もう何もしたくない

ころん

もう何もしたくない

 理学部研究棟は夜十時以降、節電のために非常灯以外の照明はすべて消えている。


 ――らーらら、ららーら。


 陽気な鼻歌を響かせ、軽やかなステップを踏みながら、僕は非常灯に疎らに照らされた暗闇の廊下を踊るように歩く。右手にはホウキ、左手にはチリトリを持ちながら、バックステップ、サイドステップを小刻みに繰り出す。大丈夫、この時間帯なら誰にも見られる心配はない。


――らーらら、ららーら。


 僕の顔がもう少し整っていたら。もう少し良い声をしていたら。どうだろう。

 もしかしたら、歌手になっていた未来があったのかもしれない。


 小さい頃から歌うことは好きだった。母さんが言うには、年少の頃はよくお風呂の中ででたらめな歌詞を叫んでいて、父さんに近所迷惑だと怒られていたそうだ。その頃の記憶はあまり残っていないけれど、今でも歌うことは好きだ。残念ながら僕の顔は不細工だし、低くて汚いダミ声なので、人前なんかに立てやしないが。


 だからせめて、叶うことのなかった夢に思いを馳せて歌う。

 声を荒げて。


――らーらら、ららーら。


 かつての記憶を遡り、虚しさが胸いっぱいに込み上げてきた僕は、やるせない思いの捌け口を求めて力いっぱいぐるぐると回転を始める。チリトリとホウキをヘリのローター代わりにし、地球重力圏からの脱出を試みる。

 

――ブンブンブン。


 歌うことは好きだったけれど、小学生の頃の将来の夢は歌手ではなく宇宙飛行士だった。当時の僕は父さんや母さん、学校の先生から友人まで、とにかく周囲のあらゆる人間にその夢を公言していた。皮肉なことに、その夢が自分には不相応なほど尊大な夢であったと気づいたきっかけは、父さんと母さんが誕生日に送ってくれた有名な宇宙飛行士の伝記だった。

 僕は子供だったから、宇宙飛行士になるということがどれだけ大変か、知る由もなかったんだ。だから、その本で初めて直視した現実によって、甘美な幻想は打ち砕かれた。そのあまりの泥臭さに当時の僕は面食らったのだ。

 身の丈に合わない夢を追いかけるのは苦しいことだ。そして、苦しいことは嫌いだ。短い人生なんだから、楽しいことだけをしていきたい。子供ながらにそんなことを思ったのを今でも覚えている。


――らーらら、ららーら。

――ブンブンブン。


 つまらない現実。どうやったらそんな場所に立てるのか、僕なんかには想像することすらできないほどの高みにいる人たちが世の中にはたくさんいて、いくら手を伸ばしても届かない。そのことに気づいてから、宇宙飛行士になるのは諦めた。


――ブンブンブン。

――ブンブンブン。


 夢を叶えるために、膨大な努力が必要なことはわかってる。世の中で何か望むことを成し遂げるには、多かれ少なかれ嫌なことをしなければいけない。深い谷を越えなければ、目標の山頂にはいつまでたってもたどり着けない。ただ高みを眺めているだけじゃだめなんだ。憧れの心を純粋に持つことも大事だけれど、ときには望むものと逆の方向に進むことも大切で、苦しいことから逃げていたら、いつまでも幸せにはなれない。


 わかってる。大丈夫、わかってるんだ。


――らーらら、ららーら。

――ブンブンブン。


 歌いながら、僕は回る。がむしゃらに回る。努力のできない駄目人間は回る。

 回れば回るほど、薄暗い廊下の隅に張り付いた緑色の蛍光灯がチラチラと視界に散らばり、星々となる。まるでここはちょっとした宇宙空間だと気づく。

 誰もいない廊下で。誰もいない世界で。誰もいないこの理学部研究棟で、僕は目を閉じ、緻密な空想を描く。夢が叶った世界を思い描く。


 地球重力圏からの脱出。

 宇宙飛行士。

 遠心力で肺から空気が零れていく。酸素濃度ゼロ。

 音を伝搬する空気がないせいで、世界は静けさを増していく。

 僕の喉を震わしている不格好な歌声は、もはや僕の耳には届かない。


――ブンブンブン。

――ブンブンブン。


 今この瞬間だけに限れば、幼少期に諦めてしまった尊大な夢が叶っている。

 誰かにこの気分を届けたいと思った。


 あの頃口先だけの夢を語ってがっかりさせてしまった父さん、母さん、学校の先生、友人、誰でもいい。あの頃の、周りの人すべての期待に、今この瞬間に限れば答えることができる。このまま回り続ければ、僕は間違いなく夢を体現することができる。宇宙飛行士としての姿を、母さんと父さんに見せることができる。確信がある。しっかりと宇宙飛行士になれていることを、幼少期の、あの頃のみんなに伝えなくちゃいけない。だから叫ぼうとした。


