癇癪レコード

USHIかく

癇癪レコード

 ――あの日、癇癪をあげた僕を慌てふためきあやした母親に、誰かを動かしたという感動のような征服感を覚えた。それから僕は変わっていない。


 理知的に振る舞い、理性的な会話を交わす。社会性を持ったいい人間としての僕がボロボロに崩れ落ちていく姿は、一種の快感だ。

 あのドン引きした顔を見てみたまえ。汚らわしさと困惑を秘めた、あの引き攣った顔を見るたびに、笑うのを堪えられなくなる。


 僕が責められた時。誰かと話が合わなかった時。他人がいがみ合っていた時。

 喚き狂い、理性を失ったふりをして癇癪をあげて社会的地位を破壊するのは射精よりも心地良い。どんな脅威をも畏怖させられる。思い通りに動かし、無限の寿命を手に入れられるのだ。


 私の行動で、誰かを動かすことができるのだ。一個人でも、赤の他人を不快にできる。その事実に勃起してきてしまう。

 ある日の深夜。奥の方の渋谷の路地にあったマニア向けの店の群の中、古いレコードやCDを売っている店を見つけた。一見理性的でまともな人間である私は、『人間観察』を知らない人からすると優秀な文明人だ。地元を離れるとすぐに夜の帷に紛れ込める。さて、その店でひょいと持ち上げた表情に感銘を受けたのだ。今まで、泣き顔やキレ顔には恍惚とした表情でごまんと向き合ってきた。僕は必ず女の泣き顔で過酷なオナニーをするのだ。しかし、待たせたな……否、遅くなったぜ円堂、と言わんばかりの最高傑作が、そのオンボロな古いディスクのレーベルにあった。70sだろうか、80sだろうか。西欧人の女性の歪にひん曲げられたその顔面に、初めて見る衝撃が走った。その場でズボンにはフルボッキが一目瞭然となったのだ。


 負けたくない。絶対に負けるか。僕が、僕が。――癇癪の、王だ。


 0時47分の渋谷の路地に、狂人の絶叫が響いた。眠らない街の中でも珍しく一際閑静な店ならびの中、ふと一人の男性がその場でうずくまり、ディスクを抱きしめて、足をバタバタとしながら泣き喚き始めた。……そんな演技をしながら、周りの人間を見渡す。怒り、困惑、苛立ち、恐怖。それをみては、にやけることを止められる気がしなかった。また出禁になるだけだ。愉しくて仕方がない。


 そんな中、一人の異常な人間を見つけた。表情にはなんの感情も表れていない。美しいくらいの無表情。朴念仁とはこいつのためにあるのか。小さな丸メガネをかけた、それなりに身長の高い、薄気味悪い男。長い髪を伸ばし、死んだ瞳でこちらを見下してきた。一瞬、目が合った。


 次の瞬間、彼も蹲って喚き始めた。異様に甲高い、気持ちの悪い喚き声だった。驚くほどに顔が変化していて、潰れて壊れてしまったような顔面に私は面食らってしまい、渾身の演技を止めてしまった。拍車がかかったように嗤い続ける彼をみては、私はぼーっと座り尽くしていた。


 十数分後。狂気が続きに続いて、ふと、それは止んだ。何事もなかったかのように起き上がり、こちらを見つめてきた。


「君……下手だね。……俺の、勝ち。グフッ」


 恍惚とした狂人の表情は、涙と鼻水が顔を覆う中、それすら忘れさせるような異常な眼光と耳まで届くかと思うほど上がりきった口角に魅入ってしまった。

 彼がどこからとなく取り出した小さなナイフで、私の心の臓が突き刺された。

 その日、私の演技と寿命は終わった。不思議なことに、癇癪はあげたくならなかった。

 ――世界は、美しい。


〈了〉

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