第21話 勇気
翌日の夕方。
宅浪は財布とケータイを持って外に出向いた。
用件は夕食のおつかい。
兄を頼った妹に報いるため、手間のかかる料理の材料を探しに出ていた。
頬を伝う風が以前外出した時より冷たく感じる。靴を履いて外に出たのは先々週末に行った面接以来だろうか。母親が出張に行ってからは降参前提の最終面接にも行かなくなっていた。
「親離れって言えるかな」
もしくは、子が離れたんじゃなく親が愛想をつかして離れた可能性の方が高そうだ。
生活の源である通帳の記載が底をつく日もそう遠くはないのかもしれない。
「あ、ここか」
そうこう言っている間に、徒歩10分で着く計算のスーパーにいつの間にか辿り着く。
スーパー内から漏れ出てくる愉快な音楽に、煌びやかに輝く看板の照明。
宅浪は被ってきた帽子をもう一度深く押し付けると、入り口で立ち止まる。
柱に寄りかかり、ポケットからケータイを取り出すと、心情を液晶画面に模写した。
懸念は、住宅街が密集する地区の客層がほとんどだということ。
近くに小学校、中学校、高校、大学まで揃っているのもポイントが高い。買い食いする学生だったり、子連れだったりと憩いの場になっていることは確かだ。
それにこの区域は、最寄り駅から少し離れた郊外のスーパー。立地が良すぎたりする。
『まあ、知り合いに会っても俺は平然と無視こくんだがwww』
強気な威勢を不特定多数の人間にアピールした後、その領域に踏み入れる。
入った瞬間。
カゴを腕に通すか、カゴを上に乗せて運転するかを決めていなかったことを後悔した。
買い物は順調に進んでいた。
ごつごつと筋骨隆々なじゃがいもに、膨らんだような大きさで血色の良さげな玉ねぎ、指定された量より少し多いぎっしりとはちきれんばかりにパックに詰められた鶏肉の山。
紙パックの牛乳はコンビニでも売られているような有名なやつ。
それらすべて、シチュールーの箱裏の材料の指示通りに従っただけでここまで揃った。
あいつは……これだけのことで俺を認めるのだろうか。
宅浪はおよそ一週間前の、普通じゃなかったあの日を思い出す。
ナヤカが女児から女性へと変貌した、あの翌日の日のことを……
『なに? 家事をしたい?』
『うん。この姿になったからには最低限のことはできるようになりたい』
『た、たしかに……。料理ができる女はいい女だと思う』
結婚の指標にもなってくる要素だし。
『そうだよね。わたしもそう思う』
『あと洗濯もだな。あれはついつい面倒になる』
『面倒なこともわたしは文句を言わない。文句言う姿を宅浪は想像できる?』
『想像は……できないな。大体俺がいつも文句言ってるから』
『自覚あるだけ前向きだよ』
『それは皮肉と捉えていいんだよな? そうだよな』
ナヤカは苦笑を漏らした後、こう言った。
『それに、ちょうどその席は空いているみたいだし』
『主婦宣言か?』
『宅浪はそう捉えたの?』
悪気のなさそうな純粋な疑問が、宅浪の耳と顔を赤く染め上げる。
『おまっ、偉そうに言ってるけどな……粉末洗剤おおよそ半年分を洗濯機にぶちまけたという前科が……』
『大丈夫だよ』
『はぁ? あれのどこが大丈夫なんだ』
買い足したばかりの粉末洗剤を空にしておいて。
『大丈夫。大丈夫だから、安心していいよ』
『安心するもなにも、俺はなんにも……』
途端。
背中に腕が回ると、ナヤカは俺の胸に顔をうずめた。
『おい、一体……』
頼りない細い線の腕は俺の身体に巻きつき、めいっぱいにしがみつく。
顔色は窺えないけど、こんなことされたのは初めてだった。
『背、大きいね』
顔をうずめながら声を漏らす。
『……中坊くらいに抜かされる俺じゃないからな』
息も身動きもまともに取れないまま、首を明後日の方向に向けて言葉を返す。