――ッ……。


 けれど、だんだんと回転数が上がってきて、とてもじゃないが声が出ない。肺から漏れる息をパクパクと無様に吐き出すことしかできない。叶ったはずの夢を、彼らに伝えることができない。今の僕にはその力がない。


――ブンブンブンッ。

――ブンブンブンッ。


 もう何も考えなくても良いように、回転を加速させることに集中する。僕は声にならない声を叫びながらチリトリとホウキを重り代わりに振り回し、慣性モーメントを蓄えていく。この回転を止めることはできないが、加速することならできる。腰を落として軸を安定させ、超音速域での高速回転を試みる。生じたソニックブームが廊下の窓を一枚一枚叩きつけるイメージを持つ。


 目が回り、すでに胃液が喉の奥にせり上がってきている感覚がある。だが当然、加速度を増したせいで、もはや事態は僕の手中にはない。意志の力だけではどうにもできない次元にたどり着いている。慣性の法則が僕の身体を捕らえている。


――ブンブンブンブンブンブンッ。


 現実はつまらない。ただただ物理法則にしたがった事象が起こるだけだ。僕が理学部物理学科で今日まで学んできたこの世の理は、すべての物事は起こるべくして起こっているということだけだった。数個の方程式にまとめられるだけの面白みのない論理が、世界を我が物顔で牛耳っている。この回転はその冷酷無情に抗うための僕の高潔な作戦と呼んでも良いのかもしれない。だとすれば意味のある行為と言えるかもしれない。


 地獄のきりもみ回転は僕の三半規管をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、口から不格好な悲鳴が漏れる。両手のチリトリとホウキはいつの間にかなくなっている。次第に惨めな気持ちになり、熱い涙があふれてくるが、それすらも遠心力に攫われてどこかへ飛んで行ってしまう。


――ブンブンブン。


 やがて回転が収まり始め、身体は宇宙空間から地上へと着地する。さんざめく星々はただの非常灯に戻り、僕の妄想は跡形もなく砕け散る。身の丈に合ったニキビ面の体躯へと強引に引き戻される。


 平衡感覚と距離感を失った視界が焦点を結ばない。気持ち悪くて、咽び泣くが、どうにもならない。ぐるぐる回る視界を固定するためにせめて必死に頬を地面にこすり付ける。無様に土下座をしながら、世界のすべてが静止してくれるのを待つ。世界が愚かな僕を許してくれるのを、ノイズだらけの思考が、この醜い小太りな僕の身体が、落ち着きを取り戻してくれるのを待つ。


 大丈夫。すべては大丈夫だ。この状況も。先ほど電話で知らされたばかりの両親の交通事故死も。すべてのことは起こるべくして起こっている。選択肢はない。二人で仲良く日帰り温泉旅行に行くと言っていた。今朝僕が家を出る前のことだ。未来を知らない僕には、その時に止めることなどできるはずもない。だから大丈夫なんだ。


 今の僕に必要なのは、すべての選択肢は無意味で、すべてのことは起こるべくして起こっていると信じること。人が一通りにしか生きられないように、過去に対する後悔や未来への努力は無意味だと思い込むこと。重要で唯一できることは、無力感を受け入れるということだけだ。夢も希望も持たない。自分には何もできないと繰り返し言い聞かせる。一通りにしか生きられないのであれば、その生き方に正しいも間違いもないのだから。過去の過ちも、これから僕の進んでいく道も、当然の結果なのだから。僕は悪くないのだから。何もできないのだから。無力なのだから。


 眩暈の収まった僕はその場で大の字で横になる。冷えたリノリウムの床が、僕の熱気を急速に冷ましていくのを感じる。


 頬の内側を歯で切ったのか、鉄臭い血の味がする。ポケットから折りたたまれたメモ用紙を取り出す。震えた文字で、病院の住所をメモしている。急いで来てくれと言われている。今この瞬間、まさに頬に感じている熱い涙と、耳に届く無様な男の嗚咽は、自分のものではないと思いたい。


 現実を受け入れる必要があるのかもしれない、とも思う。

 難しい判断だが、あいにく僕は、もう何も考えたくはない。何を考えても惨めになるだけだから。


 もう何もしたくない。動きたくない。

 すべての感情が過ぎ去ってくれるのを、こうしてひたすらに待っている。

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