エンドロールが聞こえない。
ヲトブソラ
エンドロールが聞こえない。第一話
エンドロールが聞こえない。
…………………………
五月の空が茜色になっていく。一瞬、視界に入った春の虫の向こう、二羽のカラスの上、その雲の向こう。小さなころから頭の上には大きなお椀のような物が被さっているように思えて、妙な圧迫感を感じていた。
“空”というやつに見とれていると、いつも胸が苦しくなる。
ぼくらが見ようとするには大き過ぎる何かが、いつも小さなぼくらを見ている。
そんな事を思っていたんだ。
「おーい!眞昼ー!ボールっ!!」
「あっ、悪いーっ!!」
小学校の校庭。すこし、水はけが悪くて、あまり整備もされていない土の上を不器用にサッカーボールが転がっていく。それを追いかけていたのだけど、ボールは細い脚の前で止まった。
藤原あかる。
五年生に続き、六年生でも同じクラスになった好きな女子と言うには遠く、気にならないやつと言うにも遠い女子。すこし気になっている理由は、いつも視界のどこかにいる不思議なやつだから。
藤原の足元で止まったボールが言葉を話した気がした。ほら、声をかけるチャンスだぞ、って。藤原の大きな目ととろんとした表情に喉が鳴る。言葉や声を出そうとすると、強く跳ねる心臓が体温を上げていき、喉がからからに乾く。目が合ったのは一秒もなかったと思うのだけれど、ぼくが感じた時間は、一分、二分、一時間とかではなく、永遠とか、そういう単位の中で針が動き、数えられているみたいだった。
「関口くん……の?」
藤原が足元のボールを取ろうと前に屈んで………、頭より高い位置になった背中のリュックからノートと教科書、筆箱が、彼女の後頭部を一度打ってから、ばさばさと土に落ちていく。
「何やってんだよっ」
数歩駆け寄って「相変わらず、ぼけっとしてるね」と、すこし乱暴に拾ったノート達を差し出した。彼女の視線はぼくの目を見たままなのに、ぼくは目をそらして「藤原さ、お前、もうちょっと……」と、ようやく声になった言葉も途中で迷子になってしまう。伸ばした腕、手に持つノートと筆箱の先、そこにある藤原のちいさな手とやわらかく赤く染まった頬と、とろんとした瞳は言葉が通るべき道を迷わせる。
「んっ……せ、関口くん、ありがとお」
好きとかではないのに、あの日以来、藤原のことが気になっている。でも、この気持ちが何なのかが分からない。ボールを持って戻ると佐藤に「藤原ってさ、眞昼のことが好きなんじゃねーのっ」とからかわれ、否定をして馬鹿笑いをする。今までどおり視界のどこかにいればいい、それで充分のような気もするけど、違う。声をかければ返ってくる、やわらかく、とろんとした声が聞ければいいのかというには足りない気もする。
藤原と、藤原の、藤原を、どうにかしたいと思うのに、それが何か分からない。
よく分からないことが日に日に強く、大きくなっていく。ぼくは、この感情の正体に形と名前があるなんて知らなかったから怖くて仕方がなかった。ある夜、布団の中までうるさい心臓が寝かせてくれない代わりに名前を教えてくれた。
そいつは、初恋、と名乗った。
湿度を保ち、冷えた空気が学校の廊下をすり抜けていく。季節が梅雨に向かっていて、鉄格子から抜けた空に筆で描いたような彩雲が細く走っていた。ぼくらは来年から中学生だ。六年間も通い続けた小学校に通わない日が来るなんて想像ができない。この教室が小学校で使う最後の教室になるんだよな。そう思いながら、ぼんやりと見渡すと藤原と目が合い、彼女の顔が少し赤くなり、何事もなかったように目をそらされた。
いつものこと。随分と前から、こんなことが続いていると五年生でクラスが一緒になって気が付いた。
休み時間に紙をくしゃくしゃにしてセロテープで巻き、それをボールとしてキャッチボールをする友達たちを尻目に、外廊下から柵越しに隣接する幼稚園を見下ろす。あの小屋はうさぎを飼っていたんだっけ。あっちはアヒル小屋だ。そんなことを思いながら、どこかで藤原のことが頭を巡る。彼女は幼稚園の時から、そのおっとりした可愛いらしさで人気のあるやつだった。もちろん、ぼくも全く気にならなかったわけじゃないけれど、表現としては何となく気になる、というのが正しい。クラスが一緒になったのは幼稚園と二年生と五年生、そして、六年生の今。その他の日にも、いつも視界の片隅にいた気がする。
「……なんだかなー」
蚊が鳴くより小さく呟く。いつも、どこかにいた『ふじわら』は、休み時間の廊下や放課後にサッカーをしている校庭。たまに同じ時間になる登下校時にも目が合うことがあった。あまりにも不思議に思ったから五年生の時に「藤原?ぼくに何か言いたいことがあるの?」と聞くと「目があったのは、たまたまっ、たまたま……っ、だからっ」と首から顔、耳まで真っ赤にされて気付いた。