腕は行き場を失い、どうしようもなく頭上に挙げていた。
『大丈夫だから。わたしも……同じだから』
『だから、大丈夫の理由が全然なってないんだって……』
曖昧も確証もクソもない大丈夫に踊らされる俺じゃ……
『理由? それは自分の心臓に聞いたら?』
ナヤカは一度、俺から離れると胸元を指してそう言った。
『へ? 心臓?』
『さっきからすごい音だよ。心音』
『そ、それのことかよ……それは仕方ないだろ』
同じっていうのは生理現象のことか。
じゃあ、さっきの〈同じ〉はナヤカの心臓も同じくらいに回数を増してるってこと……
『雛が巣立つ前に親鳥が巣を離れてしまう悲しさは、理解できるから』
『たとえ話か? というか、俺はこの歳になって雛かよ』
『雛だよ。社会という荒波に、勇気を持って巣立つ寸前だった雛』
『寸前って……ナヤカはさ、俺が何年家で堕落してきたのか知ってるのか?』
『初対面で自己肯定感の低い社会不適合者って紹介された』
『そういえば、サヤカはそんなふうに言ってたな。簡潔で伝わりやすい自己紹介だ』
〈自己肯定感の低い〉は今のナヤカが付け加えた後付けのような気もするけど。
『でも――わたしの見立ては……』
『でも?』
『そのとおりだった。宅浪はサヤカの言っていた通り社会不適合者だった』
『上げて落とすなよ……』
『そんな親鳥に寄生した雛を、わたしは認めたくなった』
『悪いけど、ナヤカ。言ってること矛盾してるぞ』
『わたしのことは飼育が趣味と思っていて。だから、わたしは宅浪を飼いたい』
お兄ちゃん、妹に飼われちゃうのか?
『言ってることが支離滅裂だぞ。第一、最初にサヤカを捕まえたの俺だし』
凛とした風貌で、ナヤカはもう一度はっきりと言ってみせる。
『わたしはどんなことがあっても、宅浪を拒まないから』
初対面時に感じた薄暗い印象なんか、とっくの彼方に消えていた。
『どんなことがあっても、必ず』
一緒に支え合って生きていく、そんな理想的な家族関係ならいい。
けど、アイツは違う。
自分のこと(成長した体)は後回しだ。それもいつも。
自分の身を滅ぼすまで、他人に尽くす。
そんな生き方をしていたら、いつか絶対に限界が来る。
『泣いてなど……いない。昔を思い出しただけだ』
いつか絶対……
「お客様、なにかお困りですか?」
「あ、いや、別に困ってるわけじゃないんですけどもぉ……」
背後から問いかけられた声に、宅浪は反射的に拒否を示す態度で返す。
買い物かごを持ちながら呆然と立ち尽くしていたのが原因だろう。
服屋ならまだしも、スーパーの店員に声を掛けられるなんて、思ってもいなかった。
「今日の晩御飯はなんですか?」
「えっ……?」
そして、晩御飯の献立を訊かれるなんて、思ってもいなかった。
「あ、申し訳ございません。困っていたようでしたので、つい……」
バンダナを巻きスーパーの制服を着た女性従業員は、腰まで深く頭を下げて謝罪した。
出過ぎた非礼を詫びるように、謝りすぎなくらいに誠心誠意の謝罪を。
「大丈夫です。どうして、そんなことを俺に尋ねたんですか?」
「当店、ご老人のお客様が多いので……失礼な訊き方でした」
たしかに何を探しているかより、何を作るのか献立を訊いたほうが手っ取り早い。
それが端的に目的を言って自分の目的達成だけを目指す老人なら尚更の手法だ。
でも、俺は老人でもないし、別に困っていたわけじゃない。
「いえ、どうして俺が困っていると思ったんですか、と尋ねているんです」
なぜか、そのときの俺は強気だった。
数ヶ月前に服屋でからかわれた経験が悔しかったのか、自分でも分からないけど。
「怖い顔をしていたので」
女性従業員は率直に、正直に、宅浪の顔を見つめてそう言った。
