第20話 日常
後悔をした。
懺悔するわけではない。
時間を巻き戻してくれ。と言うわけでもない。
ただ、後悔をしたという自覚一つで、宅浪は喫茶店の扉を叩いた。
「看板。見えないのか?」
扉の前に立っていると、横から声が聞こえてきた。
見知った顔。だけど服装は長袖長ズボンのジャージ姿に、裸足サンダル。
店の裏口からわざわざ出てきたのか、随分ラフな格好で小岩は出迎えた。
「わざわざ後輩のためにありがとうございます」
「生憎、今日は定休日だ」
小岩は扉にかかった定休日の看板をカラカラと鳴らす。
「……そうですか」
「ああ。だから、コーヒーくらいしか用意してないぞ」
「エスプレッソで十分ですよ。甘いものが飲みたい気分なので」
「……それならカフェラテの方がいいと思うけどな」
さっきから言葉のチョイスが妙に甘いのは気のせいだろうか。
初めてここに相談しに来たときとは別人みたいだ。
「疲れた顔、してるぞ」
向かい合わせで席に座ると開口一番、小岩は優しく声をかけてきた。
この後、話す内容にもよるけど、たぶんこれは同情。
「連絡した通りです。ウオッカで」
「定休日だからってアルコールは置いてねーよ?」
酒を飲んで気を紛らせようなんて魂胆はダメみたいだ。
「泣いたか?」
「泣かなかったです」
「なんで?」
「なんでって。それは……」
俺にとってのサヤカは、かけがえのない……
「心の整理がまだ……つかないです」
「そうか」
慰めるような応対で小岩は答える。
「最期の姿は?」
「確認できなかったです。ちょうど立て込んでいて」
「そんな大切なときに?」
「はい……。すみません。変わってなければ、ただの幼児です」
宅浪は頼りなく謝罪の言葉を垂れる。
「いいや、攻めてるわけじゃないんだ。ごめんな」
「はい……」
「普段通りでいることは何よりも大切だ。まだ守るべき人がいるのなら」
「そうですよね……。一応、努力はしてるつもりです」
「努力じゃ足りない。その人を安心させることを約束とするんだ」
「……はい。俺もどうにか、そう装うようにはします」
果てしなく感じるのが、人間と蚊における生き死にのライン。
俺たちが感じている悲しくて怖くて寂しい身近な死は、蚊にとっては違うみたいで。
幼馴染で、一ヶ月かけて探し回り、誰よりも大切だと言っていた戦友を失ってもなお、前を向くナヤカを見て、俺は一つの可能性を考えざるを得ないのだ。
怖い、と。
「メールで言ってた伝言のメモっていうのは?」
「内容ですか? 内容は……『私は見ている』と」
「どう考えても遺書っぽいな……それ」
「はい……そうなんです」
「俺の時も成長する前に居なくなったからなぁ……参考にならないなぁ……」
「メールでもあったその『成長』というのは、あの光のことですよね……」
「ああ、そうだ。俺も間近でそれを見たわけじゃないから確証は持てなかったが、星石は見たんだよな? 実際の現場を」
「はい。突然、光が発したと思ったら二人の幼児が生まれていて……」
「今回、姿を晦ませた以外のもう一人は?」
「すくすくと成長してますよ。推定15歳の身体にまで成長しました」
「あ~……そう」
「小岩先輩?」
励ましてくれていた先輩の頬骨が若干ピクリと動いた気がした。
材質のいいマフラーを触っていたら、思わぬ刺激の静電気が指に触れたような反応。
「とにかく、星石はもう一度ここに来い」
「もう一度?」
「ああ、もう少しで分かりそうなんだ……。この謎の真相を――」
これでもサークル長。彼が言うからには間違いないのだろう。
「わかりました。また……来ます」
手が差し出された。
同じ犠牲者として、これ以上の被害を起こさないためにも……。
宅浪はその差し出された手を力なく掴んで握手を交わした後、店を後にした。
「私は見ている……ね」
※ ※ ※
十月も中旬に入り、クラスでも衣替えの季節がやってきた。
男子は襟の詰まった学ランに戻り、女子は袖が付いた。
女子は気に入るだろうが、男子の場合は首まで詰めてる人なんて滅多にいない。
そんな木の葉も散るようなつんざく風が吹く季節の中、季節外れの風が教室に吹いた。
「先週末言ったとおり、今日から仲間が増えます。さ、自己紹介」
いま、転校生?
