ありがとうくらい僕にだって言わせて欲しかった

野上けい

終話  10月3日

 暗室に一人、おおよそ1年ぶりに一人で眠るダブルベッドがやけに広く感じる。横になっても眠れず、仕方なくスマートフォンを眺める。僕のインスタグラムには楽しかった頃の写真ばかりが並べられている。一方、紗良の投稿欄は真っ白になっていた。数時間前、彼女だったとお別れをした。紗良とは1年以上一緒に暮らした。別れを切り出したのは僕からだ。だけど振られたのは僕の方だった。

 スマホの暗証番号を教えてくれなくなったのはいつだっただろう。他にも不審な行動はたくさんあった。僕が隣に座るとスマホの画面を不自然に隠すようになったり、スマホを体の下に敷いて寝るようになったり。僕も初めは指摘した。ただ、その度に浮気を疑うのかと喧嘩になった。僕はいつしか何も言わなくなった。僕は紗良と仲良くいられればそれでよかった。ただ、紗良と喧嘩したくなかった。しなくてはならなかった喧嘩を避けて来たその付けが今日、支払われた。


「ごめん。好きかどうかわかんなくなっちゃった」


 数時間前、紗良はそう僕に切り出した。僕の部屋のベッドの上だった。今日の朝一緒に目覚めたベッドだ。今朝まで仲良くしていたつもりだったのは、僕だけだったらしい。


「別れたいの?」


紗良は首を振った。紗良が僕に何を求めているかがわからなかった。


けいよりいい人には出会えないと思う。だから別れたくない。少し距離を置きたいの」


「距離を置いたら戻れるの?」


「わかんない。けど、今のままはしんどい。景の一挙一投足にイライラしちゃうの」


「例えばどんな?」


僕は紗良に尋ねるばかりで他に何も言えなかった。


「全部言ったよ。でも直らないの」


紗良は喧嘩のたびにそういった。


「ごめん。言わなきゃわかんないよ」


このやりとりも何回、何十回したかわからない。


「言っても治んないじゃん!」


紗良は絶叫した。そうなのかもしれない。だけど、それを言うなら紗良だって直らない。溜め込む前に文句を言って欲しいこと、何に怒っているのか話さないこと。僕は紗良のそう言うとこが嫌いだった。喧嘩のたびに直してと紗良に伝えた。いつもは僕が謝って終わる。その程度の喧嘩だったはずだ。だけど、今日の僕は何故かそうできなかった。多分、怒られるのに疲れてしまっていたんだと思う。


「君にだって直らないところいっぱいあるじゃん。なんで僕ばかりに言ってくるの」


つい言い返してしまった。


「そうかもしれないね。ごめんね」


「それにさ、スマホのロックだって僕に内緒で変えたよね。あれはなんなの?」


「あれは。私にだって見られたくないものだってあるもん。」


「じゃあ、ゆうきとか言う奴とのLINEトーク見せれる?」


ゆうきとは最近スマホの画面によく出てくる名前だった。


「それはやだ」


「なんで?」


「色々、景の愚痴とかたくさん言っちゃってるから」


そう言って彼女は目を逸らした。僕はすぐに嘘だと分かった。


「本当に愚痴だけ?」


「ご飯も一回行った」


やっぱりか。分かってはいた。それでも込み上げてくるものがあった。


「だよね、知ってたよ。逆に君は僕がどう思ってると思ってた?」


「薄々気づいてることはわかってた」


「そうだよね。明らかにおかしいもんね」


「ごめん」


「もういいよ。そうだね、僕も疲れた」


本心だった。疲れてしまった。紗良の不審な行動に目を瞑るのにも、一緒に暮らしていく上で喧嘩をすることにも。


「ごめん」


「いやだから、もういいって」


「よくない」


「僕のこと、まだ好き?」


答えは知っていた。これは気持ちに整理をつけるためのある種の儀式だ。


「いい彼氏だと思う。でも恋愛的にはもう好きになれない」


覚悟はしていた。それでも覚悟が揺らぐくらい、紗良の言葉は僕にとって重かった。それくらいには僕は紗良のことが好きだった。


「じゃあ、それでいいじゃん。別れようよ」


紗良は何も言わずに頷いた。口に出して自分でも驚くほどしっくりときた。もっと絶望的な気分になるとそう思っていた。ただ、僕は悲しくならないことがそれだけで辛かった。


「あのさ」


「何?」


いいかけてすぐにやめようと思った。まだ、言いたいことがたくさんあったけれど、もう言っても仕方のないことだ。


「いやもういいや」


「え、なに?言ってよ」


それはいつも僕が君に思っていたことだよ。


「ごめん、なんでもない」


「言う気分じゃない?」


僕は無言で頷いた。


「そっか。ごめんね」


「僕のほうこそごめん」


僕は何を話していいかわからず。紗良も何も言わなかった。8.8畳の部屋に沈黙が流れた。


「お腹すいたからコンビニ行ってくる」


僕は紗良とこれ以上一緒にいることに耐えられなかった。紗良はベッドでうずくまって泣いている。どうして紗良が泣くのかもわからなかったし、泣いている紗良を抱きしめるのはもう僕の仕事ではない。

 家から10分ほど川沿いを歩いた。都会にしては綺麗な川の、その水面は宵闇に紛れて黒く見えなくなっていた。住宅街を抜けるとコンビニはいつもと変わらずそこにあった。二人で夜更かしをした時によくいったコンビニだった。僕はコンビニでヨーグルトとおにぎりを買って家へ向かった。ヨーグルトは僕がコンビニへ行くといつも必ず紗良が頼むものだった。なぜか僕は無性にヨーグルトが食べたかった。

  家に帰ると部屋の電気が消えていた。机の上には合鍵と一枚のルーズリーフだけが置かれていた。


『ごめんね。今までありがとう。荷物はまた取りにきます』


また僕のルーズリーフじゃん、勝手に使わないでっていつも言ってるのに。それに馬鹿かよ、合鍵置いていってどうやって荷物取りに来るんだ。ていうか鍵しめないで出ていかないでよ。いつも文句ばっかでごめんね。でも、もう終わりなんだね。僕にだって最後くらいありがとうと言わせて欲しかった。

 買って帰ってきたヨーグルトはなぜか味がしなくて僕は半分以上残して冷蔵庫に直した。ヨーグルトはもう僕が食べないとなくなることはない。

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ありがとうくらい僕にだって言わせて欲しかった 野上けい @nogamikei

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