、ばあちゃんと父さんの表情がどこか寂しそうだから、じいちゃんの元気がない理由は、ぼくだけが知らないんだと思う。居間にあったじいちゃんの声の余韻が消えると“気まずい音”が流れだす。がさがさと新聞をめくる音、父さんの咳ばらい、新聞の向こう側から投げられる「戦争で死なんかっただけで、もう後はおまけだ………眞昼や一眞に会えたのは宝だ」という、じいちゃんの声。じいちゃんが読んでいる新聞に、どこかの国とどこかの国が戦争を始めたって見出しが大きく載る。一眞兄ちゃんと母さんが運んできてくれた朝食、いつもの朝の匂い。味噌汁が濃いのは父さんのわがままで、漬物がしば漬けなのは一眞兄ちゃんの好み、めざしが二尾なのはじいちゃん、卵焼きが少し甘いのはばあちゃん、母さんは………とくに無くて、ぼくはウィンナーかベーコンがあると嬉しい。


 あと、じいちゃんの味噌汁は、お湯みたいに薄味。


 きん、きりりん、きりん、と鳴く、風鈴にぶら下がり、風を受ける紙は名前を何と言うのだろう。勉強をするために机に向かっていたのだけど、紙の名前が気になって勉強どころではなくなっていた。兄ちゃんはマンガ雑誌が三冊分くらいの厚さの辞書と、べたべたと付箋が貼られたノートを開いて………勉強しているのだろうけれど、そこに書かれているそれが何なのか、ぼくには全く理解できない。宿題の分からないところは兄ちゃんに教わって進め、お昼ごはんを食べ終わると兄ちゃんが「眞昼、気分転換に出掛けないかい?」と言った。


 目が痛くなるくらいの青に塗られた空。山の向こうには、もこもこと増え続ける大きな雲がいる。歩きながら「兄ちゃん、どこに行くの?」とたずねると「まずは商店街に行って、眞昼の好きなジュースでも飲もうか」と言われた瞬間、頭の中がクリームメロンソーダの緑色と白に染められる。喫茶店に入るなり「おお。大きくなったなあ!眞昼!」とおじさんに言われ、前に来たのがじいちゃんと一緒だったことを思い出した。そして「秘密だぞ」と、すこしだけソフトクリームを多くサービスしてくれた。テーブルを挟み、兄ちゃんは父さんも好きなコーヒーを飲む。


「兄ちゃんと父さんってコーヒーが好きだよね」


 すると意地悪な笑顔で「眞昼、そのジュースと交換しようか?」と黒く熱いソレが入ったカップを差し出されたから、慌ててクリームメロンソーダを飲もうとした。ところがストローの中にアイスが詰まって上手く吸えないのだ。それを兄ちゃんにくすくすと笑われる。だから、ぼくも笑う。


「以前、付き合っていた人が煙草を吸う人だったからコーヒーが好きになったんだよ」

「……え、と?」


「そのうち眞昼にも分かる時が来るかもしれないね」


 兄ちゃんの伏せた長いまつ毛で言われたそれ。煙草を吸う人が好きだったからコーヒーを飲むようになったって、どういう意味なんだろう。


 喫茶店から出て、小高い丘の途中にある公園まで歩いた。陽射しが強く、汗が躍る。一眞兄ちゃんは暑いのが苦手だから白いシャツにジーパン、そして、大きな麦わら帽子という海にでもいるような出立ちだ。公園は夏休みだから賑わっていて、影のあるベンチはカードゲームをするやつらに大人気。どこの影も空いてはおらず、公園の隣にある図書館に避難することにしたのだけど、館内は冷房が効きすぎていて寒い。兄ちゃんは冷房も苦手。


「ぼくには居場所が無いみたいだね」


 そう兄ちゃんが困った顔で笑ったのだ。


 兄ちゃんが見たい本があると言うから着いていく。しばらく動いていない空気の匂いが漂う三階の奥、鉄でできた棚に挟まれた薄暗い端っこまで来た。また、マンガ雑誌三冊分くらいの大きな本を取り、ぺらぺらとめくって手を止め、指で文字を追う。下から覗き見る題名の文字が日本語じゃないのだけは分かる。それを熱心に読む目が、ぼくのことを忘れた兄ちゃんの目だったから、ぼくはふらふらと棚と棚の間を、何か面白い本がないか探して歩いてみる。


きりん、きりりん、きん。


 何かの、音……、風鈴?