思わず、口に出そうになったけど、他の人が既にチラホラ出ていた。
あれは受験前の三年生を担任に持つ教諭による、ほぐし冗談じゃなかったのか。
「まあ、そう言うな。お前らも喜ぶから」
先週末言っていたアレは担任教諭の期待を上回っていたらしい。僕らは全然そんなことにうつつを抜かしている場合じゃないと思うんだけど……
「星石ナヤカです」
男子諸君は見るからに一人の女子生徒に釘付けになっていた。
おまえら……。
「……えっと、それだけか?」
名前を発しただけの女子に、担任が沈黙に耐え切れず間髪入れずに訊ねる。
ナヤカと呼ばれた女子はじゃあ一つだけと添えるように、
「リボンの緩め方を教わりたいです。きつく締めすぎたので」
眉一つ変えずに発した。
この場で?
リボンの緩め方?
「……今度、先生が教えてやろうか?」
センセー、セクハラー!
異性に目がないと評判の担任教諭がいつもの調子で転校生にそう言うとクラスメイトの一人がいつもの調子で担任教諭を批難し、一瞬の沈黙は騒がしい喧騒に変わった。
「星石は家庭の事情で転校してきたんだよな?」
「はい。複雑な家庭の事情で」
複雑ってわざわざ言った。
担任も軽い説明をするつもりだったはずがすっかりたじろいでしまっている。
「そ、そうか……じゃあ、星石はそこの席な。みんな仲良くするんだぞ」
はーい、とクラスメイトそれぞれが様々な感情に満ちた相槌をバラバラに打つ。
そして相槌は次第に普段の授業間に起こるざわつきが絶えない喧騒へと姿を変える。
俺の相槌は他の男子とは違ってどちらかというと負に満ちた方で、中立も状況によっては考えなくもない構えだったが、担任教諭のいま思い出したような呼びかけでそれは完全に負に傾いた。
「ああ、佐次。席となりだからしばらくは世話係頼むな」
「は? ちょっ……先生、俺、この半年は――」
「大丈夫大丈夫。転校生の不自由がなくなるまでの間だ、それじゃ頼んだぞ」
窓際の作画コストの低いと有名な主人公席の隣に座る転校生はポツンと残されたまま、
担任教諭は概要も話さずにあっという間に教室から姿を消した。
意識したら終わりだと分かっていても。
初対面の女子と、この対面の沈黙はさすがに耐え切れそうになかった。
「あー、とりあえず自己紹介でも……俺は佐次……」
「わたしは……星石」
「そ、そっか~」
おれ、まだ自己紹介の途中だったんだけど~。
「それだけ……?」
「いや、それだけじゃないけど、星石ってお嬢様みたいだなーって」
顔と体と性格と態度、人間そのものが。
「上司はああ言ってたけど、極力話しかけなくていい」
「いや、おれの話ガン無視じゃん。あ、口に出てた」
「…………」
「えーっと、上司って先生のこと? 話しかけなくていいって、そう言われてもな……」
「今のはひとりごと? 配慮は不要だから」
すまし顔で転校生は通学カバンから教科書を取り出して、颯爽と授業の準備を始めた。
「受験生の自覚はあるみたいで何より……」
中学三年の秋、受験期真っ盛りのうちのクラスに命知らずな転校生がやってきた。
多分、嫌われる。
※ ※ ※
「学校はどうだった?」
「…………」
まさか、玄関で出待ちしているなんて想定もしていなかったのか、女子中学生はなにも言わずに鞄を肩にかけたまま、堅苦しそうなローファーを踵から黙々と脱ぎ始める。
「ああ、心配してるわけじゃないぞ。中学校という悪意のないストレス社会の洗礼はどうだったかって聞いてるんだ」
「…………」
しかし、ナヤカの口は開かないまま、なかなか解放してくれないローファーをただにらむ。
質問を返してもらえない俺に、中々靴が脱げずに問答を繰り返すナヤカ。
どちらにしても、気まずい空間だと思うんだが……
「挨拶」
ナヤカは折れるようにヒントを与えてくれた。
「あ、おかえり! あの、学校は……」
「ただいま。支度するね」
靴との激戦を終えたらしいナヤカは颯爽とビニール袋を片手にリビングへ向かった。
「あ、ああ……」
そこには、俺が思い描いた時間、転校初日という正念場をかいくぐって家に着いたナヤカの健闘を称えながらも嘲笑する時間を与えてやらないという気概をナヤカから感じた。
それではなんだ? 俺は母親の帰りを待つ息子かなにかか?
