『WONDERFUL WONDER WORLD』前後のお話

隅田 天美

第1話 親たちの苦悩 推理編

「解ってみれば、実に単純で、しかし興味深い犯行でした」


 猪口直衛は老いた政治家の豪邸の面会室でしみじみ言って、メイドが出した紅茶を静かに飲んだ。


「うん、実にいい紅茶だ。淹れ方も丁寧だ」


 これは、お茶が好きな猪口の独り言だ。


「それで、警視庁の刑事が何の用なのです?」


 既に政界からは引退しているが、眼鏡から覗く鋭いまなざしと言葉は現役の頃、そのままだ。


 ガウンを着て、前に杖をつき、高級ソファーに座る姿は今でも威厳があった。


 安物スーツの私服刑事、猪口直衛は紅茶を最後まで飲み干して答えた。


「あなたを逮捕しに来ました」


 その答えに老人は声をあげて笑った。


「面白いことを言いなさる。ある事すら杖が必要な私がどうやって人を殺めることが出来るか? 教えてくださいますか?」


 猪口は少しだけ考えて、少し不安げに言った。


「自分にとって考えること、つまり、推理することは数学で代数に正数を入れるようなものです……思い込みとは実に恐ろしいものです。『この方程式で解ける』と思い込むと他の手立てを忘れる」


 老人は猪口が何を言っているか分からない。


「刑事になって、ずいぶん経ちますから油断したんでしょうね。今回の死体すらない連続失踪事件……正確には連続殺人が妥当でしょう」


「何が言いたいのです?」


 苛立ってはいるが、極めて冷静に老人は問うた。


 だが、それにも猪口は答えず、語りだした。


「子供のころから犬や猫を飼っていました。今は、同居している孫が呼吸器官系が少し弱いので飼えませんが……当然、人間じゃないから、飼い始めの頃は所かまわず糞尿を垂れ流して始末をした思い出があります」


 ちらりっと猪口は少しだけ老人を見た。


 老人は平静さを装っているが、若干青ざめている。


 影ではない。


「この家に初めて若手の刑事と臨場したとき、実に不思議だったのが妙に臭かった。だから、臭いの元を追ったら茂みに糞があった……麻布に広い土地を持っているから近所の野良猫や野良犬のせいとも考えましたが、それにしては量が多い。鑑識を呼んで茂みにある、それを取らせてデータを求めました」


 猪口はスーツの内ポケットから一枚の書類を出した。


「この紙は糞のDNAを調べたものです。昨今の科学捜査は凄いですよ……まず、糞は雪原豹という非常に珍しい動物のもの。そこに行方不明になった議員や秘書のDNAや衣服の繊維もありました」


 にこやかに猪口は言った。


「あなたは直接的に殺しはしていないが『生きた人間を動物に食わせる』という意外な方法で邪魔な存在を消した」


 笑顔の猪口に対して老人は青から赤くなっていた。


 鼻息は荒く、唇をぐっと噛みしめている。


「ああ、そうそう。証拠ですね? これにもみんな苦労しました。でも、自分だけはすぐに解けました。これが、証拠への入り口ですね?」


 座っていた猪口は立ち上がり、本棚と本棚の間にあるラックを移動させた。


 そこには数個の画鋲が刺された壁があった。


「他のものは無視しましたが、これは俗に言う『魔法陣』ですね。それも、日本や西洋の星形じゃない。中東などで使われていた古い古い魔法陣の原型という極めて稀なもの。流石、元中東の歴史研究家だけはありますね」


 そういう前に、老人はガウンから拳銃を出して猪口に向けた。


 その顔に色はない。


 真っ白な感情のない顔だ。


「止めたまえ」


 声も静かだ。


「君に私の何が分かるというのかね? 君は、今の社会情勢を、日本の腐敗を、個々人の情けなさが分からんかね?」


 その問いに猪口はつまらなそうに言った。


「あのね、俺は刑事なわけ。仕事なの。日本がどうなろうが、俺は法を犯す奴を捕まえてブタ箱にブッコむのがお仕事。法の不備を問い詰めるのなら、あんたが直接言えばいい話でしょ? 今はパソコンもスマフォもあるんだから……」


 ぞんざいな口調の猪口は、老人の銃口など見ず、一つの画鋲を抜いた。


 すると、屋敷中が揺れ、壁が動いた。


 壁の向こうにいたのは、まさに雪原のように白い豹だ。


 檻の中だが、迫力に流石の猪口も後退する。


 老人は、いつの間にか銃を再びガウンに入れた。


「ここまで当てられたら、君を殺さないといけない……ああ、この子は、あの下衆野郎どもを食って糞をした後から、何も食べてなくてな……」


 そういうと、老人はローテ―ブルの下にある秘密のボタンを押した。


 今度は檻が上がりゆっくり、ゆっくり上がり、その豹は出てきた。


 その眼光、立ち振る舞い、気配……


 全てが『王者』の風格だった。


 猪口は距離を取るように、少しずつ下がる。


 残り一メートルもない時、猪口は死を覚悟した。


 その瞬間、空気が変わった。


――死の神


「失礼。猪口警部は食われる寸前ですか?」


 ドアに警察の制服を着た老警察官が敬礼をした。


 猪口は眼だけ老警察官に向けた。


「君は誰かね? この刑事以外は、警備スタッフが……」


 老人は言い終わる前に警察官はドアを大きく開けた。


 現れたのは警備スタッフ全員が気絶し、山のように折り重なっている。


 警備スタッフは全員、空手や柔道、拳法などの有段者である。


 前職が警察官も多い。


 その彼らを、目の前の老警察官が倒したのだ。


 老人は笑った。


――ああ、自分は何て淡い夢を見ていたのだろう?


 その時、パトカー数台分のサイレンが鳴り響き、屋敷の前で停まった。


 豹は、何故か座り込んで動かない。


 老人は杖を頼りに立ち上がり、玄関へ向かった。


 同じ歳のような老警察官が助けようとしたが、老人は拒否した。


「自分の罪は自分で背負う」


 そう言い残し、彼は玄関を開けた。

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