話好きで厄介な中年女性かと想像していた俺は、その顔の幼さに若干の動揺を催す。
「そ、そうでした?」
「はい。なにか思い詰めたような顔をしているように見えて……それと――」
「心配してくださってありがとうございます。今日はシチューにしようかと思って」
「ぁ、シチューですか! この時期にピッタリですね」
「はい。それでシチューの食材を一通りかごに入れたんですけど、予算はこの程度に抑えたくて……店員さんの今が旬でおすすめの野菜とかありますか?」
宅浪はケータイの画面を電卓アプリに切り替えて、店員に差し出す。
店員はすぐに握り拳を手のひらにポンっと叩いて華やかな笑顔を見せた。
「任せてください! そういうの私、得意なんです!」
数分後。
「ありがとうございました」
「手助けになったのなら、幸いです」
店員さんのおかげで予算を適当な額に収めることに成功した。
野菜の旬だったり、供給が多い季節を把握するのはマストというのがよく分かる。
しかし、もやしってなんであんなに安いんだろうな。
「なんてお礼を言ったらいいのやら……あ、名前」
「はい」
「お名前、教えてもらっていいですか?」
「……名前、ですか?」
ハッキリとしたこちらの質問に、店員はおそるおそると尋ね返した。
訝しげにも見えたが、前髪で目が隠れていたので表情までは読めない。
「ええ、またこのスーパーを利用すると思うのでよければ……」
といったところで、宅浪の額に心中で一ピースだけ懸念していた想いの冷や汗が走る。
大丈夫だよな? 自然な流れで訊いてるけど、今後のことを考えての質問なはず……
いや、違くない?
「下心とかじゃないですよ⁉ 嫌なら全然教えてもらわなくても……」
「……その反応で嫌じゃなくなりました」
「え?」
宅浪の用意周到かはたまた早とちりかも分からない弁明の披露は、嬉しいことに期待を裏切った。
「けれど、尋ねた方から名乗るというのは流儀。だとあたしは思いますよ」
綻びそうになった頬を店員はすぐに針を刺す。
「お、俺は……星石です。星石宅浪。あの、また教えてもらえたらと思って……」
「ご贔屓にしてもらうのはこちらの方ですから、落ち着いてください」
「あ、ああ……すみません」
何を焦っているんだ俺……マジでダサいぞ。
「刀に谷と書いて、
「刀谷……刀谷さん……」
宅浪は一度、そして二度とその性を無意識に呟いた。
「なにか?」
「いえ、珍しい苗字だなって」
「よく言われます。珍しい苗字なので」
レジを済ませて店を出るとき、宅浪は一度だけ振り返る。
すると、そこには逆光で表情は見えずとも身体をこちらに向けてくれてる一人の人影。
刀谷さんは、優しかった。
チョロいことで評判の俺が陶酔しきってしまうくらいには、親切で。
同時に、まるで俺が思い描いていたような自然的な助け合いの図で。
こんなことがアイツとできたら、ってこの状況を羨ましくなって。
この頼りきりな現状に、悔しくなってくる。
「俺だってこの数年間、ただ寝てたわけじゃないだろ」
宅浪はその場で立ち止まると、ポケットからケータイを取り出し液晶に打ち込む。
打ち出しては消し、打ち終えては消し、を繰り返して……
『欲しいものあるか? 安価なものなら買ってきてやる』
彼女宛てのメールは、無難な問いかけに落ち着いた。
送信先の名前【星石ナヤカ】を再度確認したあと、宅浪は勢いのまま送信してやった。
スーパーに戻るのはちょっぴり恥ずかしいけど……
これくらいしないと割に合わない。
これくらいしないと〈依存〉になる。
俺は示したい。
俺の不甲斐なさが女子中学生の手を負わせないほど、であると。
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