「冷やかしくらいさせてくれてもいいだろ? 俺は大人なんだからさ」
「大人……ね」
鞄を椅子に置き、時間を惜しみはしまいと制服の上からエプロンをさっさと纏う。
髪を上げて、百円ショップで買ったゴムを使って肩に広がっていた髪を頭の上で束ねると、より一層新妻感というか、頼れるお姉ちゃん感というかそういう雰囲気が出てくる。
だけど表情は変わらず、ナヤカは冷めた横顔で宅浪を見つめたままだ。
蔑む、とまではいかないけど、なんだか見下されてるようで思わず後ろ姿に毒を吐く。
「なんだよ、俺の顔見ればわかるだろ? 苦労顔だろ?」
「そうかな? わたしから見たら……宅浪は、可愛い顔をしてると思うよ」
「そんなこと言われたの二十年ぶりだ。童顔だからって馬鹿にしてるだろ?」
正確には小学校一年の頃に上級生にイジられたのが最後だ。
「今日はカレーだけど、ニンジンは……」
「入れなくていい」
「カレーのルーは中辛を買ってきたけど……」
「なら今日はカレーじゃなくていい。冷蔵庫にあるものでどうにかしろ」
「大丈夫。甘口も買ってきてるよ」
「……あまり、大人を冷やかすなよ」
「その顔。やっぱり、宅浪は子供だよ」
「どの顔が言ってんだ」
現在進行形で子供っぽいいたずら顔を見せていたくせに。
「野菜の皮むきしといてよ。準備しながらなら、話してあげる」
「ったく、仕方ないな……今日は美味しく作れよ?」
突然の母親の出張で二人きりの完全な同棲生活が始まってから、こちらも早一週間。
俺とナヤカは支え合いながら、規則正しい食生活を志して日々を送っていた。
初めはお湯を沸かせるところから教え、包丁の使い方、火の扱い方と宅浪が知っている最低限の知識をナヤカに授けると、ナヤカはスポンジのように覚えていき、今では代表的な料理であるカレーまでも作れるようになっていた。味加減は日によって違うけど。
問題はカレーしか作らないという点、すでにもう三日目だったりする。
「そろそろ剥けた?」
ナヤカは包丁を巧みにトントンと、まさにとんとん拍子でさばいていく。
さっきまで服を着ていたじゃがいもはあっという間に全裸にされている。
しかも、結構手際のいいくらいサイズは大きいまま……
「あー、玉ねぎならそろそろ……」
「一個渡されてもできない。二個同時におねがい」
「はいはい。一気に切らないと目がやられるからなー」
「違う。鮮度が落ちるから」
このやり取りも結構した。
泣き顔なんて貴重な感情起伏はいいおかずになる。他意はないぞ。
「はい、どうぞ」
「はい、どうも」
ナヤカは玉ねぎを二つ受け取ると、左手を添え丸い形に添って放射状に切っていく。
機械的に切られた玉ねぎはどれも均一の形をしていて、ついこの間まで包丁すら握ったことのない人間が裁いたものとは思えないほどの出来になっていた。
「くし切り、もう慣れてきたな」
「わたしの先生はインターネット。素人は感心してて」
『凄いじゃないか、ネットワク殿‼ 貴公は天才だ!』
誰かさんも同じようなこと言ってたな。
「十分、感心してるよ。ナヤカは初めてのことばかりで大変だなって」
不意に出た本心、だけど話をするにはちょうどいい切り出しだと我ながら思った。
「学校、うまくやれそうか?」
「いま、話すこと?」
ナヤカは玉ねぎとの激闘を終えたばかりで、鼻と目元は赤く染まっていた。
「後は鍋を煮込むだけだからいいかなって」
材料を放り込んでルーを溶かす、カレーほど人任せな料理はあまり存在しないだろう。
「仕上げはあれだけ大事って言ってなかった?」
「妹よ……君の仕上げは食事に対する冒涜だ。気分によって調味料をあれやこれやと追加するのはやめてくれ」
「多少のスパイスは愛嬌だってここに……」
「ろくな〇ックパッドじゃないから見るの辞めた方がいいぞ、それ」
たまにあるよな、いらんアドバイス書いてるやつ。余計なお世話だっつーの。
「思ってたより、稚拙な人間の集まりだった」
鍋に材料を入れながら上の空みたいな、他人事みたいにナヤカは呟く。
「学校か?」
「うん。誰かを思いやれない、自分のためだけに動く本来の性質を発揮した人間ばかり」
「それは単にナヤカが転校初日で疎外感を感じているだけじゃないか?」
あと、蚊という種族の『妙にプライドが高い』という本来の性質も関与して。
