『WONDERFUL WONDER WORLD』(改訂版)の何処かの時間軸にて
その日は、一日中、小糠雨が降っていた。
星ノ宮市の市街地から少し離れた個人経営の少し寂れた和風の居酒屋で猪口直衛は、酒を飲んでいた。
この店は確かに寂れていて、稼ぎ時だという夜七時でも客は数人。
誰も、何も、語らない。
時たま、調理場でラジオを聞いているのか寝ているのか分からない老爺に適当なつまみを頼むと出してくれる。
酒のセレクトも実に自分好みで八海山のようなブランドから新しい酒蔵の天美という珍しい酒もある。
猪口は開店と同時に適当に酒を頼み、ちまちまと烏賊の塩辛を食べていた。
そこに、一人の紳士が入ってきた。
猪口もスーツは着ているが、彼はイギリス式のスーツを着こなしている。
長身に加え、深い目鼻立ちや青い目も人を引き付けた。
だが、猪口は横目で少し見て、また、飲食に没頭した。
店主に何か言っているが無視する。
紳士、ポーは誰の許可も得ず、猪口の横に座った。
やがて、ポーの前にも似たようなものが置かれ、食べ始めた。
猪口もポーも飲んでは食べ、食べては飲んで、挨拶もしない。
どれぐらい、時間が過ぎたのだろう。
「実にお見事な、
不意にポーが言葉を紡いだ。
自分宛だと猪口は思った。
つい最近まで裏社会で『世界一の狙撃者
私刑逮捕ユーチューバーになった芸能人が逮捕され、逃亡の末、星ノ宮で突撃撮影をして、全く関係のない人間に怪我をさせ近くにいた警察及びマークしていた刑事に逮捕された。
その夜は月もない文字通り暗い夜だった。
猪口は警備の隙をついて留置場内に入った。
芸能人は叫ぶそうになったが、慌てて口をふさぐ。
「逃がしてやる」
その言葉に小声ながらも警察を罵倒していた芸能人の顔色が一気に変わった。
それが彼が得た、最後の高揚だろう。
何でもないロープで猪口は手早く背後の彼にかけると出来る限りの力で左右に引っ張った。
時間にして数分。
猪口からすれば無限とも思える時間。
目の前の、芸能人は青黒い顔で息をしていなかった。
――今、救急車を呼べば……
そんな素人臭い考えを猪口はすぐに捨てた。
そんな良心は若い時に捨てたはずだ。
刑事になって清濁を併せ呑むことを信条にした。
いくら手を綺麗にしても突っ込んだ足は抜けられないし汚れたままだ。
「猪口さん」
今の表向きの顔は刑事課の指導員なので正確には刑事ではない。
だが、東京で『刑事』として活躍していた時の部下が二人は入ってきた。
「ここからは俺たちの領分です」
そう言われて彼はコンビニで適当なビール数本を飲んで酔っ払ったふりをして帰宅した。
翌日。
テレビのニュースも新聞も私刑逮捕ユーチューバーである芸能人が留置場で自らのズボンを縄にして自殺をしたことが大々的に放送されていた。
ネットでも過激なユーチューバーは過去動画の削除や謝罪動画を公開した。
ユーザーからは『表現の自由が縮小する』という意見と『真面目な動画が少しでも救われるといい』といった意見がある。
その日。
猪口はマスコミ対応する刑事たちを横目にぼんやりとしていた。
そして、帰宅時間になった。
気が付いたら、彼に話術と戦略、お茶の淹れ方を教えた男が『一人になりたいときになれる場所』と紹介した店に来ていた。
男の名前は平野平春平。
もうすぐ、一周忌になる師匠のような男だった。
裏社会では『星ノ宮の鬼』と呼ばれ『月夜の雷帝』と恐れられていた。
色々なことが、春平が死んでから起こった。
裏も表も世界は賑やかで忙しなくて深くて曖昧だ。
だから、分からなくなる。
自分の目標や形が、どんどんかすむ。
「ロシアの諺だったかな?」
猪口も突然、言葉を出した。
すでに、客は猪口たちと一人しかいない。
「『恋とはガラス瓶のようなもので力を込めれば壊れてしまう』……」
ポーは相槌も追及する言葉も出さず、猪口の言葉を待った。
ありがたい。
「お前たち、凄いな」
その言葉にポーは猪口の顔を見た。
熱燗だった酒は既にぬる燗を通り越し冷に近い。
「人の命というものが、あれほど脆いものだとは思わなかった……」
「俺は戦争孤児なので生きるために子供のころから銃を手に生きていました。平野平親子、及び、石動肇は経緯や考え方に違いはあれど、同じことを思っているはずです……引き返しますか?」
「何を?」
「平野平家や俺と縁を切り、家族を捨て、見知らぬ土地で老後を過ごすのも中々いいと思いますが……」
「……なんか、夢で同じようなことを言われたような気がするし、俺は俺の目的のために君たちを利用する。これは、君と契約したとき覚悟したことだ」
「それを聞いて安心しました。主殿は、主殿のままでいい。俺は、そう思っています」
そこから、猪口の記憶は消える。
「お
気が付いたら、星ノ宮市街地にあるマンションの自室のベットで寝ていた。
目線の先には数年前に亡くなった妻と自分の何気ない朝食の写真の入った写真たてがある。
「下のポーさんが運んでくださったんですよ! 休日だからって昼まで寝ているのなら、孫に示しがつかないでしょ? パパも休日出勤出し……」
働き者の息子の嫁は少しため息を吐いて昼食作りに台所へ行った。
写真たての横を見れば、もう、十一時半だ。
――どれ、今日はポーから少し護身術でも習うかな?
そんなことを考えながら、猪口直衛は起きた。
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