幼稚園で出会った時から、いつも…………、
藤原がぼくのことをよく見ていて、
ぼくも藤原のことを無意識に探しているって。
「ただいまー」
夕げ香る路地の古い家がぼくの家で、この家は“なんとか文化財”らしい。だから、自分の家なのにみんなのもので、勝手に柱とか壁に釘を打つなよ、と、父さんとじいちゃんから言われて育った。ぼくだけの部屋はなく、大学三年生になったばかりの一眞兄ちゃんと一緒の部屋。歩くたびにぎしぎしと鳴る薄暗い廊下に細い光の線ができていたから、兄ちゃんが帰ってきているのだと分かった。すこし開いていた襖の残りを開けて「ただいまー」と窓から入る夕陽に目を細める。兄ちゃんは畳の上であぐらをかいて、脚の上に見たことのない猫を乗せてあごをかいていた。
「おかえり、眞昼」
「兄ちゃん、また知らない猫入れてる」
母さんに怒られるよ、と、リュックを学習机の椅子に背負わせ、猫に顔を近付けてみると、ふいっ、と背けられた。兄ちゃんが「早速、眞昼は嫌われたね」とやさしく微笑んで猫の頭を撫でると目を閉じて気持ちよさそうに、ごろごろと喉を鳴らすのだ。昔から兄ちゃんは猫や犬、亀、蛙、動物や子どもに好かれる。弟のぼくから見てもすごく不思議な人で、そこにいる空気感を持った空気のような人。猫のように気分屋というわけではないけれど、どこか猫のような人。何かに動じるような所を見たことがないし、いつも穏やかに微笑んでいる。飄々としているというのは、こういうことを言うんだろうなと思ったから、先日、辞書を引いたら兄ちゃんのことが書かれていた。
「これ以上、相手にしていると叱られる。ほら、お行き」
開いた窓の枠に飛び乗り、名残惜しそうに猫が庭と兄ちゃんを見た。やさしく小さなため息をして、ちいさく笑い「叱られる前に行きなさい」という言葉に事情を察したのか、声を出さずに口を開けて“鳴いて”から庭に出ていった。
「兄ちゃん、また来るかな?」
「いいや、あの子はもう来ないよ」
「どうして?」
「あの子はそういう子だからだよ、眞昼」
それって答えになっていない気がする。それと大学生って暇なのかな。いつも野良猫を連れてくるし、音楽やラジオを聴いている。勉強時間もぼくと一緒、寝る時間もぼくと一緒だ。大人になったら夜遅くまで起きられるんじゃないの?
「それで……何、眞昼?」
「え?」
「何か、ぼくに聞きたいんじゃないのかい?」
「あ……っ、と。えっと」
後、すごく鋭い。だから一眞兄ちゃんには嘘をついたことが少ない。嘘がばれて問い詰められたことや叱られたこともないけれど、とても悲しそうな顔をするから嘘はつかないと決めた。頭の中で言葉を整理して声にしようとした時、とんとん、と、心地の良く襖を叩く音。
「ふたりとも夕食の前にお風呂に入っちゃいなさい」
母さんの声に一眞兄ちゃんが微笑み返事をして、ぼくはやることがあるからと「眞昼、先に入っておいで」と言ってくれるのがやさしさだと知っている。最近、ぼくは誰かと一緒にお風呂に入るのが……恥ずかしくて、苦手、だ。
暗い部屋の天井にぶら下がる常夜灯の一点。外から聞こえる虫の音が、妙に耳に残って五月蝿い。ちいさく鳴くカエル、カーテンの隙間から月の青い光が筋となって左目を照らす。
「………………兄ちゃん、起きてる?」
「うん。起きているよ」
夕方、兄ちゃんから聞かれて、すこし安心したんだ。自分から聞くには……まだ勇気がいることだったから。
「兄ちゃんは…………誰か好きになったことってある?」
「あるよ」
「好きになるって……………どんな感じ?」
「そうだなあ」
ごそっ、と、布団の擦れる音。横を見ると一眞兄ちゃんも、ぼくと同じように天井を見ながら微笑んでいた。
「いつもその人の事を考えているから、いつも頭の片隅にその人がいる。いつもその人を想っているから無意識に探してしまう。いつもその人を探しているから、よく目が合う」
目が合うと言った時に兄ちゃんが目を閉じた。しばらくして頬杖を付き、でも目は閉じたままで言ったのだ。
「眞昼は恋をしているのかい?」
「…………まだ、分からない」
そう、と言って頭を支えていた肘をくずし、腕を枕に「それが恋だといいね」と目を開いて、やさしい顔をした。そこから何を話して、どんなことを兄ちゃんから聞いたのか覚えていない。だから、多分、ぼくは眠りについていたんだと思う。
…………………………
エンドロールが聞こえない。
第一話、おわり。
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