「転校生の世話係というのがわたしに付けられて」
「世話係? 実在するんだな……」
「隣の席の男子が世話係になった」
「……そうか。それで?」
「新しく……仲良くなれそうな友達ができた」
「まさか、男子と友達になったって?」
「うん……そういうこと」
ナヤカは確かに頷いた。
転校初日でここまでチャンスを無下にしない男子がいるとは思わなかった。
ナヤカのビジュアルの良さだけは、俺が一週間前から一番知っていた。
「目標を立てよう」
「目標?」
「愛想の悪いお前のことだ。どうせ盛った話をしてることは見当がついてる」
「……ま、多少は」
「カマかけてみたらこれだもんな……」
しかし、年頃の男子と接近して会話をしたという事実に間違いはない。
……なんだか胃が痛いな、ナヤカのガードは鉄壁そうなのに、胃が痛い。
「わたしの友達ラインは結構低いから」
「そういう安易なこと言わない方がいい」
「理由は?」
それはオレたちトモダチだよなぁ……? とか、トモダチならこれくらい普通ぅ……とか言って友達という免罪符を利用して一線を越える不貞な輩がいるかもしれないからだ。
というのを全部まとめてひっくるめて。
「男は勘違いするからだよ」
宅浪は男という、下半身に人格を乗っ取られることがときたまある生物を教える。
「押しつけがましく、それでいて図々しい。そういう人格者が男にはゴロゴロいる」
最も性に汚れ、押しつけを強要してきた説得力のない俺だからこそ、言えること。
「だから、自覚を持った行動をした方がいいんじゃないかなって、俺は思う」
この一週間を通して、感じて。
太鼓判を押して、自分が言えることをナヤカに打ち明けた。
「……それが目標?」
「うん。目標。ナヤカにとっての……な」
「それは、目標というより……」
「ナヤカが感じた通りに受け取ってもらえればそれでいいよ。俺も変なこと言ったわ」
「押し付けてもいいけど。宅浪なら」
そんな勘違いを汲み取ってしまうくらいに、ナヤカは魅力的な女性になっていた。
「俺、そんなこと言ってないだろ! 一体なにを言って……」
もぎゅっと。
突然、両頬をナヤカのひんやりとした両手に覆われて包まれる。
「宅浪、やっぱり可愛い顔してるね」
エプロン姿の彼女は斜めに顔を傾けると、頬の端を緩めて瞳を見つめた。
「だから、からかうな! 怒るぞ」
思考まで読まれてしまいそうで、瞳に吸い込まれるように宅浪は身動きが取れない。
「わたしはからかうよ。宅浪が勘違いしてくれるなら、からかい続ける」
「ああー……多少のスパイスどころか、致死量のスパイスが降りかかってきてるぞ」
今更目線を横に外そうとは思わないけど、マジマジと見つめるナヤカに抵抗を覚える。
「……それは、イヤ?」
羞恥が形を成して踊り狂うような激しく大人としての矜持を刺激する、抵抗力が。
「イヤ……じゃないけど、カレーより手間のかかる料理はたくさんある……ぞ」
「……うれしい」
「いま、なんか言ったか?」
「なにかは言ったかも」
目ざとい奴め。
「明日、買ってきてよ。その料理をするための材料を」
「俺がか? まあ、いいけど。あ、帰りが遅くなるっていうんならそう言って……」
「遅くならない。わたしからあなたの側を離れることは絶対に――ないから」
俺は母親の不倫を心配する子どもかよ……。
子どもより、嫉妬心は強い大きな子どもってとこか、いずれにせよ質の悪い……。
「とにかくわかった。料理は楽しみにはしなくても……」
「楽しみにしてるよ。お兄ちゃん」
やはり妹に頼られる『兄』という免罪符ぅ……。
その後、出来上がったカレーはふやふやに材料が柔らかくなっていた。
しかし、肝心な味の方はここ三日で一番良い出来だった。
「放っておいた方が美味しいんだ」
なんてナヤカの感嘆していた台詞も、純じゃない俺には期待として背中にのしかかる。
俺がまともに目標達成を目指す、普通の人間だと思われていることが異常だ。
「……そういうのは放って置きすぎると、腐り始めるぞ」
「腐っても、わたしなら上手に調理できるから」
ナヤカは目元を細めて自分の幸せを謳うように言い張る。
ほんと、異常だ。
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