 いや、違う。何だろう、これ。


 それが気になって、きょろきょろとすると、本の抜けた棚の向こうに藤原がいた。息が止まり、同時に本棚の穴に気付いた藤原も、その大きな目を、更に大きくして息を止める。目が合ったまま、ふたりの名前を呼び合うまで、どれくらいの時間がかかったのだろう。すぐに“永遠”なんて言葉が出てくる。時間が重たいだなんて知ったのは藤原のせいだ。


「藤原っ」

「関口くんっ」


 ぼくを呼ぶ、きみを呼ぶ、二人のためだけに使われる言葉が同時に出た。“藤原”という言葉を声にしただけで、ぼくを呼ぶ言葉が使われた声を聞いただけで、喉が乾く、心臓が早く打ち、身体が熱くなって足元がぞわぞわする。だから、次に言いたい言葉が……頭の中にある、どれなのか分からなくなる。


「眞昼……?」

「あっ………兄ちゃんっ。藤原っ、そこで待ってて!」


 棚をぐるりと周り、向こう側の藤原の元へ。彼女の姿は、そのちいさな身体と、細い、細い腕に抱えられた六冊の本が支配していた。そこから四冊を取って身軽にしてやる。確か、図書館で借りられる本は三冊までだ。


「これ、読んでいくの?」

「いやっ……、あの、そのお………えっとね」


「眞昼、友達?」

「あ、や。…………同じクラス」

「眞昼の兄です。いつも弟が迷惑をかけているね」

「あっ………いえ。迷惑をかけているのは、わたしのほう……」


「…………あっ!じゃなくてっ、わ、わたひっ、じゃない!わたし!藤原あかると言いますっ!」


 途中で藤原は自分が名乗っていないことに気付き、慌てたんだと思う。兄ちゃんが、宜しくね、と、微笑んでいる間、藤原は頭が取れるんじゃないかと思うくらい、お辞儀をしていた。


「藤原さんは、それを読んでいくの?」

「あっ、いえ………どれを借りればいいのか悩んでいて………」


 藤原が借りたい本は夏休みの自由課題に使う本と、今、読みたい本で六冊になるらしい。兄ちゃんが「そうだな」と、ある提案をした。それは藤原が読みたい本を借り、残りの宿題に使う本は、ぼくが借りる。図書館の規則で“本の又貸し”は禁止されているから、もうひとつの提案。


「藤原さんと眞昼は同じ課題を一緒にすればいい」


 そんな提案………困る、よ。どちらかが宿題をしようと思うたびに会わなければいけなくなる。だから、だから…………きっと、


「せ、関口くんっ、そうしても、いいですかっ?」


 藤原のぼくを見る目が大きく開いて瞳孔が絞られた。最近は、そのとろんとした大きな目に見つめられるたび、胸が、きゅっ、と、痛くなる。まさか、藤原がそんなお願いをするなんて思わなかったから「うん、まあ」と歯切れ悪く言うしかないだろ。そんなやわらかな笑顔で「ありがとお」だなんて言うなよ。


 息が苦しいんだ。


 少し冷えた薄暮の風に揺られ、風鈴の音が鳴る。ずっと気になっている風鈴の紙の名前。椅子に座って、何故か姿勢を正しく、図書館で借りてきた一冊を開いて読もうとした。だけど、心臓が早く打っていて、文字も踊るから、何が書いてあるのか読み取れない。落ち着けって、逃げるなよ『わ』。出だしのお前が動き回ると他の文章たちまではしゃぐだろ。鼓動のたび、瞳孔が、どくっ、どくっ、と、開いたり、閉じたりするのが分かる。耳の中、鼓膜が脈に揺れて、大きな音を、どくっ、どくっ、どくっ、と鳴らす。


 ………藤原の顔と、夏の服装、あせあせとお辞儀をする真っ赤になった顔、藤原らしくない力強い言葉と声でのお願い。それら“一所懸命”が頭から離れないんだ。


 お風呂に入り、夕飯を食べて、寝る支度をし始めたのに心臓はやかましかった。それを囃すように外で虫が鳴いている。ぼくの心臓はタオルケットの上から触っても跳ねているのが分かるほど強く打っていた。息が熱い、身体が熱い、眠たいのに眠たくない。


「兄ちゃん、起きてる?」

「…………起きているよ、どうかしたの?」


 きっと、一眞兄ちゃんは寝ていたと思う。だから、ぼくのためについてくれた嘘が強く打つ心臓の少し右側、胸の真ん中辺りを、きゅっと締める。タオルケットを握り、胸を押さえる。


「眞昼は藤原さんの事が好きなんだね?」

「あ………、えっと」


 兄ちゃんが頬杖をついて、微笑む。


「藤原さんも眞昼が好きみたいだ」

「っえ。いやっ…………そんなの、知らない」

「きっと、藤原さんは好いてくれているよ。眞昼も彼女を見る度、苦しいだろう?」







 それが、恋、だよ。眞昼。


 さっ、と衣擦れの音がして、肘枕をした兄ちゃんが「恋は人を強くも弱くもする。そこに理屈なんて無い。これから眞昼は図鑑や教科書、誰も教えてくれない事を学んでいくんだ」と弱々しく言って、そのまま寝てしまった。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第二話、おわり。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る